第二十六話 女の武器は涙だけではない
シルヴィアの朝は、一杯のカフェオレと消毒薬の匂いから始まる。
カーテンを開けて寝起きの跳ねた髪をシャワーで流し、少し時間をかけて鏡に向かう。化粧品には拘るが、装飾品の類は黒いホイッスルと十字架、右手中指の黒い指輪だけだ。それにいつもの白衣を羽織って身支度は完了。服装はシンプルで動きやすく、ヒールも流石に自重する。
次はバルコニーで育てている草花の手入れ。彼女がブレンドしたハーブティーは黒谷の店でも人気のドリンクだ。しかし彼女自身はハーブティーはしばらく飲んでいない。ほとんどものが置いていないキッチンで自身のためにいれるのはミルクのたっぷり入ったカフェオレだ。朝食は黒谷のところに行くか、買い置きのパンなどを軽く食べる。何百年か前に目玉焼きを作ろうとして小火騒ぎをおこして以来、電子レンジとケトル以外の調理器具は全て没収された。
「シルヴィア先生! おはようございます」
「おはよう聖夜くん。今日も早いのね」
大きめのマグカップを持ったまま待合室の小さなテレビでニュースを見ていると、最近バイトで雇った爽やかな青年が箒を片手にやってきた。聖 聖夜という冗談のような名前のこの青年は、開店前はバイト代が出ないのだからぎりぎりに来ても構わないと何度も言ったにも関わらず、毎日きっちり三十分前には店の前の掃き掃除を終えている。特に敬虔なクリスチャンでも悪魔祓いでもなく、人命救助すらした事が無いという彼の左手に刻まれたカウンターは7452248。彼の周りの悪魔は本当に仕事をしているのかと疑うような数値だ。
「外、もう並んでましたよ」
「いつもの人達でしょ?」
仕方ないわね、と言いながらシルヴィアは立ち上がった。並んでいるのは皆常連、それ程混んでいるわけではないここへ何故か異様に早く来る。
「開店時間に来たって待つわけでは無いでしょうに」
「早く先生に会いたいんじゃないですか?」
あはは、と青年が笑った。なんの含みもなさそうな爽やか笑顔は多くの女性を虜にするだろうが、シルヴィアはいつも冷静にそれを受け流している。好青年だとは思うがそれだけだ。
「はいはい。じゃあ早めに会ってあげるわよ」
「了解です」
言われた訳でも無いのにシャッター側へまわり、力仕事を積極的にこなす青年は確かに気が利いている。きっと彼のカウンターはまた増えているのだろうと何となく思いながら、シルヴィアは診察室に入った。
「シルヴィア先生。今朝から腰が痛くて歩くのも大変で」
「昨日のボウリング大会張り切りすぎたんじゃないの? 湿布出しとくから帰って寝なさい」
「先生。頭がガンガンする」
「何時まで飲んでたの?」
「朝……五時?」
「なら普通よ」
駅前の大きな病院ならともかく、個人経営の小さなクリニックには重症患者は滅多に居ない。大抵が健康相談か、近所の暇なお年寄りが話しに来るだけだ。持ち前のサバサバした性格であっという間に患者をさばいていくシルヴィアは、その何十年経っても全く変わらない見た目から、近所の常連達に妖怪美人先生というあだ名で呼ばれている事を知らない。
「はい。お疲れ様でした」
今日は午後から休診だ。シャッターを閉めて解散を告げたシルヴィアに、聖夜が頭を下げる。
「お疲れ様でした。先生」
「気をつけて帰ってね」
「はい。先生はまた隣ですか?」
聖夜は隣の建物を指した。黒谷の店だ。彼はシルヴィアがよく隣で店番をすることを知っているが、店には一度も来た事がない。
「今日は買い物しに行くのよ。でも店は開けるって言ってたわ」
「そうなんですか」
「今度来ればいいのに。ご馳走するわよ」
「いえ何というか……少し、入り難くて」
いつものはきはきとした口調の彼には珍しく、聖夜は言葉を探すように視線彷徨わせた。何だろう、と首を傾げたシルヴィアと目が合うと、困ったように頭を搔く。
「相性が悪いんですかね?」
「まぁそういう事もあるわね」
シルヴィアはあっさり頷いた。人間には時々彼のような勘の鋭い人がいる。黒谷はあんな性格だが、種族としては紛れもなく悪魔だ。彼の蝙蝠のような羽までは見えなくても、何となく避けた方が良い雰囲気を感じ取っているのかもしれない。
「ではお疲れ様でした」
「お疲れさま。また来週ね」
再びシルヴィアに一礼をして、彼はあっさり帰宅した。その背中が見えなくなるまで見送り、静まり返った待合室で大きく伸びをして白衣を脱いだら、今度は外出用の靴に履き替えて外に出る。今日は午後から出かける予定だ。
(そろそろ出来たかしらね)
