第二十八話 コミュ力は黒谷を救う
「はい、紅茶。ケーキの続きもどうぞ」
「「ありがとうございます」」
被害の無かった二階の調理台で、いつものようにシルヴィアは飲み物を注いでいた。カウンター席に座った常連の二人は温かいカップを手にほっと息を吐く。なかなかの大事件があった直後だが、一杯の飲み物は心を落ち着かせる効果があるとシルヴィアは信じていた。
「とりあえず二階が無事で良かったわ」
「そうですね。店舗は残念でしたけど……」
「後で片付けるわ」
「私もお手伝いします」
「みんなでやりましょう」
これから待ち受けている途方もない作業を思い、三人は同時にため息をついた。階下の惨状から意識を切り離し、現実逃避すべくハルトはケーキを口にする。もう何も考えたくない。
「美味しいです」
「紅茶に合いますよね」
「疲れた身体に沁みるわぁ」
シルヴィアも自分用に取り分けたケーキを口に運び、右奥のソファー席をちらりと見た。振り向かなければ見えないハルトとリリィとは違い、カウンターの中からはフロアの全てがよく見える。例えば……。
(いつまで泣いてんのかしら)
そう、泣いている瑠奈の姿である。黒谷が来てからおそらく小一時間は経ってるだろう。喉はとっくに枯れているようで、時折しゃくり上げるような声が聞こえるだけでとても静かだ。しかし身体中の水分が抜けるのではないかと思うくらいその涙は止めどなく、横に置いたティッシュも一箱使い切るのではないかという勢いでソファーの片隅に山となっている。
そしてその向かい側で、長い脚を窮屈そうに組み、腕組みをしながら椅子に凭れるように座っている長身の男が何度目かわからないため息をついているのもよく見える。彼なりに頑張って声をかけようとしているようだが、上手くはいかないようだ。
「(まさか『あの方』が黒谷さんだとは思いませんでしたね)」
「(ほんとよ。何やってんのかしらあいつ)」
「(マスターじゃなかったんですね)」
「(それなんですけど、今思い返したら確かマスターに相応しい人って言ってたかも?)」
「(なるほどねぇ)」
シルヴィアは改めて瑠奈を見た。彼女はどこまで知っているのか。しかし黒谷をマスターに相応しいと慕うならば、おそらく彼女は敵ではないのだろう。誤解も解けただろうし、もう襲われる心配もなさそうだ。
「ちょっと!! なに……あ、良かったみんないた! 焦ったー」
その時、半壊状態の階段の下からルークが息を切らして飛んできた。店舗の惨状を見て言葉通り焦ってきたのだろう、白い羽が全開に広がっている。
「何なに!? どうしてこんな……うわ、師匠がホントに女泣かせてる!」
「俺が泣かせたわけじゃない」
「あんたが泣かせてんのよ」
フロア全体を見渡しながらハルトとリリィのいるカウンター席へ歩いてきたルークは、黒谷と瑠奈のいる席を見て驚きの声を上げた。先程の小声とは違い結構なボリュームで放たれた言葉に黒谷が反応するも、その抗議はシルヴィアに即否定される。
「修羅場も回避出来ない奴にモテる資格はないわ」
「いや、師匠は天然っしょ。むりむり」
もはや小声でも何でもない堂々とした陰口を叩きながら、ルークがハルトの隣に座った。彼が来たことで空気の流れが変わったのをチャンスと捉えたのか、黒谷もゆっくり立ち上がってカウンターに向かってくる。
「で、何があったのさ。下やばかったし只事じゃないだろ」
「ほら、生徒会長だよ。うちの」
「あーあの武器マニア……? あっ! じゃマスターじゃなくて……うわぁまじか」
ルークが瑠奈を二度見したのとほぼ同時に、黒谷が無言でカウンターの内側に入った。苦虫を噛み潰してそのまま飲み込んだような何とも言えない表情でシルヴィアの隣に立つ。
「(どう? 話できそう?)」
「(必要なことは話したが、あれじゃ聞いているのかどうかもわからんな)」
「(もう少し落ち着かないと無理よね)」
「(黒谷さんがいたら逆効果かもしれないですね)」
「(いやむしろ抱きしめてキスとかしたらびっくりして涙止まんじゃね?)」
「(ちょっとルーク、なんてこと言うのよ!)」
「(こいつにそんなの出来るわけないじゃないの。クソ真面目なんだから)」
「(……お前ら他人事だと思って)」
思いつきでとんでもないことを言ったルークは完全に愉快犯だが、小声で話しているあたりに一応の配慮は感じられる。しかし一気に騒がしくなるカウンター周りにもう収集がつかないと判断したのか、シルヴィアが代表してカウンターの内側から動いた。
「……ったく、仕方ないわね。貸しはでかいわよ」
いつの間に用意していたのかケーキと珈琲を載せたお盆を手に瑠奈の隣に堂々と腰掛けたシルヴィアの勇姿を、ハルト達が見守る。
「(うわ、シル姉勇者)」
「(何であいつが行くんだ)」
「(もう隣に座ってますよ。流石シルヴィアさんだ)」
「(あ、もう泣き止みました! 凄いです)」
「(背中さすってる……おっ、抱き締めた! シル姉やるぅ)」
