第三十二話 趣味は人それぞれ
(ここはこの前行ったし……後はここと、ここ……こっちの方が近いか)
名もない私立高校の職員室で、浅黄はガイドブックを片手に連休の計画を練っていた。隣の席の理科教師が感心したようにそれを覗き込む。
「凄いですねぇ! 浅黄先生は、旅行の計画も完璧なんですね」
「いえいえ、そんな事はないですよ。でも限られた時間ですから、有効に使いたくてね」
ガイドブックには付箋がびっしりと貼ってあった。写真の下の説明文にはマーカーが引いてあり、隙間も無数の書き込みで埋まっている。世界の秘境・パワースポットと書かれた表紙のそれを食い入るように見ている浅黄の真面目な横顔を見て、理科教師は気持ち声を潜めて言った。
「例の修行ですか?」
「えぇ。でもなかなか険しい道のりですよ」
「そりゃあ、簡単になれたら今頃世界中に勇者が溢れてますよ」
ははは、と初老の教師は笑った。目元の皺が彼の穏やかな人柄を象徴するような、人気のある教師だ。
浅黄は勇者になりたいという夢を学校でも公言しているため、今やハルトだけでなくほとんどの教師や生徒がそれを知っている。面白い冗談だとネタにされからかわれる事が多いが、この教師はその話をいつも楽しそうに聞いていた。
「いやぁ、しかし浪漫ですなぁ。私ももう少し若ければ、魔王を倒す旅もお供したい所だったんですが」
「確かに、仲間というのも必要かも知れませんね。魔王は一人では倒せないかもしれませんし。先生なら賢者なんて如何でしょうか」
「良いですねぇ。では、魔王を倒す時は一声かけてくださいね」
「それは心強いです」
果たして何処までが本気で何処までが冗談なのか。連休前の世間話にしては非常識すぎるその内容に突っ込める者はいない。しかし遠巻きに、なんか楽しそうな話してるなぁ、というのほほんとした空気が漂っているのは、当の二人がこの学校でも一二を争う人気教師だからだろう。人気があるというのは強い。
「では、そろそろ行きますね。良い連休を」
浅黄は秘境のガイドブックを大切そうに抱えて職員室を出た。そんな彼に、すれ違う生徒たちがからかい混じりに声を掛ける。
「レオせんせー! そろそろ勇者になれそうー?」
「いやそれがまだなんだよ。今度こそ見つかるように祈っていてくれたまえ」
「パーティー組む時は俺も入れてよ! 剣士とかさぁ」
「私は魔法使いかなー可愛いし」
「ずるい私も!!」
「はは、危険な旅だから生徒は連れてけないよ」
「「えー」」
もちろん浅黄以外は全員冗談で言っているにすぎず、今の会話も一緒にゲームしようよ、くらいのノリだ。慣れたやりとりを繰り返し、職員室用玄関から出て最寄り駅の方向へ向かう。途中で見知った後ろ姿を見つけ、浅黄はすかさず声をかけた。
「聖夜! バイト帰りかい?」
「あ、兄さん。今終わったところだよ」
ぱっと笑顔で振り向いた好青年は浅黄の弟だ。理由あって苗字は違うがしっかり血は繋がっている。数年前に母親が亡くなり、聖夜は駅近くのマンションで父親と二人暮らしだ。浅黄は同じマンションの別部屋で一人暮らしを満喫中だが、わりと頻繁に行き来する仲のいい家族である。
「いいところに会えた! 今日は父さん遅いんだよ」
「じゃあ何か食べて帰ろうか。希望はあるかい?」
「肉!」
「いつも肉じゃないか」
「良いんだよ、美味しいじゃん。お腹いっぱいになるし」
どうせ兄さんの奢りでしょ、と上機嫌で歩く弟はちゃっかりしているが、これだけ分かりやすくたかられても悪い気はしない。大学生の聖夜のバイト代はたかが知れてるので、社会人の浅黄が払うのも当然だ。
「最近バイトはどうだい?」
「楽しくやってるよ。先生が面白くてさぁ」
「あぁ、あの妖怪美人先生?」
「妖怪は余計だって。でも美人は本当」
「それは一度お会いしてみたいものだな」
他愛ない話をしながら薄暗い通りを歩き、一軒の焼肉屋の暖簾をくぐった。煙と油と甘辛いタレの香りが食欲をそそる。どうせ明日から連休だ、スーツに匂いが付いてもクリーニングに出す時間は充分にあった。
「盛り合わせ二人前頼むよ。あとビールと……」
「烏龍茶お願いします」
「何だ、飲まないのかい?」
「明日早いんだよね。サークルの皆で旅行行くんだ」
「へぇ。何処へ?」
「中国! 聖剣見つけたら写真送るよ」
聖夜は大学では旅行サークルに所属しているらしく、休みの度にあちこち旅行している。聖剣がその辺にポンと置いてあるとは思えないのだが、知識がなければそんなものだろう。気持ちはありがたいので、浅黄は笑って頷いた。
「有難う。頼むよ」
「おっけー。兄さんはどこ行くの?」
「インドネシア」
「おぉ! 秘境っぽい」
「だろう?」
ビールと烏龍茶で乾杯し、思うがままに肉を焼き始める。カルビの焼き加減を確認していたところで、隣の席に見知った顔を見つけて浅黄は思わず手を振った。二人がけの小さな席に一人で座っていた女性が気がついて、軽く頭を下げる。
「あ、こんばんは」
「こんばんは。今夜はおひとりで?」
「えぇ、連れが急に体調を崩してしまって。予約もしていたしお腹すいたから一人で来ちゃいました」
「そうでしたか。良ければ御一緒にどうですか?」
