第十九話 噂話はほどほどに
「えー、ほんとかなぁ?」
話しているうちに本当にハルトとの恋愛を想像してしまったのか真っ赤になった姉の顔を見て、ルークはまだ疑わしげな視線を向けている。それを見て、ハルトはリーダー職の苦労について考えていた。リーダー職についている天使はたった三人。一般の天使が何人いるのかは知らないが、相当な数いるだろうことを考えると、上層部の負担は計り知れない。
「せめて『癒しの天使』がいればなぁー」
ルークが両手を頭の後ろで組んで、ソファーに身を沈める。そういえば、天使の能力を聞いたときに癒しの力もあったなとハルトは思い出した。そう、リーダーは三人。ということは、どこかに癒しの天使がいるということだ。
「癒しの天使ってリーダーだよね?どんな人なの?」
「それが私たちも知らなくて」
「五百年前のあの事件から行方不明らしーよ。なんでも、マスターの補佐とかしてためちゃくちゃ優秀な天使だったらしい」
リリィが困ったように眉を下げ、ルークが噂で聞いただけの情報を口に出した。かつて天国を支えていた三人のリーダーのうち、二人は死んで残る一人は行方不明。すでに崩壊寸前の死後の世界にまだ若い新リーダーとして就任し、相当なプレッシャーの中でなんとか天国を運営してきた苦労を思い出す。
「おれら頑張った」
「やっとカウンター制度が定着して楽になったと思ったら、今度は業績ですからね」
「大変だったんだね」
ハルトは同情した。リリィもルークももう何百年も生きているが、おそらく天使の感覚ではハルトとそう変わらない若い天使という扱いだ。もともと才能がとびぬけているのはもちろんだろうが、当然その強大な力に見合うだけの努力を積み重ねてきたのだろう。
「あなたたちは本当によく頑張ってるわよ」
オーブンから熱々のポテトグラタンを慎重に取り出していたシルヴィアが、ルークの目の前にそれを置いた。黒谷が仕込み、オーブンの蓋を開けるところから押すボタンの順番、最後に蓋を閉めるところまで丁寧に書いたメモ付きで置いていったものだ。シルヴィアはそんなところまで必要無いと言ったが、黒谷は絶対に読みながらやれと譲らなかった。おかげで初めてグラタンを焼くことに成功したのだから、悔しいが黒谷の判断は正しかったのだろう。
「やった!師匠のグラタン美味いんだよな!」
疲れたようにソファーに凭れていたルークが復活し、嬉しそうに湯気の立つポテトグラタンにスプーンを入れた。溶けて伸びたチーズがポテトと絡まって絶品だ。芋は正義だと彼は思っている。
「やっぱりリーダーってマスターが決めるの?」
「そーそー。マスター権限に任命権ってのがあんの」
「任命権」
「マスターは、法律の改正権とリーダーの任命権、その二つを持っているんですよ」
リリィが指を二つ立てて説明する。まるで授業を聞いているように、ハルトはリリィの方を向いた。こんなに可愛い先生なら、授業中に居眠りする事もないだろうと思いながら集中して話を聞く。
「マスターはリーダー全員の同意を得て、法律を自由に作ったり、改正する事が出来ます」
「同意がなきゃだめなの?」
「駄目です」
なるほど、マスターだからと好き放題出来るわけでは無いようだ。ハルトが頷くと、カウンターの向こうでシルヴィアが口を開く。
「だから任命権があんのよ」
どういう事だろう、とそちらを見ると、シルヴィアはもう次のグラタンを焼くのに夢中だった。何やらびっしりと流暢な字で埋められたメモを見ながら難しい顔をしている。仕方ない、自分で考えようと首を捻る。法律改正のための任命権……なるほど。
「自分の意見に賛成してくれるメンバーを、リーダーに指名すればいいんだ」
「そーゆー事。まぁ仕事出来なきゃ意味ないから、ホントに誰でも良いわけじゃないけど」
ルークが口の中のグラタンをソーダで流し込んで言った。そういう事ならマスター権限は確かに大きい。実質好き放題だ。
「あれ、じゃあマスターってどうやって決めるの?」
ハルトの疑問を予想していたのだろう。先回りして考えていたらしいリリィは可愛らしく首を傾げていた。
「それが分からないんですよね。私たちが生まれた時には、もうミカエル様がマスターだったので……」
「何千年も前からずっと変わらないらしーよ」
