SS 12月26日 クロム×シルヴィア
12月26日の夕方。聖なる夜はとっくに過ぎて、駅前の大きなツリーも魔法のように消えている。
昨夜まではこの街に溢れていた恋人たちの姿はなく、代わりに年末に向けた買い出しをする人々が忙しなく行き交っていた。
「ねぇ。あんたやっぱり肉食べるでしょ?」
「だから要らんと言ったろうが。菜食メインの店にすれば……」
「だから大丈夫よ。お肉だって人間だった時に散々食べたし」
「最近は天使の感覚も戻ってきたと言っていただろう。苦手になってるんじゃないのか?」
「前よりはって話よ」
「無理に食うことは無いという話だ」
待ち合わせ場所によく使われるベンチの横に立ったまま、二人はかれこれ数十分は平行線の会話を繰り広げていた。ひとりはヒールの高いショートブーツに白いコートを羽織った銀髪の長身美女。
モデル顔負けのスタイルの良さに見合う男などいないと思いきや、彼女の連れはそれ以上に背が高く顔も良い。長い脚を美女の方に向けて、彼女の持つ端末に視線を向けている。
ハイブランドの広告写真のような二人の姿は、時折芸能人も通りかかる繁華街でも一際目立っていた。
「俺が作るのが一番早いんだが」
「だってあんた、昨日までクリスマス営業で疲れてたでしょ。無理させらんないわよ」
「調理を無理だと思った事はない」
「あんたが調理側にいると、あたしが寛げないっつってんの」
シルヴィアは呆れ顔でスマホを持った手を下ろし、小さなショルダーバッグの中に入れた。
「どっちにしろ夕飯にはまだ早いんだし、先に買い物済ませちゃいましょ」
クロムは頷いて、シルヴィアの指した方向へ歩き出した。どちらも合わせているつもりがないのにぴったりと歩幅が合うのは、付き合いの長さもあるが、もともと脚の長さと歩く速さが似たようなものなのだろう。今日の予定を「買い物とごはん」としか聞いていないクロムは、彼女の隣をぴったりとついていく。物欲の乏しい彼は、買い物といえば当然のように荷物持ちを連想していた。
「さ。たくさん買うわよー」
シルヴィアに促されて足を踏み入れたのは、百貨店の調理用具売り場だった。数々の調理器具に目を通しながら、クロムは眉を寄せる。
「まさか調理をする気じゃないだろうな」
「違うわよ。選ぶのはあんた。買うのはあたし」
シルヴィアは何てことないように言って、金色のカードをひらりと振った。しかし、それを見てクロムは首を傾げる。
「別に自分で買えるが」
「そんなの知ってんのよ。ほら、色々お世話になったから少しでもお返ししようと思って。あたし調理器具詳しくないし、あんたに選んでもらえば確実でしょ」
そんなことを言って背を向ける銀髪は、クロムでさえ使い方がよくわからない最新の器具を不思議そうに見て首を傾げている。クロムはその後ろから同じ棚をのぞきこみ、謎の器具に手を伸ばそうとしている腕に手をかけた。
「調理器具は足りてる。お前の欲しいものはどうした」
「今日はあんたのために来たのよ」
「お前の世話をした覚えはあまりないが」
「毎日ごはん作ってくれたじゃないの。しかも無料で」
「お前も店手伝ってくれてただろうが。しかも無給で」
シルヴィアが、クロムの眼前でぱちりと瞬いた。言われてみればそうかもしれない、と思っている雰囲気だ。クロムは少し考え、自身の財布から黒いカードを取り出した。
「なら今日一日のお前の会計は俺が持つ。俺の買い物はお前に任せる。どうだ?」
「あたしが買うのと同じくらいあんたも買うならよしとするわ」
シルヴィアは頷いた。ともに天国地獄の王候補。シルヴィアの方はしばらく天国を離れていたとはいえ、金には全く困っていない。たとえ百貨店で店員が引くくらい買いまくろうと、互いに大したことはないとわかっているから出来る遊びだ。
「そうだ! 折角だから勝負しましょ。相手に使わせた金額多い方が勝ち」
「何を賭ける?」
「そうねぇ……リリィのロマンス本の次回作出演辞退の権利とか」
「それは負けるわけにはいかないな」
挑発的に細められた新緑を見て、クロムは僅かに口角を上げた。
「ちょっとあんた、食器棚の空き考えなさいよ。そんなに入りきらないじゃないの」
