第三話 人を見た目で判断してはいけない
目を覚ますと、落ち着いた木目の天井が映った。レトロなペンダントライトから放たれた柔らかな照明の光があたりを照らし、ふかふかした布製のソファーの感触がハルトを包む。
「……あれ?」
手をゆっくりと動かすと、ふわっとした感触がした。茶色のブランケットが目の端に見え、それを柔く掴む。落ち着いた洋楽の合間に微かな食器の音が聞こえ、苦手なはずの珈琲のほろ苦い香りが不思議とハルトの心を落ち着かせた。
「あら。起きたみたいね」
横になったままブランケットの感触を確かめるように握っていると、カチャカチャ鳴っていた食器の音が止んだ。代わりに聞いた事のない落ち着いた声が聞こえる。ハルトは声の主を見ようと横を向いた。長い白衣と淡いベージュのスラックス、エナメル質の黒いピンヒールのパンプスがコツコツと床を鳴らして近づいてくる。
「大丈夫?起きれる?」
やがて白衣の女性がハルトの顔を覗き込んだ。見るだけで心が安らぐ新緑の瞳に、緩く巻かれた毛先まで艶やかな銀髪。とても色気のある美人だ。
その人は心配そうにゆっくりと屈んでハルトの額を手で覆った。女性にしては骨ばった大きな手だな、とハルトは何となく思った。フレンチネイルの施された細く長い指先に、不釣り合いな黒い男物の指輪が中指を飾っている。
男性にはとても見えないのだが、おそらく骨格は女性のそれではないのだろう。しかしどちらにせよ慈しむような手のひらはとてもあたたかく、ハルトは安心するように目を閉じる。
「うん。やっぱり熱は無いわね」
彼女は満足気に頷いてあっさりと手を離した。中性的な色気を孕んだ声は彼女の性別が何であれとても魅力的に聞こえる。あたたかい手が離れていくのは少し名残惜しかったが、ハルトはそれを合図にゆっくりと起きあがった。
「顔色も随分いいわね。寝不足だったのかしら?」
上体を起こしてソファーに座ったハルトに視線を合わせて、その人はにっこりと微笑んだ。ハルトは慌てて首を振る。
「あっ、いえっ!あの。ここは……?」
「友人のケーキ屋よ。時々手伝ってるの」
ケーキ屋、と復唱して、ハルトは改めて辺りを見回した。壁際を囲むように置かれたソファー席、八人くらいは座れそうな大きな木製のカウンター、合間に四人がけの椅子席が並ぶ落ち着いた喫茶店だ。店舗は下ね、との付け足しに入口の方を見る。扉は無く、階段の手すりだけが少し見えた。二階建ての大きな店のようだ。
「あたしはシルヴィア。隣でクリニックをやっているのよ、よろしくね」
中性的な美人はシルヴィアと名乗った。ケーキ屋と白衣はミスマッチだと思っていたが、医師だと聞けば納得だ。こんな色気のある美人がやっているクリニックなら、さぞかし患者が殺到するだろう。
「あの。僕は……」
「ごめんなさいね。怖かったでしょう」
シルヴィアは眉を下げてハルトの隣に腰を下ろした。しかし何を謝られているのか分からないハルトは首を傾げて記憶を辿る。シルヴィアは困ったように頬に手を当てた。
「あいつ、あれでも結構良い奴なのよ?見た目はちょっと、いやだいぶ怖いかしらね……」
「悪かったな」
落ち着いた低い声が階段の方から響き、ハルトはびくりと肩を震わせた。公衆トイレで聞いたのと同じ声だ。あら聞いてたの、と隣でシルヴィアが悪びれもなく男を見る。ハルトもおそるおそるそちらを見ると、やはり気を失う前に会ったあの背の高い男と目が合った。
「目が覚めたようだな」
男はゆっくりと近づいてきた。ハルト達から入口までは距離があったが、彼は異常な脚の長さであっという間に詰めてきた。近くで見るとやはり大きい。天井の高さが先程より低く感じる。
「あ、あの……」
「驚かすつもりはなかったんだがな」
男はほとんど無表情でそう言った。ハルトは記憶を辿り、男の目の前で倒れたことを思い出す。ということは、この人がここまで運んでくれたのだろうか。そこまで考えて、ハルトは慌てて立ち上がった。
「い、いえっ!すみません」
「この怖い顔見て倒れたんでしょ。無理もないわ」
「お前は黙ってろ」
「いえ、そんな。違いますっ!!」
シルヴィアが男を指差してふふ、と笑う。男は彼女に鋭い視線を送ると、慌てて否定するハルトに座れと促した。
おそるおそるソファーに座り直したハルトの目の前に、一枚の白い皿が置かれる。桜色のシフォンケーキに生クリームが添えられ、傍らに桜の塩漬けらしきものが彩りを添えていた。
「春の新作だ」
男とケーキが結びつかず、ハルトは混乱した。
「えっ!あの……これは」
「ここは俺の店、それは試作品。とりあえず食え」
「えっ!!!?」
「似合わないわよね。わかるわぁ」
「黙れと言ったろうが」
「すみませんっ!」
