第十一話 付き合う前に身元は確認しよう
執務室近くの白い石壁を潜るようにして小さな調理室に入り、黒谷は簡素な三口コンロの前に立った。城内には当然大きな厨房もあるが、何人もの天使が仕事をしているそこで堂々と料理を作る勇気はさすがの黒谷にも無い。
「クロム様。ようこそいらっしゃいました」
中でパンを捏ねていた、白い髭を生やした恰幅の良い天使が振り向く。彼とは五百年以上前からの付き合いだ。気負うことなく黒谷は食材を物色する。
「会議が一段落したのでな。少し借りる」
「勿論です。マスターも一緒に?」
「そうだ。メインの方にはもう連絡が回っているだろう」
「ええ。マスターとリーダーは他でお食事なさると」
何故天使のリーダー会議に悪魔が参加しているのかと、若い天使が当然思うような疑問を彼は決して口にしない。同じ天使達から変わり者と評される彼は、腕利きの料理人ながらこの狭い調理室を好んで使っている唯一の天使だ。
「最近変わった事はあったか?」
玉ねぎや人参を物色しながら黒谷は言った。野菜はたくさんある、今日は具沢山のカレーにしようかとぼんやり思いながらじゃがいもを手に取って重さを確かめる。男が記憶を辿るように手を止めた。
「最近は、争いが特に加熱している傾向にあります。悪魔が業績を伸ばせば伸ばすほど、こちらも動かざるを得ない。困ったものです」
男は深く息を吐いた。だろうな、と黒谷も同意する。悪魔が仕事をするということは、地獄へ行く魂が増えるということだ。それは避けなければと、天使も必死でポイントを与えている。
「業績、か。こんな風に使われるとはな」
先程のミカエルと同意見を呟き、作業台の前に立ち包丁を握る。カウンターが出来た頃は新しいこのシステムを軌道に載せるのに必死で、こんな事になるとは想定していなかった。黒谷は自分の見通しの甘さを反省しながら黙々と野菜を切った。大きな手で瞬く間に処理されていく大量の野菜達を、男は感心したように見ている。
「いつ見ても見事ですな」
「別に。慣れだ」
「いえいえ。そういえばこの前のパンも見事な焼き上がりで。料理もそうですが、中でもクロム様のスイーツはどれも絶品ですな。メインの厨房にいる天使達が作る菓子もあれには敵わないでしょう」
男の手放しでの賛辞に、しかし黒谷はどんな反応を返したらいいか分からず流した。男も黒谷の反応が薄いのはいつもの事なので何も気にせず、感慨深く一人頷いている。
「本当に上達なされた」
男は知っていた。黒谷の料理や菓子作りの腕前は決して天性からのものでは無い。五百年毎日のように厨房に立ち、様々なレシピ本を睨みながら試行錯誤を繰り返した成果だ。
「……こんな事ばかり上手くなっても、大した意味は無いんだがな」
しかし黒谷は常と変わらない無表情でコンロに火をつけた。天国には肉類が無いので代わりに大豆を多めに入れる。野菜の種類も多いので、それで充分良い味が出るだろう。
「今日はカレーですか。良いですね」
「多めに作るからお前もここで食っていけ」
「クロム様の手料理を食べられるなんて幸運です」
「褒めても何も出ないぞ」
「本心です。この味を知らない他の天使達は気の毒ですな」
男は豪快に笑った。若い天使たちは黒谷の手料理を、悪魔の作った食べものだというだけで警戒して口にしない。この時代の感覚なら当然だと黒谷自身は気にしていないが、男はそれを心底残念に思っていた。
「……昔は仲が良かったというのに。本当に残念な事だ」
白と黒の翼が混ざり合って働いていた煉獄の風景を思い出し、男がぼそりと呟いた。耐えきれずに口から零れ落ちてしまったというようなそれに、黒谷は何も返さない。
(今の状況は、あの方にはとても報告できんな)
黒谷も調理の手を止めないままに、ある存在を思い出していた。優れた頭脳と人格で地獄を立派に治めていた、圧倒的なオーラを纏った艶やかな黒い翼。彼がこの場にいたら、今のこの状況を何と言うだろうか。
「魔王様がいてくれたら……いえ。失礼しました」
男も同じ事を思っていたらしい。しかし五百年前、聖剣から放たれた地獄が消し飛ぶほどの聖なる気から命懸けで地獄を庇って倒れた魔王が、今この場に現れることは決してない。かつて魔王の腹心の部下だった黒谷に配慮してか、男は自ら口を噤んだ。
