第十二話 失敗したら早めに謝ろう
「困ったわねぇー」
ハルトが見知らぬ天使の悩みを聞いていたちょうどその頃。シルヴィアは店の調理場で、小麦粉と卵にまみれたぶかぶかのエプロンを身につけたまま、途方に暮れたように腕を組んでいた。今日は本業のクリニックが午前中に終わったので、午後から彼女はずっと一人でこの調理室にこもっている。
汚れているのはエプロンだけではない。いつもはぴかぴかに磨かれている調理台にも、良かれと思って出した数々の調理器具にも、果てには床のタイルの溝まで、あたりは白い粉でびっしりと埋まっていた。上白糖の甘い香りとカラメルの焦げたようなほろ苦い香りが、決して広くは無い調理場全体を包んでいる。
(怒られるかな…)
この店の持ち主である背の高い悪魔を思い出し、シルヴィアは申し訳なさそうに眉を下げた。自分が料理下手なのは百も承知だが、彼のいないうちに少しでも上達しようといつも見ている通りにやってみたらこの有様だ。見ているのとやるのとでは大違いだと、数時間前の自分に教えてあげたい。
さてまずは片付けようかと箒を手に取り一掃きすると、床に落ちた卵の黄身が割れて、そこに小麦粉がねっとりと団子状に絡みついた。
両手で柄を持ってゆさゆさと振ってみる。取れない。更に大きく振ると、ガンッと大きな音がして背後の棚が大きく揺れた。
少し遅れて床で食器がパリンと割れる音とともに床一面の白い粉がぶわっと宙に舞う。細かい粉が鼻腔を擽りクシュンと大きなくしゃみをすると、背後で再び何かがガラガラと崩れる気配がした。シルヴィアは箒を握りしめたまま固まっていた。もう怖くて振り向けない。
「……さいあくだわ」
この惨状を見たら彼は怒るだろうか。いや怒られはしないだろう。まずは無表情で状況把握に努め、広い肩を大きく落として少しの時間落ち込み、それから仕方なさそうにため息をつきながら黙々と後片付けをするはずだ。そして今日限りで調理室は出禁になる。シルヴィアは黒谷と付き合いが長い上に、何故か彼とは昔から異様に気が合う。こういう時に彼がどんな反応をするのか、手に取るように正確にイメージできた。
(お茶は美味しく淹れられるのになぁ)
二階のカフェや店舗の掃除も普通に出来るのに、何故調理をしようとした時だけこんな事になるのだろう。自分は調理の神には嫌われているらしいと、調理の神なんていやしないのにシルヴィアは思った。
とはいえ、とてもこのまま黒谷を迎え入れるわけにはいかない。せめて作業台だけでも綺麗にしようと店舗に通じる扉を開け、ショーケースの裏側に入る。身を屈めるようにして新しい台拭きを探していると、しっかりと戸締りしてあるはずの扉が音もなく開いた。
「……ここが本当にクロム様のお店なの?」
聞き慣れない若い女性の声が聞こえ、シルヴィアは身を固くした。彼のことをクロム様と呼ぶのは悪魔だけだ。おそらく彼の部下だろう。人間なら黒谷の名で呼ぶし、天使のほとんどは彼の名を知らないか知っていても様付けでは呼ばない。
「(ダッて、カードにカイてあったダロ?)」
「(何かの間違いじゃないの?こんなの変よ)」
「(クロムサマだってケーキすきカモよォ?)」
「(まさか。あんなに恐ろしいクロム様がケーキなんか食べるわけないじゃない。きっと太らせた人間の方を食べるんだわ)」
「(シってル。ソレ、ヘンケンっていうんダ)」
声の主は二人いるようだ。一応声を潜めて会話をしていたが、店舗で堂々と交わされる会話はショーケースの裏側にいるシルヴィアの耳にもよく届く。しかし部下にこんなことを思われるとは、酷く人望のない奴だなとシルヴィアは呆れた。昔はそれなりに尊敬を集めていたはずだが、よく考えれば彼に今時の若者とうまくやるだけのコミュ力などあるはずがなく、フォローしてくれる仲間も地獄にはいないのだから仕方ないだろう。精一杯やっている彼にそれを求めるのは酷だ。
(見つかりませんように)
息を殺して透明なショーケースに並ぶケーキの隙間から様子をうかがうと、黒縁の眼鏡に黒いお下げ髪の小柄な女性が焼き菓子の下の戸棚に手を伸ばしているところだった。小さな身体に新入社員が着るようなリクルートスーツを身につけているその姿はとても泥棒には見えず、一見、営業時間外だと知らずに入ってきてしまった一般客のようだ。
しかし、彼女の周りをくるくる回っている毛玉を見てシルヴィアは確信する。彼女こそがまさにこれから捜そうとしていた一連の騒動の元凶とも呼べる人物に違いない。
(きっとライアだわ……どうしてここに?)
