第十五話 ロミオはもっと早く来い
「ライア」
コツ、コツ、と黒いブーツが床を鳴らす。絶望が服を着て近づいてくるような音に聞こえて、ライアは震えた。視線は初仕事の時に買った黒いローファー、そこから五センチ先のタイルの溝を何度もなぞる。それ以上先は見ることが出来ない。
「言いたいことがあるなら……いや、もっと早く聞くべきだったな。すまなかった」
ブーツの音が止まった。しかし服を着た絶望が発した言葉は意外にも柔らかい。ライアは驚いたが、やはり身体は金縛りにあったかのように動かすことができなかった。
「部下のプライベートに立ち入るつもりは無いが、知っていたら後押しくらいはしてやれたかもしれんな」
どこか申し訳なさそうに上司は言うが、何の事を言っているのかライアには分からなかった。こんなに恐ろしい上司にプライベートの報告など、ライア自身が怖くて出来ない。恐怖と困惑が混ざって、顔中の筋肉がどんな表情を形づくっていいかわからずに痙攣している。顔から落ちた何滴もの雫がタイルの床に染みていくのを見てようやく、ライアは自分が涙を流している事を知ることが出来た。
(……怯えすぎだろう)
ライアの前にただ立っているだけの黒谷は思った。他人に怖がられることが多いというのは自覚しているが、それにしても彼女の反応は異常だ。暗示をかけられているのかもしれない。
「そんなに怖がるな。何もしない」
できるだけゆっくり話しかけるが、結果として彼女の涙の量が増えただけだった。これでは話もできないと内心頭を抱えた黒谷の耳に、背後にいる天使と人間たちの会話が聞こえてくる。
「(やだ、泣かせてんじゃないの。サイテーねあいつ)」
「(いや、あれは怖いですよ。黒谷さんのことよく知らなければ殺されるって思うかも)」
「(師匠かわいそー。中身誰よりも紳士なのに)」
「(やはり背の高さから来るイメージでしょうか)」
「(ほんと見た目で損してんのよね)」
こちらに配慮してか小声で話しているようだが、残念ながら全部聞こえている。後で締める、と思った瞬間、ライアが更に身を固くした。駄目だ、上手くいかない。
「(ほら、あんた行きなさいよ。あいつ困ってんじゃないの)」
「(えぇ、でも……怒ってるんじゃ)」
「(や、あれは困ってんだって。師匠泣いてる女とか見たことなさそーだし)」
「(あら。あいつモテんのよ?泣かせた女は数知れずよ)」
「(マジで?後で武勇伝聞こー)」
「(泣かせてる時点でもうダメな奴なんだから参考にはならないわよ)」
「(シルヴィアさん容赦ないですね……)」
「(ほ、本当に灰にされませんか?)」
「(あんたねー。愛しい恋人のピンチなんでしょ?身代わりに灰にくらいなんなさいよ)」
「(え……)」
「(もうっ、シルヴィアさん!大丈夫、ならないですよ。クロムさんは優しいですから)」
黒谷は今度は振り向いた。言いたい放題言われている内容に関して突っ込みたい所は多々あるが、今はその時では無いので堪える。代わりにこれ以上無駄口を叩くなよという意図を込めてわずかに殺気を飛ばすと、五人はぴたりと口を閉じた。
それはさておき、その中に何故か気弱そうな青年天使がいることを確認して黒谷は呆れた。連れてきたつもりは無かったが、どうやら一緒に飛ばされてきたようだ。しかしいるならば、シルヴィアの言う通りここは恋人の出番で間違いない。早く出てこいよ、と黒谷も思った。ルークやシルヴィアが言った通り、彼は今とても困っている。