最寄り駅前の大きな信号を渡って改札を通り、中心街まで電車に乗る。華やかな場所は心落ち着く場所と同じくらい好きだ。自然と心が浮き立つのを感じるままに、慣れた足取りで向かった先は一軒の靴屋だ。
「こんにちはー」
「おぉ、シルヴィアちゃん! あれ出来てるよ。バッチリ!」
挨拶もそこそこに、彼女をシルヴィアちゃんと呼ぶ初老の店主はその銀髪が見えた途端に棚に向かった。カウンター越しに軽い世間話をして間もなく、一足の靴がカウンターに載せられる。
「でも、言われた通り作ったけどよぉ。本当にこれでいいのかい?」
バッチリ、と言った割には少し戸惑ったような店主の態度には心当たりが大いにあった。なのでシルヴィアは気にする事無くそれを持ちあげる。以前ライアの件で駄目になったのと同じ、黒いパンプス。八センチの高いヒールはずしりと重い。
「うん。良いじゃない」
靴底を爪で弾き、ヒール部分を持って机にゴンゴンと打ち付ける。金槌のような重い金属音が店に響いた。
「言われた通り鉄板仕込んだけどよぉ」
「ありがと。いい感じよ」
シルヴィアは満足そうに頷いた。今回初めて、彼女は靴をとにかく頑丈に作るようにオーダーした。履くものなので重すぎて歩けないのは困るが、これくらいの重さなら少し練習すれば慣れるだろう。
そう、ライアの件で彼女は学んだのである。靴は凶器になり得ると。
パンプスを振りかぶり、入口付近に誰もいないのを確認して投げる真似をした。程よい重さでいい感じだ、きっといい武器になるだろう。
「何に使うんだい?」
「決まってるじゃない。履くのよ」
「お、おう。そうか」
およそ履きものを持っているようには見えない格好で、シルヴィアは平然と答えた。カウンターの向こうでは店主がやはり戸惑いの表情を浮かべているが、彼女が変わっているのはいつもの事なのであまり気にしてはいない。
「ありがと。また来るわね」
「おぉ。こっちも研究しとくよ!」
用が済んだので別れの挨拶を口にすると、兼ねてより『絶対に壊れない靴』を追求している店主は、どこか嬉しそうに声を張り上げた。流石職人、とシルヴィアも笑顔で手を振り店を出る。次に店を訪れる時には新技術がうまれているかもしれない。
(さて、次は……)
主な目的は達したが折角来たのだし、と次は駅前の百貨店へと向かう。物欲が余りあるという程では無いが、折角買いに来たからには一切遠慮せずに買いまくるのが彼女流だ。
(えっと……何が欲しいって言ってたっけ?)
化粧品売り場で春の新色を買い込み、調理用具売り場をのぞく。黒谷は滅多にここまでは来ない、ならばこの機会に欲しがっていたものを買っておこうとシルヴィアは気を利かせていた。
(ミルクパン、だっけ?)
確か黒谷に以前欲しいものを聞いた時は、片手で扱えるミルクパンが欲しいと言っていた気がする。
(ミルク、パン……? パン? パンが食べたいのかしら?)
おそらく黒谷が欲しがっているのはミルクを温める時などに使う小さな片手鍋の事なのだが、調理器具に疎いシルヴィアには伝わっていなかった。その名称からミルク味のパンかとあたりを付け、仕事の合間に片手で食べられる形状のものが良いのかと推測する。
(そんなに忙しいのかしらね?)
いつもはどんなに忙しくても三食きちんと作って食べる彼が、食事を取る時間も惜しいとは珍しい。シルヴィアはそんなことを考えながら、今まさに片手鍋が並んでいる棚の横を素通りして調理器具コーナーを出ていったのだった。
◇
両手にそれぞれ違う柄の紙袋をいくつも持って、シルヴィアは上機嫌に帰り道を歩いていた。既に陽は落ちて辺りは薄暗く、そろそろ店も閉まる頃だろう。今日は珍しく黒谷が一人で一日店を開けるというのだが、おそらく客は来ない。
「ただいまー」
CLOSEDの看板を気にせず扉を開けて、シルヴィアは中に入った。ちょうど掃除をしていた黒谷が布巾をショーケースの端に置き、シルヴィアの両手から紙袋を奪う。
「随分買ったな」
黒谷はそれだけ言うと、すぐに大量の紙袋を持ったまま階段を上がった。嫌味ではない。元来物欲の乏しい黒谷は買い物の楽しさについてはよくわからないが、いつも楽しそうに大量の荷物を持って帰ってくるシルヴィアには素で感心しているのだ。
「ありがとう。今珈琲淹れるわね」
シルヴィアは御礼がわりにカウンターの内側へと向かった。黒谷というと、早速靴の入った紙袋に注目して重さを確かめるようにゆっくり上下に動かしている。
「? これ重いな。何を買ったんだ?」
「女の武器よ」
「成程」
