第十三話 恋人とは運命共同体
「……何だと?」
執務室からほど近い第三食堂。会議の後すぐに食事を取れるように六人がけのテーブルがあるだけのそこで、黒谷は訝しげにハルトを見ていた。諸々巻き込まれてここにいる人間の少年は、何とも言えない苦々しい表情でこちらを見ている。そして少し離れた隣にリリィ、こちらも同じような顔だ。
それだけならば問題ない。ところが更にその間に、二人にそれぞれ両腕を支えられながら死にそうな顔で立っている天使がいる。彼が問題だ。
「だから、その……ライア……さんの、彼氏さん?だそうで……」
ハルトは先程の説明を再び繰り返した。途中で言葉を止めたのを見ると、ライアに敬称をつけるか迷っていたようだ。彼氏と名乗る天使に配慮したのかもしれないが、地獄に突き落とそうとした犯人に律儀なものだ。
「ライアに天使の恋人がいたとはな」
黒谷は部下のプライベートには興味が無い。恋愛事も仕事に影響が無ければ好きにすればいいと思うが、相手が天使だとはさぞかし大変な思いをしたのだろう。話くらい聞いてやるべきだったかと思い直す。
「こらこら、クロム。彼が怯えているよ」
怯えさせているつもりは無いのだが、と黒谷はミカエルを見た。椅子にのんびりと座っていたはずの彼はいつの間にか立ち上がってこちらの方へ歩いて来ている。肝心のライアの恋人はというと、もう顔をあげることも出来ないようで、地面を見つめて震えていた。隣で彼をしっかりと支えているハルトが声を潜めて言った。
「わかります。僕も黒谷さんを初めて見た時、気を失ってしまって……」
「ハルトさん」
「聞こえてるぞ」
嗜めるようにハルトを見たリリィとともに、黒谷は一応突っ込んだ。ハルトとはまだ数日の付き合いだが、黒谷がこの程度で怒ることはないと彼は知っているようだ。随分と順応性の高い人間だと内心感心する。しかし隣の青年はそうでは無いのだろう、やはり震えていた。どうしたものかと思うと同時に見慣れた白髪が隣に立った気配を感じ、黒谷はそちらを見て息を吐いた。
「ミカエル様が出て来たらますます萎縮するでしょうに」
「ミカエ……え、もしかしてマスターじゃ!!」
「いやいや人違いだよ」
「雑に嘘つくのはお辞めください」
マスターは雲の上の存在だ。昔はそうでもなかったが、今は多忙な事もあって一般の天使の前に姿を現すことは滅多にない。驚いて顔をあげた青年に天使の見本のような表情で微笑みかけ、ミカエルは空いている席を示した。
「座ってゆっくり話をしようか。クロム、料理もいいが、まずはお茶の方がいいかな?用意できるかい?」
「勿論です」
クロムは一度食堂を出た。食事が出来たからと皆を集めたものの、盛り付けはまだ完成していない。なるべく温かいものを食べてもらいたいからとハルトを待っていて良かった。善良そうな青年には残念だが酷な話になるだろうし、まずは気分の落ち着くお茶でもいれてやろうかと歩き出す。
しかし青年にはそんな黒谷の心中は全く伝わっていなかった。その存在が意図せず醸し出す威圧感のようなものにやられて、彼はその場に座り込んでしまったのだ。黒谷にとっては全くの心外だが、初対面の時のハルトのように気を失わないだけマシだろうとも言える。
「まー、こっち座んなよ」
そんな青年に、ルークが座ったまま手を振った。空いているのはちょうど彼の向かい側だ。リリィとハルトに肩を借りるような形でやっと座った青年に、ルークがいつも通りの軽い口調で声をかける。
「あんたオリバーだよね。確かおれの管轄だ」
「あ、はい!リーダー!」
「あーいいって。座って」
反射的に立ち上がったがルークに片手で制され、オリバーは座り直した。オリバーは確かにルークの管轄ではあるが、今天国では一人のリーダーについている部下の天使は数千もいる。班長でもない彼はルークと直接話をしたことすら一度もない。名前を覚えてもらっているとは思わなかったのだ。
