第二話 変な毛玉についていってはいけない
天使に謎の羽根をもらった日の翌朝。
憧れだった真新しい紺のブレザーに身を包み期待に胸を高鳴らせるはずだったハルトは、今は人気のない駅のトイレで鏡を覗いてはため息を繰り返していた。
原因は今朝のこと。高校生たるもの舐められてはいけないと髪にワックスをたっぷり付けて逆立てているところを母親に見つかり、軽い悲鳴とともに浴室へ押し込まれたのだ。息子が不良への第一歩を踏み出したと思ったらしく母親はとても動揺していたので大人しくそのままシャワーを浴びたハルトだったが、その際間違えて姉のシャンプーを使ってしまったせいで、フローラルな香りが髪に染み込んでしまったのだ。
(でもなぁ)
大切な第一印象を決める高校生活初日、香水野郎とあだ名がつくよりは欠席の方がはるかにマシだ。そのまま休みたいところだが、昨日聞いた話が頭から離れない。サボりはやはり「悪いこと」なんだろうな、とカウンターの数字を確認しようとすると、不意にどこからか変な声が聞こえた。
「ケケケ、サボりかァ?ワルいコはっけん!」
反射的に振り向くが誰もいない。青ざめるハルトに追い打ちをかけるように、謎の声は甲高く嗤う。
「ゲンテーン、減点だァ!」
ホラーは得意な方だが現実は別だ。ハルトは謎の声を振り切るように駅の階段を走り降り、そのまま学校まで全力で足を動かし続けた。
◇
荒い息を吐きながら教室にたどり着いたのは、ちょうど一時間目の授業が始まる頃だった。教科は数学、ちょうど担任の担当科目らしく、HRからの流れで自己紹介は割愛するような話が廊下から聞こえる。やはり完全に乗り遅れた。
「 なんだ、遅刻かい? 君は水島君だね。席は一番後ろだよ」
「あ、はい! すみません」
しばらく廊下で様子を見ていると、ハルトに気がついた担任が教室から顔を出した。いかにもリア充という感じの爽やかな教師だ。教室中の視線を一身に浴びながら、ハルトは唯一空いている廊下側の一番後ろの席へ向かう。しまった、後ろから入ればよかった。
「では、授業を始めようかな」
ハルトが席に座ったのを見て、担任は黒板に数式を書き始めた。ハルトは授業の準備をしながら何気なく左手を見る。昨晩から幾度となく気にしているこの数字は、何か起きる度に確認することが早くも習慣となっていた。8612と書かれた数字が黒く滲むように消え、8609に変わる。おそらく遅刻の分だ。
「 減った……」
「 なんだい水島君? 引いたら減るのは当たり前だろう?」
思わず漏らした独り言は、思ったよりも大きく響いてしまったらしい。数式を背にした教師の声で、一年二組の教室がどっと湧く。ハルトは反射的に熱が集まり火照った顔を、適当なノートで隠して誤魔化した。
◇
朝には真新しいように聞こえたチャイムの音も、何度目かになると耳に慣れて雑音の一部となる。四時間目のそれが鳴り終わる頃には、ガタガタと机を移動し彩り豊かな弁当を広げるもの、財布を持って購買に走るもの、学食に一緒に行く仲間を作ろうとそわそわしながらあたりを見回すものなど、教室は思い思いに昼休みを過ごす学生たちの声で溢れていた。
しかしハルトはカウンターの数字を気にするあまり、誰かに話しかけるのをためらっていた。昨日から本当に些細なことで数字が動くのだ。
母親の話に返事をしなかった時、父親とすれ違いざまにぶつかってしまった時、お菓子を食べてゴミをしばらく放置していた時。すうっと黒く滲むように減っていく数字が地獄へ近づいている合図のように思えて、ハルトにはもはやトラウマとなっていた。そのたびにどうにか天国行きに近づけようと母親の手伝いをしたり優しい言葉をかけたりして数字をもとに戻していたが、いつまでもこんなことを続けないといけないのだろうか。
(お昼、どうしようかな……)
さすがにお腹がすいてきた。昼休みの残りはあと十五分ほど、今から購買に走ればパンの一つでも買えるだろう。いや、廊下を走ったら数字が減る、ダメだ。そんなことを考えてまた動けなくなっているハルトの前を、突然黒い影が横切った。
(何だ……?)