浅黄は向かいの席をちらりと見た。聖夜も頷く。二人は共に、初対面の人とも気兼ねなく話す社交的な性格だ。こうやって飲みに行った先でばったり知り合いに会って一緒になることも、一度や二度では無かった。
「嬉しいわ。では、お言葉に甘えて」
女性はビールと箸を持って浅黄の隣に席を移した。彼女が店員に声をかけると、程なく追加の肉や付け合わせのキムチ、サラダなどが運ばれてくる。
「御一緒していただいた御礼です。どうぞたくさん食べてください」
「「ありがとうございます」」
二人は有難く受け取った。しかし当然浅黄は後で彼女の分の会計も持つつもりだ。向かいでは聖夜が興味深そうに浅黄と女性を見比べている。
「兄さんの彼女?」
「違うよ。残念ながらね」
否定の言葉に付け加えたのは当然社交辞令だ。全くそんな関係ではないのだが、浅黄はどんな時も女性への気配りを欠かさない。隣の女性もサラダを取り分けながら余裕の笑みを見せていた。
「ふふ、私も残念です。もし浅黄さんが恋人なら、秘境への旅も御一緒できるのに」
「それは良いですね。新婚旅行はモロッコなんてどうです?」
「ベネズエラもいいわよ」
「最高じゃないですか」
冗談交じりに交わす会話は二人の仲の良さを窺わせる。秘境仲間なのかな、と探るような聖夜からの視線に、浅黄が彼女を見て言った。
「紅葉さんと言うんだ。聖剣の事、実は彼女から聞いたんだよ」
「へぇ。そうだったんだ」
「私、勇者と魔王が出てくる物語が昔から大好きで。浅黄さんも同じ趣味と聞いて、いてもたっても居られなくてつい」
「いや、本当にあの本は興味深い。何度も読みましたよ」
「あ、もしかして魔王と聖剣の? 兄さんがいつも持ってる」
「そうなんだ。実はあれも彼女から貰ったんだよ」
綺麗に焼けた肉を新しい皿にいくつか載せて、浅黄は隣の席に置いた。レディーファーストだ。聖夜はマイペースにカルビを口に運びながらその様子を眺めていた。
(邪魔しちゃ悪いし、帰ろうかな。それに……)
兄と楽しそうに話している女性を見る。昔から彼の交友関係は広く、男女問わず仲がいいのでこんな事は珍しくない。お互い特定の人がいないのは知っているし、聖夜も初対面の人と話すのは嫌いでは無いのでいつもは楽しく会話に混ざるのだが、今日は何だか気が乗らない。
(何だろう……綺麗な人なんだけどな)
すっきりとした黒髪ショートに濃紅の瞳、はきはきとした話し方には好感が持てる。髪型こそ短いがボーイッシュというわけではなく、大きめのピアスと深紅の口紅が女性らしさを際立たせていた。いかにも大人な美女といった感じの紅葉は聖夜の好みではないが、性格だけでなく顔もいい浅黄と並べば本当にお似合いに見える。
(良い人そうなのに、なんか嫌な感じ)
聖夜は二人の会話に相槌を打ちながらも、彼女から漂う怪しい雰囲気に内心首を傾げていた。勇者話に目を輝かせている浅黄は何も感じていないようなので、これは自分だけの感覚なのだろう。なんか嫌な感じ、としか言いようのない雰囲気が彼女の全身を覆っている。例えるならバイト先の隣のあの洋菓子店。あの少し近寄り難い感じが何倍にも膨れ上がった感じだ。
「? どうしたんだい、聖夜」
「……え? な、何でもないよ! それで、二人は何処で知り合ったんだっけ?」
「図書館だよ。本を読んでいたら、彼女が声をかけてくれてね。一瞬ナンパかと思った」
「ふふ、浅黄さんくらい魅力的な方なら日頃からお誘いも絶えませんものね」
「そうでもないさ。しかしこんなに話の合う女性は初めてだよ。楽しくて仕方がないね」
「それは嬉しいわ。私もです」
「じゃあ、僕はこの辺で先に帰るよ。後は二人でごゆっくり」
「え、もう帰るのかい? いつもはもっと食べていくのに」
「そうよ、もう少しいいじゃないの」
聖夜は立ち上がった。もうお腹いっぱい肉を食べたし、兄の婚期を遠ざけるつもりもない。慌てて引き留めようと立ち上がった二人に首を振り、荷物を持って笑顔を作る。
「行ったろ。明日早いんだって」
「そう言えばそうだったね。気をつけて行ってくるんだよ」
「あら、何処か行くの?」
「中国だってさ」
「まぁいいわね! ご存知? 中国の山奥に……」
サークル旅行を引き合いに出せば、説得力があったのかあっさり送り出された。そのまま中国の秘境トークを始める二人に背中を向け入口へ向かう。ここは兄に任せようとやはりレジを素通りした聖夜は、美味しかったです、ご馳走様でした。と礼儀正しく店員に声をかけるのは忘れない。
(あれ?)
入口のドアを開ける寸前、何気なく店内で談笑している二人を振り返ってみた聖夜は立ち止まって目を凝らした。先程向かい合っている時は気が付かなかったが、紅葉の背中に何かがうっすらとついているように見える。半透明に透けて見えるが、蝙蝠の羽のようなものだ。
「コスプレ? 趣味かな」
ハロウィンにしては季節外れすぎるし、趣味にしては意外だ。折角勇者に憧れているのだからコウモリなどではなく女剣士とかにすればいいのに、と思いながら聖夜は遠くの二人に無言で手を振り店を出た。宣言通り真っ直ぐ家に帰ってその日は早く休み、次の日朝一の飛行機で中国へと旅立った聖夜は、その後の二人がどうなったのか知らない。
 