そしてその様子を見て、ハルトは初めてリーダーって偉いんだなと感じた。特にルークとリリィは同じくらいの歳に見えるので、こういう場面を見ると少し違和感がある。
「オリバーさんって言うんですね」
「はっはひ!」
「めっちゃ緊張してんじゃーん、ウケる」
リリィがオリバーに優しく笑いかけ、緊張して噛んだ彼をルークが茶化した。真っ赤になった哀れな青年天使を、ミカエルが慈愛のこもった表情で見守る。完全に遊ばれている。
「さて、オリバーと言ったね」
数分後、ミカエルの言葉を合図に緩慢な空気が散った。打って変わって真剣な表情に変わった皆を見て居住まいを正したオリバーに、ミカエルは残酷な事実を告げる。
「実はね……」
◇
「……うそだ……」
オリバーは茫然自失の表情を浮かべていた。
テーブルの上には黒谷が店から持って来たシルヴィアブレンドのハーブティーが落ち着く香りを漂わせているが、彼は未だにカップを持ち上げることすらできていない。
「残念ながら事実でね。ハルトの数字はその時のものだ。今死ねば、彼は無実の罪で地獄へ行くことになってしまう」
ミカエルが悲しそうに眉を下げる。オリバーは隣に座っているハルトを見た。カウンターはリーダー達のように常時見えるようになるには修行が必要であり、まだ見習いに近いオリバーは集中しないと出来ない。そんなオリバーにもよく見えるように、ハルトは左手を机の上に出す。その手に刻まれた、絶望的な六桁のマイナス。これがあの愛しい彼女のせいだとは、彼にはまだ到底信じることは出来なかった。
ハルトのカウンターを見てそれきり言葉を失ってしまったオリバーに、ハルトは慎重に話しかけた。経験上、こういう時の一言は大事だ。間違えると立ち直れない。
「あの……オリバーさん、大丈夫ですよ。今何とかなるように考えてるところですから」
「あれ、ハルト優しーじゃん。もっと文句言えよ」
「だってオリバーさんのせいじゃないし」
「ライアがお前突き落としたのはオリバーのためなんだろ?無関係じゃねーじゃん」
ルークは顔面蒼白のオリバーに追い打ちをかけるようにいった。雲の上の上司からかけられた厳しい言葉に、オリバーの顔がますます強張る。
「だいたいさぁー、反対されたからって何なんだよ。気にしないのが無理なら認めてもらえるように頑張れよな。ライアはいろいろやってんじゃん。やり方間違ってっけど」
続いてルークの口から出た至極真っ当な意見に、今度はハルトも思わず頷いた。ライアが不正をしたのはオリバーとの関係を認めてもらうためだ。なぜそんな思考回路になったのかはわからないが、とにかく現状を変えようと必死だったのがわかる。
「確かに、僕が悪いんです。彼女がそこまで追い詰められていたなんて知らなくて」
「でも、どうして急に業績をあげようと思ったんでしょう。クロムさんは指示してないんですよね?」
「当り前だ」
「え?」
リリィの疑問に黒谷が即答した。その答えの速さに、オリバーが意外そうな顔をする。
「違うんですか?その……上司に言われたのかな、と思っていたんですが」
オリバーはおそるおそるといった感じで答えたが、目は明らかにクロムを避けていた。リリィやルーク、ミカエルの方を見て、必死に視線で助けを求めている。
オリバーはクロムを誤解しているのだ。こんなに怖そうな上司に何かを命令されたのなら、それがどんな事でも実行せざるを得ないだろうと、そう思うことで彼女の行いを正当化させたいと無意識に思っていたのかもしれない。
しかし、その思い込みは否定される。それは無いな、とオリバー以外の全員の内心が一致していたからだ。ライアは黒谷の管轄だし、黒谷が業績に拘ることは無い。
