第二十九話 ロマンを追うのは悪くない
翌日の放課後。ハルトは数学準備室へ向かう廊下を急いでいた。何しろ今日は浅黄からの三回目の呼び出しだ。いつも爽やかなあの担任の教師が怒るところは想像がつかないが、ハルトは過去二回の呼び出しをすっぽかした前科がある。今回も行かなかったら流石にただでは済まないような気がしていた。
階段を上がり、最奥にある数学準備室の看板の前に立つ。準備室といっても教材が置いてある倉庫のような狭い空間で滅多に人が立ち寄るところでは無いのだが、浅黄は好んでそこにいるらしかった。教師生徒問わずいつも多くの人に囲まれている彼のことだ、たまに一人になりたいのかもしれない。
「失礼します」
ガラリと戸を開けて中に入ると、浅黄は窓際の小さなデスクに凭れて珈琲を飲んでいるところだった。
英国紳士のようなダブルスーツは無名な私立高校の教師としては浮いているが、彼にはとても良く似合っている。就職場所を間違えているのでは、と内心で突っ込み、ハルトは中へ入った。
「ああ、待っていたよ。こちらへ来たまえ」
彼はハルトを見ると、すぐに白い歯を見せて爽やかに笑った。新しく現代版のシャーロックホームズを撮るとしたら主演は彼のような感じだろうか。今にもポケットから懐中時計を取り出しそうだ。
「あの、すみませんでした。なかなか来れなくて……」
「いいんだよ。そんな時もあるさ」
彼は雑多にものが置かれたデスクの僅かな隙間にカップを置くと、引き出しを開けてなにやらゴソゴソと探し始めた。
隙の無い外見に似合わず片付けは苦手らしく、彼の手は次々と新しい箇所を開けては閉め、コンパスやら定規やらが乱雑に置かれた机に書類を積んでは新たな山を作っていった。
1番下の引き出しに至ってはファイルが挟まって半開きのままだし、横の本棚には本が縦や斜めや横に入って時折隙間に答案用紙のようなものがはみ出している。あれは昨年の期末テストの答案なのでは? とハルトは思った。大丈夫なのだろうか。
「あった! 待たせてすまないね」
やがて浅黄が一枚のプリント用紙を持ってハルトに声をかけた時には、ハルトはその呼びかけにも気がつかないほど夢中で本棚を見ていた。初見では本の雑多な並び方の方に目が行ったが、よく見ると興味深い本が並んでいる。
「(天国と地獄……聖剣の誕生……魔王の……)」
「水島君、水島君!」
ぽん、と肩を叩かれて、ハルトはようやく本棚から目を離した。彼の肩に片手を置いて残る片手で紙をひらひらと振りながら、浅黄も不思議そうに本棚を見ている。
「本が好きなのかい? 意外だね」
「あ、いえ……内容が面白そうだなと思って」
「なるほど。やっぱりロマンがあるよねぇ」
ロマン、と言われて首を傾げたハルトは、そう言えばと考え直す。ハルトにとって最近身近になった天国や地獄、天使や悪魔は、普通の人間にとっては想像上の出来事に過ぎないのだ。少し前まで自分もそうだったのに、もうそんな事も忘れるほどハルトはそっちの世界に馴染んでいた。
「でも、先にこっちだ」
浅黄はプリントをハルトに渡した。同好会の申請書だ。
「あの。やっぱり僕……」
「いいじゃないか、子供の遊び同好会。水鉄砲も仕組みまで理解すれば勉強になるし、シャボン玉をどこまで大きく作れるかとかね。理科の先生と相談しながら活動内容を決めていこう。お互い忙しいから、活動は月一くらいでもいいんじゃないかな」
ハルトの思い付きは、一夜にしてかなりしっかりした内容にグレードアップされていた。あれから考えてくれたのだろうか。自分から提案したにも関わらず理由をつけてやめようとしていた事が恥ずかしく思え、ハルトは頷いた。
「わかりました。ありがとうございます」
「で、同好会として認められるにはメンバーがあと一人必要なんだ。心当たりはあるかい?」
「探してみます」
全く心当たりはないが、ハルトはきっぱり言った。浅黄に任せきりにして、彼のファンのミーハーな女子と活動することになるのだけは嫌だ。
「じゃあ、メンバーが決まったら教えてくれよ」
「はい」
「決まりだね。まだ時間はあるかな?」
ハルトが頷くと、浅黄は本棚に視線を戻した。興味深い本の話だ。
「君は、勇者や魔王が出てくる話に興味があるかい?」
浅黄は雑多に並んだ本棚の中から『聖剣の誕生』と書かれた一冊の本を抜き出した。
「僕は勇者に憧れているんだ」
「勇者……ですか?」
いかにもスマートな大人といった数学教師から放たれた意外すぎる夢に、ハルトは浅黄を二度見した。浅黄は本をぱらぱら捲り、挿絵が大きく描かれたページをハルトの方に向ける。そこには、石の台座に刺さった剣が、光を浴びて静かに持ち主を待っていた。
「かっこいいだろう! 選ばれし者が聖剣を持ち、魔王と戦うんだ!」
「……そうですね」
少年のようにきらきらした琥珀色の瞳は真っ直ぐ見るには気まずく感じられ、少し視線を外した状態でハルトは同意した。ハルトの知っている勇者といえば、悪魔に唆されて罪のない悪魔を大勢殺した大量虐殺犯に他ならない。知らなければ前のめりで同意できたものを、知識があるというのはいい事ばかりではないようだ。
「僕も勇者になって、魔王と戦ってみたいものだ」
浅黄が本を持っていない方の手で剣を振り下ろす仕草をする。なるほど魔王か、と考えて、ハルトははたと気がついた。そういえば、魔王というのは存在するのだろうか。
