第三十四話 善なる心と強い気持ち
――――ドサッ
「シルヴィア……さん?」
背後で大きな音がして、ハルトは振り向いた。いつも見上げるほど高い位置にある銀髪が、固い床の上に流れている。
「シルヴィアさん!!」
彼女まではほんの数歩の距離だったが、ハルトは瞬間移動した。肩をたたき、大きな声で呼びかけるが反応はない。
「シルヴィアさん!」
「何があった」
「それが突然倒れて。あ、針が」
「触るな」
階下から黒い翼全開で飛んできた黒谷は素早くハルトに注意し、窓際に鋭い視線を送った。微かに開いていた窓が瞬く間に凍り付き、全身が分厚い氷に覆われた悪魔の姿が浮かびあがる。
「そんな……彼がシルヴィアさんを?」
「おそらくな。くそっ、毒針か……厄介だな」
生け捕りにして問い詰めたいところだったが、焦って氷漬けにしてしまった。しかしもうそんなことに意識を割いている暇はないと、黒谷は素早くシルヴィアの身体を確認して背中に刺さった毒針を抜いた。シューシューと黒い煙が針から上がっている。その煙の濃さから、大体の効き目がわかる。一目確認して、黒谷はそれを灰にした。
「猛毒だ」
「どのくらい?」
「即死レベルだが、まだ心臓は動いてる。諦めずに方法を考えるぞ」
黒谷は素早く考えを巡らせた。彼女の心臓が完全に止まるまで、一瞬たりとも無駄にはできない。最も助かる確率が高いのは天国へ行き医療棟の天使に治療を頼むことだが、彼女をここから動かせば毒の回りが早くなる。そもそもこんな猛毒で、心臓が動いていること自体が奇跡なのだ。
「シルヴィアさん! シルヴィアさん!!」
ハルトがシルヴィアに呼びかける。こんなのが別れなんて信じたくない、絶対に目を覚ますはずだ。そう信じた祈りが通じたように、シルヴィアの身体が僅かに動いた。新緑が、現世を惜しむようにとろりと開く。
「シルヴィアさん!」
「シル」
「………………なに?」
「毒だ」
「あぁ……だめね。さすがにもう治せないわよ」
「辛いか?」
「あたしでよかったって……おもう……ていど……に」
「シルヴィアさん!」
痛そうに顔を歪め、息をするのも苦しそうなシルヴィアに、耐えきれずハルトの涙が零れる。十字架は武器までは防いでくれない。自分が近くにいて、守らなければならなかった。
「ごめんなさい。僕が近くにいれば……防護壁で守らなきゃいけなかったのに……」
「それは違う。二階は無警戒だった。囮に気がつかなかった俺のミスだ」
心優しい少年が自分を責めることの無いように、すかさずフォローした黒谷は優しい。しかし明らかにこれは自分が気を回せば防げるはずのものだったと、ハルトは首を振った。
「僕が……僕のせいだ……シルヴィアさん、ごめんなさい……」
ふふっと、柔らかい息が彼女の口から漏れた。普段の彼女よりも少し掠れた声が小さく聞こえて、ハルトは耳を澄ます。
「あたしが……ドジふんじゃっただけ……よ……こんな、死に方……ルキ……と……ローズ……なんて……えば」
「シルヴィアさん?」
途切れ途切れの彼女の声は、後半はよく聞き取れなかった。黒谷になら聞こえているだろうかと、ハルトは思わずそちらを見る。黒谷は彼女の背中の傷口を確認しながら、早口で対処法を考えていた。彼は言葉通り、まだ何も諦めていない。
「魔の力が含まれた毒を消すのは聖なる治癒の力……しかしここにはない。対象を毒に絞っても炎や氷では周囲の組織に影響が及ぶ……俺では無理か。何かないか……毒を打ち消す強い……」
「ちょっと……くろ……ゆび……わ」
シルヴィアの腕がわずかに動き、黒谷ははっと思考の海から顔をあげた。微かに聞こえた言葉の通り、黒い指輪の嵌った右手を持ち上げる。シルヴィアの瞳から光が消えかけ、眠そうに瞼が緩んでいる。しかし彼女は最後まで言葉を止めない。自分が消えたら誰が、この生真面目な男をフォローしてやれるのか。
「これか」
「ん……あげる……ごめ……ね、ひとり……のこ……」
「悪いと思っているなら行くな」
「さた……さま、も……みか……るさま……ごめん……て」
「いいか、お前だけは駄目だ。俺がどこにも行かせないし、死んだら魂追いかけて連れ戻す」
「ふふ……そ、ね」
祈るような、励ますような黒谷の言葉に、シルヴィアは力なく笑った。ほとんど空気のような彼女の声はハルトには耳を澄ましても聞こえず、二人の会話はわからない。聞こえたとしても話に割り込むのは無粋な気がして、ハルトはそっとシルヴィアから視線を外し、何気なく二人の手元の方を見る。くたりと折れ曲がった白い手首をしっかりと掴む大きな手。その間にきらりと光る、黒い指輪。
「……指輪が、光った?」
「何?」
思わず呟いたハルトの言葉に、黒谷が反応して指輪を見る。シルヴィアの女性らしい雰囲気に似つかわしくない黒い指輪は、以前見た時よりも明らかに色濃く、黒く怪しく光って異質な存在感を放っていた。
「黒谷さん。それって」
「この中には膨大な闇の力が込められている。人間になったシルの寿命を延ばしていたのはこの力だ」
「それ、どうにか使えないんですか?」
「闇の力に治癒の効果はない。しかし闇は毒よりも上位の力、上手くいけばこの強い力で毒を消せるかもしれない。保証はできないが」
黒谷は指輪をシルヴィアの美しく整った指先から外した。人間の寿命を限りなく伸ばすほどの凄まじい闇の力。開放して毒を打ち消せるかはわからないが、何もせずに彼女を失うよりはずっといい。
「おい、賭けるぞ」
シルヴィアは、返事の代わりに薄く笑った。それを肯定と捉え、黒谷は指輪へ意識を集中する。自分よりも遥かに格上の悪魔が創った指輪だ、破壊するのは容易ではない。
「くそっ、頑丈だな……おい、壊すまで心臓止めるなよ」
「……むちゃ……いわ……な……でよ」
「シルヴィアさん頑張ってください!!」
ハルトはシルヴィアを励ましながら、ぎゅっと拳に力を入れた。
(僕は……僕にも何か)
とっくに死んでいてもおかしくはないのに、最後まで意識を保とうとしているシルヴィア、そんな彼女を助けようと必死に指輪に炎を纏わせ壊そうとしている黒谷。それに比べ、自分は何と無力な事か。
(仲間なんて言っておいて、こんなに何もできないなんて)
自分の不注意で大切な仲間を危険に晒しただけではなく、それを救うこともできない。今だって、自分の立ち位置は仲間というよりただの傍観者だ。ハルトは無力な自分に苛立っていた。無意識に唇を嚙んでいたのか、血の味がする。
(悔しい)
今まで何をやってきても、こんな気持ちになったことはなかった。自分の力が足りない事が、こんなに苦しいとは思わなかった。何もできないのは、翼がないからでも人間だからでもない。ただただ、自分が無能なだけだ。
(助けたい、絶対に。何か出来るはずだ、何か……僕も、力になりたい!)