「クロムさんは、業績至上主義の考え方に疑問を持っておられます。そんな事を言う方ではありません」
「そうそう。業績なんか馬鹿らしいって散々いってたし」
「そうなんですか?」
リーダー二人のフォローは効いたようで、オリバーは半信半疑ながらも何とか頷いた。しかしミカエルと黒谷は顔を見合わせ揃って深刻な表情を浮かべている。
「業績を上げれば天使と悪魔の交際は認められると、彼女に吹き込んだ者がいるようだね」
「奴もわかりやすく動いてきたな」
「奴って誰なんすか?」
聞いたところで知らない悪魔の名が出てくるだけだろうが、ルークは一応質問した。今のところ敵の姿が鮮明に見えているのは、五百年前の戦争を経験した黒谷とミカエルの二人だけだ。
「あぁ、あいつは……っ!!」
それに答えようとした矢先、不意に黒谷の耳に笛の音が聞こえた。ハルトに渡したあの黒いホイッスルの音だ。その音はどこの世界にいても黒谷の耳に必ず届き、持ち主と現在位置が分かるようになっている。ハルトとシルヴィアだけが持つ特別制のそれが、店から大きく響いて黒谷を呼んでいた。
「……シルだ。呼んでる」
突然立ち上がった黒谷に全員が注目した。先程までの厳しい表情とは違った鋭く尖るような視線を見て、何も聞こえない面々もそれぞれ緊張感を走らせる。
「シルヴィアさんが?どうして」
「シル姉に何かあったんすか?」
「シルヴィアさんに?」
ハルトだけでなく、リリィとルークもその名に反応を示した。二人は時々黒谷の店を手伝っているので、シルヴィアとも何度も顔を合わせている。
「あいつは滅多に笛を吹かない。何かあったな」
黒谷は考える。おそらく緊急事態だろう。一人で戻るか、ハルトを連れて戻るか。連れてきた身で先に帰ってしまうのは躊躇われるが、本当にシルヴィアの身に何か起きたのだとしたら、ハルトには悪いが守るものは少ない方がいい。悪魔の能力は攻めの一手、天使と違い何かを守る力は無いのだ。契約でリリィやルークの能力が一部渡されたとはいえ、巻き添えにしてしまう可能性は充分にあった。
「悪いな。少しで戻る、ここで待って……」
「駄目です」
言いかけた黒谷をリリィが制した。いつの間にか、ルークもハルトも立ち上がってリリィのそばに移動している。
「皆で行きましょう。私の瞬間移動で速く着きます」
「残念だけど私は行けないんだ。皆、宜しく頼むよ」
リリィの申し出にハルトとルークが頷く。ミカエルもその場に立ち上がって言った。彼は他の天使たちと違い、天国から出ることが出来ない。
そして空気を読んだのか何故かオリバーも立っているが、おそらくシルヴィアって誰だ、と思っているのだろう。そんな表情をしている。
「……わかった。頼む」
少し考え、黒谷が頷いた。一人で行く気だったが、確かに飛んでいくには少し時間がかかる。一刻を争う状況で、リリィの申し出は素直に有難かった。ルークの防護壁は強力だし、一緒に来てくれればシルヴィアもハルトも守れるだろう。
「では、早速行きましょう。ミカエル様、行ってきますね」
食堂を淡い光が包むのを、ミカエルは目を細めて見送った。懐かしい名前に昔を思い出して微笑む。リリィやルークは知らないが、彼はシルヴィアとは昔馴染みだ。しかし心配などは欠片もしていない。あれだけ大勢で行けば万に一つも危機は無いだろう。あとはゆっくりお茶でも飲みながら報告を待てばいい。
「あれ?」
再び椅子に座ろうとしたミカエルは、ふと先程までオリバーが座っていた席を見た。今この食堂にはミカエル一人しか残されていない。彼は行くと言っていただろうか、とのんびり考える。おそらくリリィの範囲指定ミスだが、ミカエルにとっては些細な事だった。
「本当に皆で行ったんだねぇ」
仲良しだなぁ。とのんびり言って、ミカエルはお茶の続きを嗜んだ。