「魔王って本当にいるんですか?」
「もちろんだよ。勇者が持つ聖剣が、唯一魔王を倒せる武器なんだよ」
魔王。地獄のマスターのことだろうか、それとも別に魔王という存在がいるのだろうか。天使を憎み、絶滅させようと企む策略の悪魔。直接見たことがないのでそれしか知らないが、もしも彼が魔王であるのなら、倒してもいい気がする。
「聖剣ってどこにあるんですか?」
「それが分からないんだ。なんでも聖なるオーラというのを蓄えた人のもとへ自ずと現れるらしいのでね。僕も休日のたびに世界中の秘境をまわって修行しているんだよ」
「それはお疲れ様です」
浅黄は大袈裟に肩を竦めた。その言動は普通の生徒には冗談にしか聞こえないが、ハルトは本気で受け取って本気で心配している。浅黄が地獄のマスターだけを手っ取り早く倒してくれれば良いのだが、黒谷や瑠奈のような真っ当に働いている悪魔に無差別テロを起こすことになれば目も当てられない。そんなハルトの真面目な表情を見て、浅黄は笑った。
「君はやはり面白いね。この話を冗談だと思わない生徒は君くらいだよ」
「えっ、冗談だったんですか?」
「いやそれが大真面目なんだ」
「ですよね……あの」
「うん? 何だい?」
ハルトは迷った。浅黄に忠告すべきか、それとも温かく見守ればいいのか。迷った末に、一言だけを口にした。
「その……剣を向ける先は慎重に選んでくださいね」
「ははっ、大丈夫だよ。魔王は倒すべき存在なのだからね」
浅黄は爽やかに笑った。彼の中で魔王は絶対的な悪と決まっているようだ。一体魔王とは何なのだろう。やはり地獄のマスターなのか。
「先生。魔王の名前って知ってますか? あと、どんな感じのひとなのかわかってれば教えてほしいんですけど」
「? 魔王は魔王だろう? どんなって、悪者に決まってるじゃないか」
わけがわからないという顔をされた。
◇
(先生が勇者かぁ)
ハルトは同好会の申請書を片手に、ぼんやりと廊下を歩いていた。もし彼が聖剣を手にしたら、二代目勇者ということになるのだろうか。先代がやらかしただけにいい印象ではないが、もしも正しく力を使ってくれればこの上なく心強い味方となり得るかもしれない。
(……いや、なれるとは限らないし)
あくまで目指しているだけの状態なのだと思いだして、ハルトはゆるく首を振った。普通一介の教師がいきなり勇者になることはない。考えすぎだ。
「失礼。君は、会長の友人ではないか?」
歩きながら生徒会室を通り過ぎようとした時、すれ違った一人の生徒に声をかけられ、ハルトは立ち止まった。いつぞやの眼鏡の上級生だ。あれから何度か言葉を交わして彼が副会長だと知ったハルトは軽く礼をする。
「こんにちは。副会長」
「ちょうどよかった。ちょっと待ちたまえ」
挨拶だけしてすぐに歩き去ろうとしたハルトを手で制し、副会長は生徒会室へ戻って行った。間もなく大きなファイルを抱えるようにして戻って来た彼はハルトにそれを押し付けるように渡すと、極めて事務的な口調で言う。
「会長が事故に遭われて、両手を火傷してしまったそうだ。君にこれを頼むよう言われている」
「これ何ですか?」
「校則に関するアンケート調査だ。まとめるのを手伝ってくれ」
「えぇぇ」
副会長を前にあからさまに嫌な顔をしてしまったが、取り繕うとは思わなかった。しかし自分の左手が黒く滲むのが目の端に見え、頼まれ事を全力で突き返したいのを何とか堪える。断ってこれ以上点数を下げたくは無い。
「瑠奈先輩は?」
「会長と呼べ。会長は、傷が治るまで数週間学校を休むそうだ」
「そうなんですか。やっと出てきたところだったのに寂しいですね」
「心配だが連絡もろくに取れなくてな。一日に何十人もの生徒が生徒会室に来ては会長の怪我の具合を確認していく状態だ。仕事にならない」
「それはお疲れ様です」
副会長は明らかに疲れていた。よく見ると前回会った時よりも痩せたように見える。生徒会の業務に加え、瑠奈を心配する生徒の対応にも忙しいようだ。
「君も気になるだろうが、連日生徒会室に押しかける事だけはしないように」
「しません」
「それは良かった。では書類を頼む」
「……わかりました」
もしや自分も会長ファンだと思われているのか。副会長の言葉が少し気になったが、ハルトは大人しく仕事を引き受けることにした。
左手が褒めるように白く輝くが、全然嬉しく無い。そもそも瑠奈の両手が爛れたのだって自業自得なのだ、勘違いで襲われたハルトがフォローしてやる道理も無かった。
考えれば考えるほど沸きおこってくる苛立ちを紛らわすようにファイルを開いて内容を確認しようとしたハルトの目に、可愛い猫の形の付箋が飛び込んできた。それに書かれた歪んだ字を見て、ハルトは思わず笑ってしまう。
「ふふっ」
「何だ? 気持ち悪いな」
「いえ、何でも。終わったら持って来ますね」
思わず悪態をついてしまった副会長の減った一点は見なかったことにして、ハルトはファイルを閉じて歩き出した。我ながら単純だとは思う。しかし、腕の中に抱えるように持った分厚いファイルの一枚目、火傷した手で書いたらしき歪んだ六文字はハルトの怒りを溶かして消した。
(『ごめんなさい』……か)
真面目で努力家だが思い込みが激しいのが玉にきず。そんな健気な悪魔が早く回復するように願いながら、ハルトは帰り支度をするべく教室までの道を急ぐのだった。