――――パァァァ
ハルトの身体を、数日前と同じ白い光が包みこんだ。
「ハルト! 壊せ!」
その眩いほどの強い光を避けるように、反射的に大きく下がった黒谷が指輪を投げる。闇の力を打ち消すのは聖なる光。治癒の効果はないので毒は消せないが、指輪を壊すことはできるかもしれない。
「やってみます」
ハルトは指輪を受け取り、力を込めた。上手くできるかなんてわからない。しかし、自分に役割が与えられたことが嬉しかった。
(お願いします……シルヴィアさんを助けて……)
ハルトは指輪に問いかけた。黒い指輪は明らかに邪悪な気配を纏わせている。しかし、人間になったシルヴィアの寿命を延ばし、五百年もの月日を支えてきたこの指輪に彼女を害する意思があるはずはないと、ハルトは確信していた。
目を閉じて、シルヴィアと初めて出会った時を思い出す。心配そうにハルトの額を覆った大きな手、中性的な色気ある声で紡がれた言葉の数々。疲れを溶かしてくれる、ほんのり甘いミルクティー。
「シルヴィアさんは死んだりしない……絶対に、僕が助けるんだ!」
ハルトの祈りに応えるように、指輪は邪悪な気配を少しずつ消していく。やがてハルトの身体を包む白い光が、指輪に吸い込まれていった。指輪はふわりと浮き上がり、目の前で白く染まってどろりと溶ける。
「……できた……?」
「お手柄だ」
――黒谷の褒めるような声が聞こえたと同時に、今度は見慣れた景色が闇に包まれた。
「えっ!? 黒谷さん!?」
急に視力を失ったように、何も見えなくなった。不安になってあたりを見回したハルトの肩に大きな手が置かれる。それが誰のものかは見なくてもわかった。
「見えるんですか?」
「当り前だ」
「僕は全く……」
「だろうな。だがもう心配ない」
黒谷の声には心からの安堵が滲んでいる。彼にだけ見える何かがあるのか、それともそう言えるだけの知識があるのか。いずれにせよ心配ないという事は、シルヴィアを救う事には成功したのだろう。彼女は今のところ、影も形も見えないが。
「あの、シルヴィアさんはどこに……?」
「闇の中だろうが、おそらく命には別状はないはずだ。指輪の力だけ借りてどうにかするつもりだったが、《《本人》》が出てきてくれるとは思っていなかった」
「本人? それってもしかして……」
『恋とか愛とか言うのもおこがましいくらい、次元が違うほどのイイオトコってことよ』
いつか黒い指輪を眺めながら言ったシルヴィアが、ハルトの脳裏に現れた。それと同時に、目の前に見た事のない一人の悪魔の姿が浮かびあがる。驚きに叫びそうになる声をなんとか堪えたハルトの耳に、脳に直接響くような、少しの甘さを含む落ち着いた声が響いた。
「お前が『新しい勇者候補』か」
彫刻のような端正な顔立ちに鋭く光る金の瞳。さらりとした黒髪は背中を覆うほど長く、背に広がる翼がしなやかに伸びる。幽霊のように身体が半透明に透けているので幻なのかもしれないが、実体がないにもかかわらずその存在感と威圧感は黒谷のそれを遥かに超えた。一度見たら忘れることができないであろう圧倒的な王者の風格を前に、ハルトは息を吞む。
「……あなた、は…………?」
長い沈黙を経て、やっと出た声は掠れていた。おそろしく整った外見をしているが、背負うオーラは恐怖そのもの。許可なく指先一本でも動かしたら死ぬのではないかと思うほどの緊張感で、ハルトはやっと立っていた。ミカエルが天使の見本のような存在だとしたら、目の前のそれは、まるで人間を地獄に連れていく恐ろしい悪魔の見本のような……
「……王……?」
地獄のマスターは黒谷だと知っているはずなのに、ハルトは自然とそんな言葉を口にした。マスターと呼ばれた悪魔はほんの一瞬驚いたように瞬きをして、すぐににやりと笑い両手を広げる。その堂々たる振る舞いは、まさしく悪魔の王だった。
「魔王だ。よろしく」
 