もちろんそれは、彼が男だから守れという意味ではない。地獄で日々罪人の管理をしている悪魔は筋力も体力も天使の何倍もあり、精神的にも鍛えられている。その一方で、基本的に善人しかいない天国にいる天使は基本的におっとりしていて危機に弱く、悪い言い方をすれば保身第一で臆病な性質を持っている。天国から出ない分には問題ないが、オリバーはパートナーとして悪魔を選んだ。種族の壁を超えるには、自分を変えるほどの強い気持ちがなければうまくいかないのだ。
「……おい」
いつまで経っても出てくる気配がないため、黒谷はついにオリバーに呼びかけた。シルヴィアに勢いよく背を押されてやっと出てきた恋人は、黒谷にびくびくしながら彼女の元へと向かっていく。恋人同士の仲を割く悪役のように見えるのだろうか、心外だと眉を寄せる黒谷の内心は、二人には届かない。
「ライアさーん!オリバーさんきてますよー!」
不意に、ハルトが大声で呼びかけた。緊迫した空気を一掃する少年の声に、度胸のある奴だと黒谷は小さく笑う。愛する恋人の名前に反応したライアがやっと顔を上げた。
「オリバー?」
「ライア……全部聞いたよ。ごめん」
「違うの、私が勝手に。ごめんなさい」
金縛りが解けたように、ライアがその場に座り込む。駆け寄ったオリバーが手を握り、二人は寄り添って涙を流した。
「一緒に罪を償おう」
怖がりなはずなのに、震えながら必死で手を握ってくれる優しい恋人の姿に、ライアは小さく微笑んだ。このまま一緒にいられたら、どんな罪でも受けられるのにと思いかけた時、
――どうしてこんな事してしまったの?
脳内であの声が囁いた。あの人——いつからか仲良くなった、他班の班長。親切で頼りになる彼女には、悩み事も何でも話せたし、何でも聞いてくれた。今も彼女の声が頭から離れない。
――クロム様の耳に入ってしまえば、灰になるのは避けられないでしょうね。
怖い。灰になりたくない。死にたくない。私は、まだ、生きていたい。
「……ライア?」
「怖い、こわいこわいこわい」
「ライア!ライア、しっかりして。ライア!ライア!」
オリバーはライアの顔を覗き込んだ。目の焦点が合っていない。がくがくと震える身体をしっかりと抱きしめ、何度も名前を呼んだ。次第に彼女の身体が氷のように冷たくなっていき、力が抜けていくのを感じる。しかし、オリバーにはどうすることもできなかった。
「強力な暗示の副作用だろう。死んだわけではないから大丈夫だ」
オリバーに抱きしめられたまま目を閉じたライアの様子を少し距離を取ったまま見て、黒谷が言った。自分を怖がるようにかけられた暗示ならば、近づいたら逆効果だ。医師であるシルヴィアならば詳しくわかるかもしれないが、自衛のできない彼女をライアに近づけるのはまだ危ない。今は気を失っているが、突然暴れ出さない保証はないのだから。黒谷はわざとシルヴィアにライアの様子を見せないように、少しだけ立ち位置を変えた。
「ちょっと!どうなってんの?」
「お前はそこを動くな。絶対にな」
「もぉ!ほんと人間って損よね」
心配してくれている黒谷の気持ちを汲んで、シルヴィアは大人しく引いた。動かなくなったライアの身体を支え、オリバーは涙を流す。店内にできていた厚い雲が霧のように散って大きな窓から陽が差し、二人の影が溶け合うように重なった。
と、その時。大きな窓からの光が遮られ、店内に二人を狙う黒い影が動いた。
「危ないっ!!」
真っ先に動いたのは、防護癖を張れるルークでも、瞬間移動出来るリリィでもなく、また、大抵の者は力でねじ伏せられる黒谷でも無い。
「ハルトさん!!」
リリィの悲痛な叫びが響く。ライアとオリバーに覆いかぶさるようにその身を盾にしたハルトの周りを、小さいながらもしっかりとした厚さの防護壁が包んでいた。おそらく誰よりも先に二人の元へ辿り着くことが出来たのは、瞬間移動の力だろう。無意識だが、複数の力を持つハルトならではの合わせ技だった。