視線を合わせると、それは見たこともない黒くて丸い塊だった。洗濯に失敗した古いセーターにできた毛玉が拳ほどに大きくなったようなそれが、ふわふわ浮きながらこっちを見ている。いや、正確には、見ているような気がした、だ。何故ならそれは目も口もない、ただの丸い毛玉だからだ。だが何らかの意志を持って動いているように見えるその毛玉は、ゆっくりと後ろ側の扉から出ていった。
ハルトは慌ててあとを追った。ハルトが追いかけることを分かっていたのか、毛玉は時折こちらを気遣うように動きを止めながらも廊下を滑るように動いていく。すれ違った生徒たちが誰も足を止めないところを見ると、これはハルトにしか見えていないらしい。
着いた先は屋上だった。誰も立ち入ることのなさそうな暗く湿った廊下の奥にひっそりと存在している階段を上がり、黒い毛玉はその先へゆっくりとハルトを連れていく。どこかふわふわした気持ちのまま、ハルトは歩き続けた。ひとりでに開いたドアをくぐり、申し訳程度にある柵を乗り越えてもなお、視線は下に見えるグラウンドではなくその遥か上、空中に浮いている毛玉から少しも外れることはない。
そうしていつの間にか屋上の端に立った少年は、まるでその先にも空気でできた道が続いているような錯覚で、ごく自然に足を踏み出したのだった。
途端、ハルトは落ちた。当たり前だ。ジェットコースターよりも速く急降下しながら、人間本当に驚いた時には声なんか出ないのだと、彼は未だ夢見心地のようなぼんやりとした頭で他人事のようにそんなことを考えていた。
◇
映画やお芝居で場面が変わるように、一瞬の暗闇のあと、ハルトはあのトイレにいた。
鏡に真顔の自分が見える。しかし先程までの浮遊感を引きずったままのハルトは急に固い床を踏んでいる現実に感覚が追いつかず、そのまま真顔でトイレの床に倒れ込んだ。
「 ………え?」
なにが、いつ、だれが、どうなって、こうなった? 疑問符でいっぱいになりながらもどうにか半身を起こす。こんな時にもとりあえずスマホ、とポケットを探るのは現代人の性だろう。
(あれ?)
ハルトは制服のポケットに手を突っ込んだまま首を傾げる。結論から言うとスマホはあった。しかし、代わりに無くなってるものがある。
(羽根はどこいった?)