低い声で凄まれてハルトは黙った。しかし視線の向きから考えると、男が本当に文句を言いたいのは横でケラケラ笑っているシルヴィアの方なのだろう。気安いやり取りは二人の仲の良さを感じさせる。
シルヴィアは先程『友人の店』を手伝っていると言った。その友人というのは、この男のことなのだろうか。よく見ると、黒ずくめだと思っていた服装は黒いコックコートだった。
それに気がついた時、先程まで悪の組織の親玉のように見えていた男が急にケーキ作りが得意な渋いカフェのマスターに見えるのだから、思い込みというのは恐ろしいものである。
「じゃ、あたしはお茶でもいれましょうか」
シルヴィアが立ち上がる。高いピンヒールでかさ増ししているが、もともとの身長も高い方なのだろう、細身ながら男と並んでも見劣りしないほどの長身だ。ごゆっくり、と言い残して、二人は並んでカウンターの向こう側に回っていった。
カチッ、とコンロに点火をして、紅茶の葉を棚から出したシルヴィアの隣に男が立つ。
「あいつのカウンターを見たか」
シルヴィアの耳にだけぎりぎり届く大きさに調節された低い声に、シルヴィアも同じく声を潜めて答えた。
「ええ。あんな数値なかなか無いわよ。何かの間違いじゃないの?」
「間違いでポイントは奪えんだろ…気を失う前に叫んでいたし、おそらく何かがあったな。しかし、この辺で大きな事件はしばらく起きてないだろう」
「そうね。礼儀正しくていい子そうだし、何かに巻き込まれたとしか思えないんだけど……原因はわからないの?」
「あいつの最後のポイント履歴はマイナス百万、奪ったのはライアという悪魔だ」
「え」
シルヴィアは驚きにカップを温めていた手を止めた。ライアという悪魔の名前に覚えがあったのでは無い。一発逆転地獄行きとばかりの大きなマイナスの数字にだ。
天使はポイントを与え、悪魔はポイントを奪う。自由裁量の部分は確かにあるが、何もしていない人に対して勝手にポイントを奪うことは出来ないはずだ。となると、やはりあの少年が何か良くない行動を起こしたのだろうと、二人は考える。
「放火や殺人かとも思ったが、心当たりがない様子だった。あの気の弱そうな少年が出来るとは思えんしな」
「でも他に百万ポイントも減るなんて…自殺。ってわけでもないし」
自殺は大量のポイントを奪われる一発地獄行きの大罪のうちの一つだ。五百年前にそう決まった。手を止めたまま考えるようにうーんと唸っていたシルヴィアの横で、黒谷が呆れたように息を吐く。
「生きているだろうが」
「だから違うって言ってんでしょ」
シルヴィアはシューシューとケトルが白い息を吐き出すのを見て火を止めた。茶葉とミルクと蜂蜜を用意する。疲れた時にオススメのホットドリンクだ、おそらくあの少年も飲めるだろう。
「あんたは?」
「珈琲」
答えを聞く前に二人分の豆を挽いていたシルヴィアをちらりと見てから、男は期待通りの答えを返した。彼女は普段珈琲を飲まないが、最近ミルクたっぷりのカフェオレに嵌っている。彼女だけでは豆は一人分も使わないだろう。
「とにかく、事情を聞いてみないとな」
「素直に話してくれるかしら」
「さぁな。だが聞かないと何もしてやれんだろう」
「あんたって本当見た目で損してるわよね」
シルヴィアは男を見上げた。買い出しの帰りに偶然公衆トイレから聞こえた叫び声に反応して様子を見に行き、倒れた少年を担いで来たのはこの男だ。
少年の見た目ととても釣り合わないカウンターが気になったからと本人は言うが、純粋な親切心も大きいだろう。しかし、顔を見ただけで気絶されるような威圧感のある見た目をしているせいで、誤解されることも多い。
「……別に。わかる奴にだけわかればいい」
シルヴィアの前に白い皿が置かれ、彼女は珈琲を淹れる手を止めずにそれを見た。中には小さな桜色のクッキーが三つ置かれている。
「あら。新作ね」
「それで休憩してろ。少し話してくる」
「あんたが?」
シルヴィアは再び男を見た。さて、超がつくほど真面目で不器用なこの男が、果たして初対面の少年の心を開かせるだけの話術を持ち合わせているのだろうか。少年の元へ向かう大きな背中を見送りながら、シルヴィアはクッキーをひとつ摘んだ。口の中に爽やかな春らしい風味を感じ、その新緑の瞳を緩ませる。
しかし、残念な事にこれを作った本人は爽やかさとは無縁の口下手だ。話が変に拗れる前になるべく早く助け舟を出してあげようと、彼女は手元を忙しなく動かし始めた。
二人がカウンターに向かう後ろ姿を見送って、しばらく春を感じる白い皿を眺めてから、ハルトはフォークを手に取った。淡いピンクのスポンジを一口切り分けて口に運ぶ。ふわっとした感触に優しい甘さが溶けて、あっという間に消えていく。