「よかった……生きてる」
ハルトが安堵の息を吐くと同時に、弾かれた影を黒谷が捕らえようと氷の力を放つ。しかしあと一歩の所で捕らえられず、それは周辺の床を凍らせただけだった。黒い影が店から出ていき、すぐに黒谷が追っていく。リリィとルークとシルヴィアが、ハルトの無事を確かめるように駆け寄った。
「ハルトさん何てことを!」
「あんた人間のくせに無茶すんじゃないわよ!」
「やっぱ一発天国行き狙ってるとしか思えねーんだけど」
「あはは……つい」
考えるより先に身体が動いたハルトは笑って誤魔化した。確かにルークの言う通り、防護壁が作動してなければライアとオリバーの身代わりに死んだとして天国に行けたのかもしれない。それは名誉な事なのだろう。でも……
「僕は、やっぱり人間でいたいな」
助かったと分かった時、ハルトは確かにほっとした。死んだ後の行き先なんて少しも考えていなかった。天国はいい所だし、地獄は行きたくないけれど、それよりもまだ、人間でいることにこだわりを持っていたいとハルトは思った。
「まだ、人間でいられるんだ」
-791319。カウンターは人間として生きている証のように、ハルトの左手にしっかりと刻まれていた。
◇
「始末しろ、と言ったはずだが」
「もっ、申し訳御座いません」
最下層。命からがら逃げてきたクレハが震えた声で、怒りに燃える玉座の前に跪いていた
周りには絶えず炎が燃えあがり、煙と何かが焦げるような匂いが鼻の奥を通って肺を蝕んでいく。地面の下は赤く、時折シューシューと湯気があがってクレハの身体を焼いていた。彼女はリーダーに次ぐ力の持ち主だが、ここ最下層の炎に平然と耐えるには力が足りない。地面と接した膝や手のひらが焼けて水膨れのようになっていくのを感じながらも、彼女はその場から動かずただ玉座を見上げていた。
「まさか人間の少年に邪魔されるとは。お前は人間以下だったようだ……その黒い翼は取ってしまった方が良いかもしれんな」
「そんな……っ!マスター、私は顔を見られておりません。まだお役に立てます」
クレハは慌てたように言った。人間以下というのは誇りある悪魔にとって屈辱的な言葉だ。なんとかして汚名を返上しなければと、必死で次のチャンスを願う。
「……まあいい。あいつに捕まらなかった点は褒めてやってもいいだろう」
「有難う御座います」
彼女は灼熱の地面に額を擦り付けた。逃げられたのはただの運だ。
地獄を裏切り天使と馴れ合うあの愚か者は、巨大なくせに弾丸のように速い。姿を消す能力が無ければ身を隠す事すら困難だっただろうとクレハは思った。
「奴を孤立させる手立ては既に打ってあります。地獄にもう居場所は無いでしょう」
「ライアと一緒に奴も追放できればいいと思ったが、追い出せば金印を奪うチャンスもなくなるからな」
玉座の悪魔は考えた。この五百年、地獄で彼の計画を阻んでいる悪魔は黒谷だけだ。彼が持っているはずの金の印さえ手に入れば思いのままに権力を振るう事ができるのにと、湧き上がる憎しみを抑え込んで冷静に指示をする。
「おそらく奴が身につけているんだろう。どんな手を使っても構わんから奪うんだ。あと、あの邪魔な人間も早めに消せ。目障りだ」
「はい、マスター」
君主の役に立とうと必死な彼女を澱んだ瞳が冷たく見下ろす。彼女が翼を焦がしてまでこの最下層に来るのは、ただ一つの目的のため。
「全てが上手くいった暁には約束通りお前にリーダーの職を与える。精々役に立て」
「有難う御座います」
彼女は今までで一番張りのある声で応えた。その出世欲は使えると、玉座の悪魔は内心嗤う。それぞれの野心を地獄の業火のように燃やし、最下層の夜は更けていった。
 