(忘れられるわけがないか)
今の若い天使や悪魔は魔王を知らない。おそらく敵側が捏造した噂を流したのだろうが、今やその存在は人間界を支配しようと企む悪として、または多くの悪魔を天国に送った侵略者として、また地獄では少しでも逆らえば命はないという恐怖の象徴として語られる。
しかし一度でも本物の魔王に会ったら、少しでも話をしたら、その存在がこの世界に必要だと誰もが願うだろう。口には出さなくても、当時を知る者は皆思っている。魔王がここにいてくれたら、と。
「(必ず取り戻す)」
黒谷が発したその言葉は空気に溶けるほど小さく、決して男に届くことは無い。しかしそれは確かな決意となって、彼の心の中だけに大きく響いた。
◇
「えーっと。あれ?こっちだっけ?」
ハルトは迷っていた。隅々まで磨かれた白い床には濃緑の絨毯が敷かれ、それがどこまでも続いているように見える。角を曲がる度に置かれている白い翼を広げた天使の石膏像はみな一様に慈悲深い表情を浮かべており、自分がどこを曲がって来たのか見当もつかなかった。
(やっぱり案内してもらえば良かったなぁ)
朝一度案内してもらった同じ場所だからと、リリィの申し出を断ってしまったことが悔やまれる。こんなに分かりずらい場所だとは思ってもいなかった。
階段を上がったり下がったりした記憶は無いのでおそらくこのフロアを回っていればいつかたどり着くはず、と、何体目か分からない石膏像を右に曲がる。左手に現れた階段を何となく見ながら通り過ぎようとした時、その階段の中程に一人の天使が物憂げな表情で座っているのが見えた。
「あの……どうしたんですか?」
そのまま通り過ぎるのも忍びなく声をかけてみたハルトに、その天使はびくっと肩を震わせた。
「え……に、人間……?」
「あ、はい。お邪魔してます」
礼儀正しく腰を折ったハルトに不思議そうな顔をするものの、天使はそれ以上驚くことは無かった。悪魔のように嫌悪されるわけでもないようだし、黒谷と一緒の時とは違って少し物珍しがられるだけで済みそうだ。
「何かあったんですか?悩んでいるみたいだったので……」
ハルトは階段を数段上がって天使の横に座った。気弱そうな若い男の天使は初対面のハルトも分かるほど明らかに落ち込んでいる。
「実は、彼女とここ数日連絡が取れなくて……」
天使の口から吐き出されたにしては意外に世俗じみた悩みに、人間も天使も変わらないなぁとハルトは思った。恋愛経験のない自分に良いアドバイスができるとは思えないが、とりあえず話だけは聞くことにする。
「ケンカとかしたんですか?」
「いえいえ、そんな……とても仲が良いんです。本当に」
「最後に連絡が取れたのは?」
「一週間ほど前です。それまでは毎日連絡していたのに、急に音信不通になって」
嫌われたのかな、と俯く天使を慰めながら、ハルトは天国の連絡方法について考えていた。天国版スマホのようなものがあるのだろうか、それかテレパシーのようなものかもしれない。今度リリィかルークに聞いてみよう、と思いながら隣の青年天使に向き直る。
「きっと何か事情があるんですよ……忙しいとか」
「そうですよね、忙しいんですよね……きっと」
恋人と連絡が取れない時の都合のいい考え方ベストスリーに入るであろう事を、とりあえずハルトは言った。青年もそう思いたいのかしきりに頷いているが、その表情を見ると、他に心当たりがあるようにも思えた。
「何か他に心当たりが?最後に会った時に様子がおかしかったとか」
「それは……」
あるんだな、とハルトは思った。しかし青年は、今日会ったばかりの人間の少年にどこまで話していいか迷っているようだった。ハルトにとってもこれが数年来の友人や家族なら問い詰めてでも話を聞く所だが、相手は見知らぬ天使。言いたくない話を無理やり聞くことはしない。
「………実は」
数分間の無言状態を経て、青年の方が口を開いた。話をしてくれるならば聞こうと、ハルトも改めて青年の方を見る。
「彼女との付き合いを、周囲から反対されていて」
「それは大変でしたね」
「あ、彼女はとても良い子なんです。真面目で優しくて、思いやりがあって」
「なのに、なぜ反対を?」