シルヴィアは低く身を屈めたまま二人の会話を盗み聞く。彼女に自衛手段は無い。見つかったらただでは済まないだろう。
「(ライア、やっぱりヤメようヨォ)」
彼女の横で浮いている、毛玉のような黒い使い魔が言った。どうやら主人を諌めているようだが、彼女はやはり思い詰めた表情で焼き菓子の棚を漁っている。
「(だって、やらないと……)」
「(アヤマってユルしてもらおうよォ。ギョウセキあげたくてガンバりすぎましタって)」
「(だからそのためにやってるんじゃない)」
「(ちがうヨ。クロムサマにだヨ)」
「(嫌よっ!灰にされたくないもの)」
「(クロムサマ、そんなコトしないとオモうケド)」
毛玉との会話を聞いている限り、彼女は誰かに命令されて来ているようだ。一体誰にと思うが、流石にとびだして行って話を聞くわけにはいかない。シルヴィアは引き続きじっとしていた。
「(とにかく、あれを探さないと……)」
「(ソンなトコには無いと思うヨォ)」
「(うるさいわねっ。分かってるわよ)」
パウンドケーキの下の棚、クッキーの籠の下、階段下の掃除用具入れまで開けて、彼女は必死に何かを探していた。何か盗られて困るものでもあったかしら、とシルヴィアは内心で首を捻る。心当たりが何も無い。
「何も無いわね。仕方ない、上に行くわよ」
シルヴィアの隠れているショーケースをスルーして、ライアは階段を上って行った。もしも何かが隠されているのなら、焼き菓子の下よりショーケースの裏側の方が確率が高いだろうに。探し物の才能は無いようね、と息を吐き、箒の柄をしっかり持ち直す。
追って二階に行くべきかは少し迷ったが、行かないわけにはいかないと思った。留守を預かっているからにはやるべき事はやっておきたいし、折角捜していた人物が目の前にいるのだから目的くらいは把握しておきたい。
「……無いわ、どうしよう」
「ソッチの棚は見タ?」
「これから見ようと思ってたのよ!」
それにしてもしっかりとした使い魔だな、と、階段の半ばで息を潜めながら会話を聞いていたシルヴィアは思った。話をする使い魔自体が珍しい中で、毛玉は見る限り主人よりも余程しっかりしている、ライアも素直に毛玉の言うことを聞いておけばいいのだ。
もう少し近づいてみようかと足を踏み出すと、わずかに軋んだ音がした。これは駄目だと足を引く。見る限りあまり強そうでは無いが、彼女は悪魔。何の力もないシルヴィアよりは戦えるはずだ。まだ見つかる訳にはいかない。
「ココになかったらドウスルのさァ」
「ないと困るわ」
「オリバーもシンパイしてるよォ」
「私たち二人のためよ。もう、業績あげれば誰にも文句言われないって思ったのに、こんなことになるなんて」
「 ヤッぱりフセイはダメだったねエ」
「だって、そうでもしないと業績伸びないんだもの……悪いことしてる人間ってなかなか見つからないんだから」
ライアは食器棚を物色し、毛玉は椅子席を回っている。彼女は完全に仕事熱心の方向性を間違えているなとシルヴィアは思った。暗示でもかけられているのかもしれない。毛玉がくるくる回りながら言った。
「シッパイは無かったコトにはならないんだヨォ。ニンゲンもムキズだったんだから、いまアヤマればカルいバツですむカモ」
「そんなのわからないじゃない。私まだ死にたくないの!それにこれが成功したら……無かったことになるのよ」
無かったことにしてもらわないと、と呟きながら食器棚を漁るライアの姿を見たところで、シルヴィアは一旦階段の半ばに座った。ここでも二階の会話や物音はよく聞こえる、気を抜かなければライアが下に降りてくる前に逃げられるはずだ。
(まさかね)
彼女が誰かに利用されているのは間違いない。それがもしもあの悪魔だったとしたら、とシルヴィアは心当たりについて考えた。しかし彼女の目的がそれであるならば、まさかこんなところを探しはしないだろう。黒谷の趣味の塊のようなこの店で見つかるものなんて、せいぜいアンティークの食器やレアな茶葉くらいだ。
(まだ、ハルトくんたちと天国よね)
シルヴィアは首に下げている黒いホイッスルを取り出した。何かあったら呼べと黒谷から五百年前に渡されたものを、シルヴィアは今も欠かさず身につけている。緊急事態なので呼んでもいい気がするが、仕事の邪魔をしてはいけないと言う気持ちがそれを吹くのを躊躇させた。それに、情報ももう少し欲しい。
「ダイたいさァ。何にツカウのサ、ハンコなんテ」
「だから言ったでしょ。地獄の秘宝よ、マスターから盗んだ」
「クロムサマがナンでそんなコトするのサァ」
「マスターになって地獄を征服するのよ。きっと恐ろしいことになるわ」
「あのカタがシハイシャになっても、ソウジトウバンがキビしくなるくらいじゃナイカ?」
「違うわ。あんたはあれを見てないから……」
「アレ?」
「っ、とにかくっ!早くあんたも半分になった金のハンコを探しなさいよ!」
変わらず二人は会話を続けながら探し続けている。ライアの黒谷への勘違いが著しいのも問題だが、より大きな問題は彼女の探し物が『金のハンコ』であることだ。それを聞いて、階段で全神経を耳に集中させていたシルヴィアは黒いホイッスルを口元に当てた。
(やっぱりあれを探してるんだわ)
金のハンコとは、おそらく地獄のマスターのみが持つことを許される金印の事だろう。シルヴィアは、五百年前からマスターを名乗る悪魔が金印を探し求めている事を知っている。やはりどんなに忙しくても帰ってきてもらおうと息を吸ったその時、手元が震え、わずかに箒が傾いた。ガタッという音が決して広くは無い廊下でよく響き、ライアと毛玉の注目を浴びる。
「誰っ!?」
ライアが叫ぶ。毛玉がこちらへやってくる。どうにか時間を稼がなければと箒を手に全速力で階段を降りながら、シルヴィアは黒いホイッスルを力いっぱい鳴らした。