今朝まではしっかり持っていたはずの白い羽根が消えている。どこかに落としただろうか。今朝からの行動を思い起こしてみると、ふとあの天使と名乗った少女の言葉が頭を過ぎった。
『この羽根には、私の力が宿っています。きっとお役に立つでしょう』
「ああぁぁぁ!」
ハルトは叫んだ。屋上から落ちたにも関わらず生きているのは、きっとこの羽根のおかげなのだ。あの穏やかな優しい声と陽だまりのような笑顔を思い出し、ハルトは心から感謝した。すぐにでも感謝を伝えたいところだが、天使という事は次に会えるのは死んだときなのだろう。まだ死にたくないので、ハルトは再会を諦めた。
(さて、どうしよう)
ハルトはゆっくりと立ちあがった。いくら誰も使っている形跡がないとはいえ、トイレの床にいつまでも座っているわけにはいかない。初日から授業をサボったことになってしまったのは痛いが、死ぬよりはマシだ。とりあえず手を洗おうと洗面台に両手を広げる。
「え……?」
その瞬間、ハルトは先程屋上から落ちた時以上の衝撃を味わうこととなった。心臓は胸から飛び出しそうなほど早鐘を打ち、気を失ったのではないかと錯覚するほど目の前が暗くなる。やはり本当に驚いた時は叫び声など出ないのだ。
-991391
左手には、黒く澱んだ文字がはっきりと、罪人がいれる刺青のようにその存在を主張していた。
——コツ、コツ、コツ
何かの間違いだろうとじっと左手を見ていると、ドアの向こうから靴音が近づいてくるのが聞こえた。誰かくるのかもしれない。とりあえずここから出ようと慌てて扉に手をかけようとすると、キィという小さな音とともに向こう側から空いた。
驚いて後退りしたハルトの目に映ったのは、扉の向こうから現れた大きな半身だった。黒い服にグレーのロングコートを身に纏った、二メートルくらいあるのではと思うくらいの長身の男だ。
決して筋骨隆々という程では無いが、男らしくしっかりとした体幹から伸びる長い手足は長身だというのに妙にバランスが良い。
「今叫んだのはお前か?」
薄く整った唇から、低く落ち着いた声が放たれる。
黒い短髪に微かに寄せられた眉の下、薄墨色の瞳がハルトを映す。しかし驚くほど整っているであろうその顔は、うんと首を伸ばしてほとんど真上を見なければ視界に入らないほど男は大きかった。
ただ立っているだけなのにその存在感と威圧感は並外れて高く、それはハルトの憧れている『男らしさ』そのものだった。おそらくこの男なら、あの日迷った虎柄のジャケットも難なく着こなせるのだろう。
「……いつまで見ている」
「あ、あの。すみません」
いくら圧倒されたからと言って、初対面の人を正面から見つめていたら不快に思うのは当たり前だ。もしかしたら何発か殴られるかもしれない。
顔は勘弁してください、と心の中で祈りながらしばらく頭を下げていると、頭上から小さく息を吐く気配がした。空気が若干柔らかくなったのを感じ、そろそろと頭を上げる。
「顔色が悪いな。具合が悪いか?どうした」
強面と呼べる見た目とは裏腹に、男からかけられたのは気遣いの言葉だった。顔色が想像以上に悪かったのかもしれない。
何から話したらいいのか、いや何を話したらいけないのか。上手い言い訳も思いつかず酸欠の金魚のように口をぱくぱくしているハルトを、男はじっと見た。そしてわずかに驚くように目を見開いたあと、ぐっと眉間に皺を寄せたのだ。
不良も泣いて逃げ出すような厳しい視線に殴られる、と思って目を閉じたハルトだったが、代わりにかけられた声はやはりとても落ち着いていた。
「 おまえは何者だ」
「 あの…高校生?……ですけど」
「 人を殺したことは」
「 い、いえ…どうしてそんな事……」
「無いんだな? 」
男が身をかがめて迫ってくる。この人の前ではどんな凶悪犯でも立ちどころに罪を認めそうだ。産まれたての子鹿のように震えたままこくこくと頷くことしか出来ないハルトをしばらく見つめていた男は、軽いため息とともにくるりと背中を向けた。
その大きさに似つかわしくないほど滑らかな動きに見惚れるのも束の間、彼の「 着いて来い」という短い一言にあわてて入口に足先を向ける。
しかし悲しいかな、産まれたての子鹿はすぐには動けなかった。
「うわっ」
短く悲鳴をあげて倒れ込んだハルトの身体には、しかし覚悟した衝撃は何もなかった。肩を掴んだ大きな掌は意外にも、抱きとめられた感覚すら無いほど優しい。
「何をしている。行くぞ」
子鹿もといハルトを床に立たせながら短く息を吐くように言って、男は再び背を向ける。追わなければ、と思うが足は重りがついたように動かず、代わりに目の前が霞み暗闇が広がった。もう色々限界だ。
「あ、おいっ!!」
男の焦ったような声を最後に、ハルトの意識はぷつりと切れた。