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第二十話 ヒーローとヒールは紙一重

 裏口の扉が閉まったのを見届けると、黒谷はカウンターに腰を下ろして疲れたように大きく息を吐いた。


 大きなアンティークの掛け時計から響く秒針の音を何となく聞いているうちに、新たな豆が()かれ、ケトルがシューシュー湯気を立て、空のカップに黒い液体が注がれる。先程の騒がしさが嘘のように、そこはもう落ち着いた空間に変わっていた。


「ずいぶん遅かったわね。やっぱり地獄は荒れてるの?」


 やがて黒谷がカップを持ち上げ一口飲むのを見計らったかのように、カウンター越しに洗い物をしていたシルヴィアが口を開いた。黒谷は地獄での惨状(さんじょう)を思い出して顔を(しか)める。確かにあの状態は荒れている以外の何物でもないだろう。


「……まぁ、そうだな」

「ライアはまだ目覚めない?」

「あぁ。だがもう目が覚めても地獄には帰れん」

「オリバーがいるじゃない」

「一緒に天国で暮らせればいいがな」

「たぶん、んー……大丈夫? かしらね?」


 黒谷はあの気の弱そうな青年天使を思い浮かべた。特に殺気を放ってもいない、ただただ困惑して立っていただけの自分にも向かって来れなかった男だ。争いを好まない温和な性格はある意味天使らしいともいえるが、天使しかいない天国で、毎日好奇の視線に(さら)されながら悪魔と家庭を築く覚悟があるかは疑問だ。何せ今の天国には、悪魔は一人も住んでいないのだ。シルヴィアも考える事は同じようで、何とも言えない顔をしている。


「……あの二人、将来どっちに住むつもりだったのかしらね」

「さあな。考えてなかったんだろ。何もな」


 黒谷は呆れたように少し笑ってゆっくりカップを傾けた。今の状況では天使が地獄で暮らす事も、悪魔が天国で暮らす事も、どちらも容易(たやす)いことではない。もちろん覚悟があればできる限りのバックアップはするつもりだが、肝心の本人の気持ちがなければどうにもならなかった。


「あの時二人を襲ったのが誰かは、まだわからないのよね」

「『マスター』の名前は出たが、実行犯の名前がまだわからん。毒や姿を消す能力を使っていたからあいつの管轄なのは間違いないが、数が多すぎて絞り込めんな」


 あらゆる毒を自在に操り、幻術を使って相手を罠にかける『策略の悪魔』。彼は姿を消したり自分の見た目を別人のように変える事も得意だった。別人になりすまして事実無根な噂をまき散らし、都合が悪くなったら姿を消せる厄介な相手。厳しい顔で黙り込む黒谷を見て、シルヴィアがわざとのんびりと口を開く。


「ま、そのうちわかるでしょ。それよりこれ。見てよ」


 白い皿が一枚、カウンターに置かれた。黒谷はそれを見る。皿の上には平べったくて丸い黒い物体がいくつか置かれていたが、それが何かは分からない。


「……何だこれは?」

「やーねぇ。クッキーよ」

「クッキー? これが?」


 クッキー、と称されたそれを注意深くつまみ上げる。表面はゴツゴツしていて岩のように固く、とても食べものには見えない。


「なによー。じゃあ何に見えるっての?」

「……石?」

「石を皿に盛るわけないでしょうがっ!」


 失礼ね。とぶつぶつ言いながら新たな珈琲を()れるシルヴィアを見て、黒谷はふっと目元を緩めた。生真面目な黒谷の肩の力を抜くことに関して、彼女の右に出る者はいない。


「まあ、それは冗談として。本当はこれよ」


 先ほどの皿の隣に、二枚目の皿が置かれる。同じ白い皿の上には、今度はしっかりとクッキーに見えるものが数枚載っていた。端は少し焦げているし形も(ゆが)んでいるが、それは丸くきつね色に焼けたシンプルなクッキーで間違いなかった。

 

 黒谷はそれを持ち上げてじっくりと眺めた。最初があの黒い塊ならば、これを焼けるまでにどれほど練習したのだろう。もしや出禁にしたはずの調理室を使ったのでは、という疑問はシルヴィアの努力に免じて封じ込め、後で掃除の必要性だけは確認しておこうと静かに覚悟を決めた。彼は度量が広い。


「お疲れのクロム様に、ね」


 空になった黒谷のカップに二杯目の珈琲を注いで、シルヴィアが優しい笑みを浮かべた。黒谷はクッキーを口元に近づける。しかしそこで気がついた。香りが明らかにクッキーではない。甘い香りがしないのは砂糖の量の問題かもしれないが、このツンと鼻に来る刺激臭は何が原因なのか。黒谷は無表情のまま、調理室に置いてある白っぽい粉の種類を可能な限り脳内にリストアップした。きっとどれかが入っている。


「どうしたの?」

「……いや」


 死にはしないだろう。そう自分に言い聞かせ、黒谷はそこはかとない不安を少しも表情には出さずそれを一口(かじ)った。サクッとした歯応えのあとにほろっと口に溶けていくそれは、シルヴィアが作ったことを考えれば会心の出来だろう。ただ味は別だ。