「(頭なでなでしてますね)」
「(何を話しているんでしょうか?)」
「(さぁな。何度見ても意味がわからん)」
ソファー席からの会話は聞こえないが、今やカウンター席にいる全員が振り返り、露骨にシルヴィアと瑠奈の行動を見ていた。最初こそ警戒心と敵対心の籠った目でシルヴィアを見ていた瑠奈は、話し始めて僅か数分で涙目で頷き始め、今やシルヴィアの腕の中におさまっている。その信じ難い光景にカウンター席に座っている三人は驚きの表情を浮かべ、黒谷は感心したように頷いた。彼はシルヴィアの化け物じみた社交術に常々敬意を払っているのだ。
「……魅惑の悪魔って、シル姉の称号じゃね?」
ぼそりと呟いたルークの言葉に、全員が頷いた。
◇
「ほら。交代よ」
瑠奈を落ち着かせたシルヴィアが戻ってきた。入れ替わりに黒谷が行き、今度は瑠奈の向かいではなく隣に座る。会話は聞こえないがぽつぽつと話しているらしい姿を見て、シルヴィアが安心したように視線を外した。いつまでも見ていては悪いと、ハルト達三人もそれぞれ立ち上がる。
「じゃ、店舗の掃除してきます」
「私も」
「めんどいけどしゃーないか」
「あたしも後でいくわね」
階段を降りて行った三人を見送って、シルヴィアは黒谷と瑠奈に再び視線を向けた。黒谷の作ったケーキを食べようとしているようだが、両手を火傷したばかりの瑠奈はフォークを持つのも難しいようだ。何度か落としそうになっているのを見兼ねて、黒谷が代わりにフォークを掴み、瑠奈の口元に近づけて食べさせている。
真面目な顔をしている黒谷からは純粋な親切心しか感じないが、瑠奈は真っ赤な顔で動揺していた。可愛らしいなと、シルヴィアは微笑む。
(結構良い雰囲気じゃない。邪魔しちゃ悪いかしらね)
最初はどうなる事かと思ったが、泣き止んだ後は落ち着いて話が出来ているようだ。このまま今日は二人きりにした方が良いだろうと店舗に降りようとすると、不意に瑠奈と目が合った。
「(大丈夫よ。邪魔しないから)」
ほとんど声を出さずにそう言って、安心してという意味を込めてひらりと手を振る。しかしなぜか、瑠奈は慌てた様子で立ち上がってこちらに歩いてきた。長年片思いしていた人と二人きりになれるにしてはその表情には甘さの欠片もなく、顔色は青ざめ、黒真珠のような瞳は真っ直ぐにシルヴィアを見ている。
「どうしたの? 下で掃除してるからあいつとゆっくり話して……」
「駄目です! お願いですからここに居てくださいませ」
「何でよ。お邪魔でしょ!?」
「いいえ! 助けてくださいお姉様」
「あたしはあんたの姉じゃないわよ」
「何だ? どうした?」
シルヴィアの腕にしがみついて叫ぶ瑠奈は完全に混乱している。不審に思った黒谷も立ち上がって歩いてきた。彼に手ずからケーキを食べさせてもらうなんて滅多にない事、ここぞとばかりに甘えればいいものを、瑠奈は何故か黒谷を涙目で睨んでいる。
「クロム様のせいですわよ! あんなの……ケーキの味もしませんわ!」
「あぁそういう事か。それは悪かったな。もしかしたら砂糖が足りなかったのかもしれん」
「いや全然そういう事じゃないわよ。馬鹿なの?」
「いいえむしろ逆です! 甘すぎて胸焼け致しますわ! どうにかしてくださいお姉様」
「何であたしがどうにかすんのよ」
「ん? 逆か? もっと砂糖を減らすべきか……」
「見当違いにも程があんのよあんたは!」
必死の形相の瑠奈を見て、これは推しのアイドルが急に至近距離に来た時の反応だな、とシルヴィアは理解した。片想いを拗らせすぎるとこうなるのか、と呆れながらも納得する一方で、何故か古典的なテンプレ勘違いを天然で繰り出した黒谷の頭を引っぱたきたい衝動に駆られる。他人の事にはムカつく程に察しがいい癖に、自分の色恋が絡むと何故こうなるのか。
「助けてくださいお姉様! クロム様がフォークを……もう死にそうです」
「あぁそういう……悪かった、つい我慢できず手が出てしまって」
「なんか言い方が不穏ね」
「今のもセクハラに該当すると思うか?」
「基準が人によるから難しいのよね」
「セク……駄目です! あなた様ともあろうお方が、そんな言葉を口にしてはいけませんわ!」
「あんたクロムの事何だと思ってんのよ」
「クロム様は尊いお方、私のような下賎なものに気遣いなど不要です! 手が使えないなら這いつくばって食えと命じてくださればいくらでも」
「いやそんな事全く思っていないが。しかしそうだな……今度手をあまり使わなくても食えそうなケーキを考えてみるからまた来い」
「お前なんか犬用のケーキで充分だと言うことですわね! 勿論ですわ!」
「どうしてそうなるんだ」
「……もう勝手にやってなさいよ」
神聖視する推しとの距離の近さに動揺を隠せない瑠奈と噛み合わない会話を繰り返す黒谷に挟まれて、この二人の間に何かが生まれるかもと一瞬でも思った自分が馬鹿だったと、シルヴィアは持ったばかりの雑巾を手に大きな溜息をつくのだった。