黒谷はそれで納得したように頷いてソファーの上に荷物を置いたが、おそらく何も分かってはいないだろう。靴らしき箱の見た目と重さが釣り合わないのを不思議そうにしていたが、彼は他人の買ったものに興味を示すタイプではない。まぁよくわからないがたぶん必要なものなのだろう、くらいに思っている。
「あ、パンも買っておいたわよ」
「パン?」
黒谷は一度置いた荷物を見た。沢山の紙袋の中に、確かに駅前のベーカリーの袋が混じっている。買い物を頼んだ覚えはないがと不思議に思いながらパンの袋を持ち上げた黒谷を見て、シルヴィアが頷く。
「ええ。一応片手で食べられそうなもの買ってきたけど……いくら忙しくても、食事の時間くらいは休まないとダメよ」
「…………あぁ。そうだな?」
急に小言を言われたが、当然ながら黒谷の方は全く身に覚えがない。確かに忙しいことは忙しいが、食事も取れないほどではないのだ。何か記憶違いがあるようだと思いはしたが、黒谷は流した。たぶん大した事ではない。
「冷蔵庫に試作品のケーキが入ってる」
「何のケーキ?」
「ガトーショコラ」
「良いわね。好きよ」
シルヴィアは冷蔵庫を開けて、ガトーショコラを取り出した。十五センチのホールを切り分け、白い皿に一つ載せる。
「あんたは?」
「要らん。感想だけくれればいい」
「相変わらず食べないのね」
シルヴィアは残りのケーキを冷蔵庫にしまうと、珈琲の入ったカップをカウンター席に置いた。黒谷は席に座ると珈琲を一口飲み、早速ケーキを口に運んだシルヴィアを眺める。日々ケーキや焼き菓子を作っている黒谷だが、意外にも甘いものはそれほど好きではない。作ったら満足するタイプだ。
「んー。濃厚ね」
「二階で出す時はホイップも添える」
「そうね、あったら嬉しいかも。珈琲にも紅茶にも合うわね」
「そうだな」
幸せそうに頬を緩めるシルヴィアに、黒谷は柔らかく頷いた。彼女に限った事ではないが、こんな表情が見られるのなら作った甲斐があるというものだ。
「今日は悪魔は来てないのよね?」
「俺がいる時に来るような度胸のある奴はいないと思うが」
「それもそうね。明日は?」
「地獄での仕事が山積みだ。針の山の責任者がいなくなったからな」
「針の山の責任者に何かあったの?」
「灰にした」
「そ、そう……」
シルヴィアは若干引いた。確かに荒れているとは言っていたが、この上なく理性的な黒谷が実力行使に出るとは余程の状況だったらしいと推測する。
「そんなに酷いのね」
「消したのはまだ一人だけだ」
「そんな事してるとますます嫌われるわよ」
「今更何を言っても無駄だろう」
「ほんっと不器用よね」
シルヴィアは溜息をついて自分用の珈琲に温めたミルクをたっぷり注いだ。薄茶色になった液体を一口飲んで頬を緩めたが、その瞳には力がない。
「無力って辛いわ」
あの事件以降、ミカエルは天秤を、黒谷は地獄を元に戻そうと必死になって働いている。何の力もないのは自分だけだ。そんなシルヴィアの表情を見て、黒谷はカップを持ったまま立ち上がった。
「お前はただ生きていれば良い」
カウンターの内側に入り、シルヴィアの黒い指輪をちらりと見る。種族的には人間に分類されるシルヴィアがこんなにも長い時間を生きているのは、この指輪から出る魔力が寿命を繋いでいるからだ。この指輪のもとの持ち主と最後にした約束は、ただ生きていること。しかし何の使命もなくただ生きているにしては、五百年は長かった。
「……ほんと中途半端よね。何なのかしら、あたしって」
「何でもいいだろうが」
自嘲気味に言ったシルヴィアに対して、黒谷は本当にどうでも良さそうな無表情で鍋に残ったミルクを自分のカップに入れてかき混ぜる。あっという間に薄茶色になった液体を見て、驚いたシルヴィアは目を瞬かせた。彼が珈琲にミルクを入れるのは、おそらく初めての事だ。
「珍しいのね」
「たまにはな」
黒谷はそれを口へ運んだ。いつもより優しい口当たりにほっとしたように息を吐く。
「白か黒だけではつまらんだろう」
淡雪を降らせる雲のように柔らかな色合いの薄墨色がシルヴィアを捉えることは無かったが、彼女は何気なく放たれたその言葉が自分に向けられたものだと気づいていた。
いつか自分がそれを言った時は黒谷はいなかったはずだが、ふとした時に見せる似通った思考回路は長年積み上げてきた絆のなせる技かもしれない。
「……そうね」
シルヴィアもそれだけ言って、静かにカップを傾けた。天使か悪魔か人間か、あるいはそれ以外。種族の分類なんて些細なことだと言うように、カウンターの内側で珈琲とミルクが混ざって香る。