「味はどう?」


 心配そうに覗き込むシルヴィアを見て、黒谷は初めて顔を(しか)めた。


「本当にクッキーを作ったのか?」

「そのつもりだったけど……何か違ったかしら」

「何もかもだ」

「え?」


 黒谷はカウンターの上の小さなメモ紙に手を伸ばし、さらさらとペンを動かし始めた。小麦粉、卵、砂糖……やがて書き上がったものをシルヴィアに渡す。子どもでも焼ける、ごく簡単なクッキーのレシピだ。


「混ぜて焼くだけだ。トースターでいい」

「オーブンじゃなくてもできるの?」

「できる。これ以外のものは入れるな」

「言われなくても入れないわ」

「砂糖の場所はわかっているか?」

「もちろんよ。砂糖ってあの青の瓶でしょ?」

「赤だ」


 えー、とレシピから目を離してショックを受けているシルヴィアを見て、黒谷は再びクッキーを口に入れた。やはり甘さは欠片もない。代わりに耐え(がた)い塩辛さやピリッとした苦みが口に広がった。おそらく致死量の塩と、あと口に入れてはいけない何かが入っている。


 黒谷は麻痺(まひ)する舌を熱い珈琲で流し、ラベルに大きく砂糖と書けば分かるだろうか、とフォローの方向性について考え始めた。


「ところで、あんた自身は大丈夫なの?」

「何が」

「金のハンコ」


 シルヴィアは先程とは打って変わって真面目な表情で、黒谷の目の前に冷たい水の入ったグラスを置いた。


「ついに直接狙ってきたわね。あたしは地獄に行ってあんたを直接(かば)ってあげられないから……でも一人で抱え込まないで」


 シルヴィアの言葉に、黒谷は地獄を再び思い出した。部下がいくら束になってかかってこようと敵にもならない自信はあるので特に困ってはいないが、彼女の心配も(もっと)もだろう。


 しかし、それを彼女にどこまで報告すべきか。未だ口の中に残る塩分や謎の苦みと(たたか)いながら迷っていた黒谷は、ついにゲホっと咳き込み水を一気に飲み干した。


「大丈夫じゃないな……お前にしては上出来だが口に入れない方がいい」


 そんなに酷かったかしら、とシルヴィアがクッキーを手に取るのをやんわりと止め、殺人クッキーはひとまずカウンターの端に寄せられる。空のグラスを置いた黒谷は息を整え、真剣な表情でシルヴィアの新緑の瞳を真っ直ぐに見た。


「お前……俺以外の奴に手作りのものを食わせるなよ」

「うるさいわねっ。いちいち言わなくてもわかってるわよ」


 (はた)から見れば遠回しな告白にも思えるような言葉だが、黒谷は至って大真面目だ。シルヴィアも当然それが少女漫画などでよくある甘い言葉などではないとわかっている。正しい意味は、店から急病人を出すな、だ。


 しかし、金輪際(こんりんざい)作るなとは言わず味見を一手に引き受けるところは黒谷の優しさの部分でもある。シルヴィアも自分の料理下手は自覚しているので、それ以上は文句を言わなかった。


「うまくはぐらかしたわね」

「何の事だか」

「地獄のことに決まってるでしょうが」

「お前が心配するようなことは何もない」

「どうかしらね。どうせもうすっかり孤立してるんでしょ。あんた不器用だから」

「わかる奴だけに分かればいいと言っただろう」

「馬鹿ね。人望あると無駄な争いが省けんのよ」

「俺にその戦法を求めるな」 


 黒谷は常に首から下げている革の紐を軽く引き、その先についているものを胸元から出して眺めた。幼い子どもの拳ほどの大きさの(いびつ)な半円を形どったそれは、光に(かざ)すと向こう側が微かに透けて見え、また机に置くと黒ずんだ置物のようにも見える。


「相変わらず死んだ色ね……金色にも見えないしハンコにも見えないわ」

「完全な形ではないから仕方ないだろう」


 黒谷は歪な半円をなぞるように指を動かす。金の印は完全な形をもってマスターの証。しかし円を描くには片方足りない。完全な円を形どっていた時は金色に光っていたはずのそれは、片割れを失ったことを悲しむように輝きを失っていた。


「どんなに資質がなかろうと、孤立していようと、これがここにある限り俺をリーダーから降ろすことは絶対に出来ない」

「もうそれ悪役のセリフじゃないの」

「悪役でも何でも構わんさ」


 シルヴィアは口ではそう言ったが、彼が権力や金銭のためにその座にしがみついている訳では無い事を知っていた。本来の地獄のあるべき姿を取り戻すまで決して揺らぐことなくその座に立ち続けると彼がそう誓った日も、彼女はそこに居たのだから。


 黒谷は半分になった金印をそっと握り締めて目を閉じる。祈るように(まぶた)に隠した薄墨色の瞳が再び見えた時には、それは好戦的な光を宿して鋭く光っていた。


「『任命印』は、絶対に渡さない」


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