ふーん、とハルトはあっさり納得した。それで問題がないならおそらく相当優秀なのだ、下手に変わらない方がいい場合もある。そういえば五百年前の戦争以前もマスターだったと言っていたが、何千年も前からだとは。天使や悪魔は寿命が長いどころか、もはや寿命の概念がないのかもしれない。
「そういえば、クロムさん遅いですね」
ふと時計を見て言ったリリィの言葉に、ハルトも時刻を確認する。バイトを始めたということにしているとはいえそろそろ親が心配し出す時間だが、新しいバイト先でご飯を食べてくると言ったら快諾されたので今日は大丈夫だ。しかしリリィが心配しているとおり、地獄での仕事が余程長引いているのだろう。この店の主は未だに姿を現さない。
「地獄のお仕事ってどんな感じなんでしょうか」
「殺伐としてそー」
「あいつ悪魔に嫌われてるから大変なのよ」
「黒谷さんって苦労人ですよね」
その場にいない人の話題が盛り上がるのは常というもので。この店でも例に漏れず、それからは黒谷の噂話で大いに盛り上がった。
「え、黒谷さん破壊の悪魔って呼ばれてるんですか?」
「そ。似合わないわよね」
「見た目だけならぴったりなんすけど」
「中身は全然違いますものね」
「どっちかって言うと直して回りそうよね」
最後のシルヴィアの言葉に、全員が黒谷の姿を想像する。壊された箇所をマメに掃除したり大工道具を持って回る彼の姿が容易に想像でき、全員同時に吹き出した。
「あっはははっ、シル姉ナイスっー」
「ちょっと、ふふ……失礼ですよ……ふ」
「あんたも、くくっ、笑ってんじゃないのよ」
「修復の悪魔……ふ、なんて……んんっ」
「やべーって、修復のあくまとか!!!」
「あはははは」
「……随分と楽しそうだな」
ピタっと四人の動きが止まる。いつの間に帰ってきたのだろうか、黒谷がハルトの肩にポンと手を置いた。振り向けないまま冷や汗を流したハルトに合わせて少し屈んだ黒谷の低い声が静まり返った店によく響く。
「破壊するところを見てみたいようだな?」
「いいえ。……遠慮したい……です………」
「ちょっとビビらせんじゃないわよ」
シルヴィアが黒谷を睨むと同時に、張り詰めた空気が散る。彼女は強い。
「こんな時間まで何をしている」
「あ、おれが呼んだんすよー、客捌けなくて」
「すみません。とても混んでいて私達だけでは」
「そうか。それは悪かったな」
黒谷は余程疲れているのか、緩慢な仕草で上着を脱ぎ、ばさりとカウンターの空いている椅子に投げ掛けた。微かに焦げるような匂いがしたのは、地獄帰りだからだろうか。
「ん……焦げ臭いな」
違った。黒谷がカウンターにまわり、急いでオーブンを止める。既にカウンターの内側にいたシルヴィアさえも今まで気が付かなかったくらいなので黒焦げまではいかないが、グラタンはキツネ色を遥かに超えて所々黒く、表面がバリバリに固まっていた。
「ちゃんとメモを読んだのか?」
「読んだわよ。でも二つ同時に焼いたし、温度も時間も倍でしょ?」
「……分かった、メモは二つ必要だったようだ。次はそうしよう」
平然と言うシルヴィアに温度は倍にはならないと伝えるのは後にして、黒谷は手を洗いながら今の冷蔵庫の中身から出来る簡単なメニューと、表面は焦げているがおそらく中身は火が通っていないであろうグラタンの有効活用方法を考えていた。リリィの机に何ものっていないのを確認すると、鍋に湯を沸かしはじめる。とりあえずパスタならすぐに出来るだろう。
「パスタでいいな。今作る」
「あっ、ありがとうございます。お手伝いします」
「師匠おれもおれもー」
「あ、僕も何か」
「いいから座ってろ。狭い」
何故か全員がカウンターの裏側にまわり賑やかに始まったクッキングタイムの後、作ったパスタを美味しく食べ終えた頃には辺りはすっかり暗くなり、濃紺の夜空に春の星座が美しく輝いていた。
「そろそろ帰りますね。親が心配するので」
「あ、私が瞬間移動で送ります」
「めんどいけど俺も行くー。デートだと思われたらまずいっしょ」
「「デ、デートなんてそんな」」
「はいはい行ってらっしゃーい」
店から家までは少し遠く、ハルトがリリィからもらったくらいの力では途中までしか瞬間移動できない。外のあまりの暗さに流石にやばいと青ざめたハルトは協議の末、リリィの力で家の前まで送ってもらい、バイト仲間という設定のルークに礼儀正しく挨拶してもらって事なきを得たのだった。