青年は必死に、彼女のいい所をアピールしているようだった。そんなにいい子なら周りの人も反対しなくていいだろうに、と思って聞いてみれば、青年は躊躇いがちに口を開く。
「……悪魔なんです。彼女」
「なるほど」
ハルトは一瞬で納得した。一般的に天使と悪魔は仲が悪いと聞いたし、黒谷と一緒に歩いた時のあの突き刺さるような視線を思い出せば、確かに受け入れられるのは難しいだろうと想像できる。
なぜ友人にも相談せずこんな所で一人頭を抱えているのだろうと思っていたが、やはりそれなりの事情があったようだ。
「それは……大変ですね」
ひとまず同情の意を示したハルトに悪魔への偏見が無いと気がついて安心したのか、青年は彼女とのことを語り始めた。
「彼女とは、人間界で出会いました。お互いに翼を隠して仕事をしていたので、最初は同じ天使だと思っていたんです」
「それは、そう思いますよね」
「はい、途中で違うと分かって驚きました。でも、お互いの気持ちは変わりませんでした」
青年はきっぱりと言った。その強い口調に、揺らがず一点を見つめる瞳に、彼女への想いが現れているようでハルトは胸が熱くなった。しかし青年は、やがて厳しい現実を思い出したように俯く。
「でも、周りは反対しました。親も、友人も。説得したんですが全然聞いてくれなくて……」
「そうだったんですか」
天使と悪魔が違うのは翼の色形くらいだと、黒谷を知っているハルトはそう思っている。他にも能力や性質の違いはあるのかもしれないが、そんなに反対されるものなのだろうか。
「不思議ですよね。天使も悪魔も人間も、話をしてみれば何も変わらないのに」
はっとしたように、青年がハルトを見た。やっと欲しかった言葉をもらえたと、じわりと目に涙が滲む。
「あなたみたいな人にもっと早く相談できていたら、彼女はいなくならなかったかもしれないですね」
俯く青年の背中をさすりたかったハルトだが、畳まれた羽があったのでかわりにそっと羽に触れてみた。ふわっとして少しあたたかい。果たして天使の慰め方はこれであっているのかと内心疑問に思いながらもとりあえず撫で続けるハルトに青年は心を開いたようで、ぽつりと心当たりを口にした。
「…… 最後の連絡で、彼女が言ったんです。『業績』をたくさん上げて認めてもらうって。そんな事しなくていいのに、業績なんか……なんの意味もないのに」
やはり仕事が忙しいんでしょうか。と、青年は頭を抱えた。悪魔は業績に拘っていると先ほども話題に出ていたし、ハルトもある意味『業績』の被害者といえる。ハルトは青年に同情した。
「早く連絡取れるといいですね」
「はい。早く……ライアに会いたい……」
ライア、と聞いてハルトは考える。最近この名前をどこかで聞いたことがあったからだ。それが自分を誘導自殺させて地獄行きにしたあの悪魔の名前と同じであることに、やがてハルトは気がついた。
「ライア……さんって、あの毛玉の?」
「毛玉?彼女の使い魔の!もしかして彼女を知ってるんですか!?」
「知っているというか……その」
「ハルトさーん!」
まずは同一人物か確認しようと使い魔の特徴を出したハルトに青年が詰め寄ったちょうどその時、少し先の廊下からリリィが走ってくるのが見えた。迷子になったハルトを探しに来たようだ。
「あ。こっちです!」
「リっ、リリィ様!?」
息を切らしながら階段の下まで来たリリィは、ハルトが見知らぬ天使と話をしていることに驚いていた。青年は青年で、突然のリーダーの登場に驚いて固まっている。一般の天使がリーダーに会える事は稀だ。特にリリィは少し笑顔を向けられたように見えただけでその後十年は調子よく働けると、一部の天使たちに絶大な人気を誇っている。本人は知らないが、非公式のファンクラブも年々大規模になっていた。
「リリィさん。あの……」
ハルトは階段を下りて、リリィだけにこっそり事情を説明した。連絡の取れなくなった彼女を心配しているだけのこの青年天使に罪は無い。しかしライアを見つける手がかりと動機が分かったのだ、このままさようならという訳にもいかないだろう。大変申し訳ないが少し協力してもらうしかない。ハルトとリリィは目を合わせて固く頷き合うと、事情が分からず戸惑う青年を半ば騙し討ちのように黒谷の元へと連行したのだった。