「美味しい……」
「それは良かった」
独り言のように零した言葉を拾って、男の方だけが戻ってきた。自分のサイズと人に与える印象を自覚しているのか、男はハルトの真正面ではなく少し離れた隣のテーブルに座った。ハルトは内心ほっとする。男が意外といい人である事はわかったが、もしも正面に座られたら緊張してケーキの味もわからなくなりそうだ。
「黒谷だ。よろしく」
「あ、水島ハルトです。初めまして」
男は座ってすぐに名乗った。ハルトも慌ててフォークを置いて自己紹介をする。黒谷と名乗った男はハルトをじっと見て、しかしそれきり何も言わなかった。無言のまま考えるように眉を寄せている姿は初対面の時は恐ろしく見えたが、彼の内面を少し知った今となってはそれほど怖くない。
「……最近、何か変わったことはなかったか?」
黒谷はたっぷりの間の後、言いにくそうにそれだけ言った。何故かは分からないがどこか気遣わしげな視線を受けて、ハルトは考える。
確かに、ある意味最近変わったことだらけなのだが、それをここで言ったところで変人扱いされるだけだろう。ハルトは不自然にならないようにそっとカウンターを確認した。
−997443。やはり大きなマイナスだ。
「……いえ。あの、ちょっと……疲れていて」
ハルトは数字がこれ以上減らないように、慎重に言葉を選んだ。昨夜母親に友人とばったり会ったと嘘をついて三点も減ったからだ。嘘ではない、とても疲れている。今日は一度死んだし、一度気を失った。心身ともにヘトヘトだった。
「そうか」
「なぁにやってんのよ」
ぎこちない二人に呆れた視線を向けながら、シルヴィアが全員分のカップを持って戻ってきた。黒谷の前に珈琲、ハルトの前にミルクティーを置き、そして自分用のカフェオレを持って迷わずハルトの真正面に座る。
「えぇと……」
「水島ハルト」
「ハルトくんね。よろしく」
何故か黒谷が紹介し、シルヴィアが人好きのする笑顔でにこりと笑う。釣られてハルトもへらりと笑った。
「ハルトくんは高校生なのよね?」
「はい。そうです」
「高校は楽しい?」
「まだ始まったばかりなので……」
「そうかぁ。これからなのね。いいなー高校生」
シルヴィアが羨ましそうにハルトを見る。大きなマグカップに入ったカフェオレを一口飲んで、背もたれに身体を預けた。
「あたしも昔は若かったのよ」
「誰でもそうだろうが」
「うっさいわね、そういうことじゃないのよ」
横で静かに珈琲を飲んでいた黒谷が呆れたようにシルヴィアを見た。外見も性格も全く違うように見える二人だが、並んで見るとこれ以上ないくらいしっくりくる組み合わせだとハルトは不思議に思いながらカップを持った。
ふんわりと蜂蜜の甘い香りがして、一口飲むと手先からお腹の奥の方までぽかぽかと温まる。美味しい、と呟くと、シルヴィアがぱっと笑った。
「今日は高校は?」
「初登校でした」
「なるほどねー。早く終わったの?」
「いえ。五時間授業で」
「お昼ご飯美味しかった?」
「食べる前に落ちちゃったのでなんとも」
「落ちた?弁当がか?」
「いえ僕がおくじ………あ」
しまった、とハルトは思った。ポンポンと弾む会話に返事をしているうちに、つい本当のことを言ってしまったのだ。もしもハルトが容疑者なら、シルヴィアの尋問のテクニックはプロ級といえるだろう。そしてハルトに詐欺の才能は無い。
「……屋上から?」
途中で言葉を止めたはずなのに、黒谷は綺麗にそれを補完した。黒谷の目が鋭く光り、シルヴィアの瞳は不安げに揺れる。
「落ちたのか」
「あ。えーと、今のは……」
「なぜ落ちたの?」
「毛玉っ、あ、いや、その……」
「毛玉?毛玉が見えたのか?」
「なんか、たまたま……?」
「なぜ駅のトイレに?」
「羽根が……あ。なんでも、なくて……」
「羽根だと?」
二人に交互に質問されて、しどろもどろになりながらハルトは答えた。もうボロが出たどころでは無い。
「わかった。ハルト」
黒谷が真剣な声で言った。冬の空のような薄墨色の瞳が真っ直ぐにハルトを映している。
「どんなに馬鹿馬鹿しく現実離れしていると思っても、それが真実ということもある。全面的に信じるから全て話せ」
でも話に天使とか出てきますよ、それでもいいんですか。と念を押したかったが、黒谷の真剣な顔を見てハルトは決意した。
昨日から本当に色んな事があったが、誰にも相談出来ずに全て一人で抱えてきたのだ。頭がおかしいと思われてもいい、とにかく誰かに聞いて欲しいという気持ちは抑えきれないほど膨れ上がって今にも口から零れ落ちそうになっている。
「実は……」
ハルトはゆっくりと、あの天使との出会いから今までの長い一日半を語り始めた。