「お前こそ、冬があと何日あるか考えたらどうだ? 日替わりでもそんなに着れないだろ」
「冬は来年もあるから平気よ」
「食器棚は調理室にもあるから大丈夫だ」
それから数時間。二人は本当に店員が引くくらいの買い物をした。クロムは食器棚が埋まるほどの食器を、シルヴィアは化粧品と服を。買ったものは店に配送してもらうことにしたのでどちらも荷物は持っておらず、あまり実感はないが。
「どうした」
そろそろ買い物も終わりかと思われたころ、クロムはジュエリーショップの入り口に立っているシルヴィアの目線を追った。少しでも気になったものは迷わず手に取るタイプのシルヴィアにしては珍しく、店の外から眺めているだけだ。
「指輪か」
「うーん……なんか物足りないのよねぇ」
シルヴィアは自分の右手に視線を落とした。その中指には少し前まで、サタンの黒い指輪が嵌められていたのだ。もともとの彼女の趣味ではないとはいえ、もうそこにあることが当たり前になっているので、何も無いと寂しく感じる。クロムも以前、彼女がそう言っているのを聞いた事があった。
「買えばいいだろうが」
「そうねぇ……でも今日買ったらあんたに払わせちゃうでしょ。いくらあんたでも指輪をねだるわけにはいかないわよ」
「そういうものか」
「あたしは気にしないけど、結構聞かれんのよね。サタン様の指輪つけてた時もさんざん言われたし」
今度来た時自分で買うからいいわ、と軽く肩を竦めるシルヴィアを見て、クロムはひとまず頷いた。薬指が特別なのは知っているが、「指輪」自体に意味があるとは考えていなかったのだ。
「わかった。なら俺の買い物に付き合え」
「え? ちょっと」
クロムはシルヴィアの手を引いて、躊躇いなく店内に入っていった。明らかに女性向けのデザインが並ぶショーケース……ではなく、店員に直接話しかけている。
「いらっしゃいませ黒谷様」
礼儀正しく腰を折った店員は、顔見知りのようだ。シルヴィアは首を傾げた。彼に長年装飾品を贈るような相手がいないのは、彼女が一番よく知っている。
(あいつ何してんのかしら)
もしや知らないうちに新しい女ができたのか。いや、最近はケーキの装飾も板についてきたし、とうとうジュエリーのデザインまで手掛けるようになったという方がまだ可能性があるか、などと考えていると、奥の方から戻ってきたクロムが再びシルヴィアの腕を掴んだ。
「お前が来ないと話にならんだろうが」
「え? 何?」
促されるがままに奥のソファーに腰を下ろすと、テーブルの上には既に商品が乗っていた。シンプルな細い銀のリングだが、一般的な女性のものより少しだけ大きい。
「これって」
「手を出せ」
シルヴィアは素直に右手を出した。長年この手を飾っていたサタンの黒い指輪が消滅して以来、少し寂しさを感じていたその中指に、銀のリングが通される。
サイズは、誂えたようにぴったりだった。
「お前にはこっちの方が似合う」
シルヴィアは、満足そうに頷いたクロムの柔らかな瞳と銀のリングを交互に見た。どうやら予め用意してくれていたようだ。指輪を貰うような関係ではないが、突き返すほどに他人でもない微妙な間柄。
(指輪自体は可愛いし、別に受け取ってもいいかしらね)
中指に視線を落としてじっと考え込んでいるシルヴィアの耳に、悪魔の声が囁いた。
「俺が注文して買う予定だったものだ。つまり、俺の買い物だから支払いはお前な」
「……あんた……サイテーね」
言葉とは裏腹に、シルヴィアは片手で口を押さえて肩を震わせながら、嬉々としてカードを出した。まさかの展開に店員はおそらく引いていたが、肝心の彼女の表情は「最高!」と言いたげに緩んでいる。
シルヴィアは、店を出てからもしばらく笑っていた。
◇
すっかり陽が落ち、冴え冴えとした夜空に無数の星が光るころ。ライトブルーの扉の向こう、階段を上がっていつものカウンター席にふたりは並んで座っていた。結局夕食は総菜売り場で買ってきた数品とクロムが作った付け合わせを食べ、余ったケーキを数種類並べてクリスマスの激務を労い合う。最も気楽なふたりの形におさまった。
「いい加減笑いすぎだ」
「だって、ふふっ。まさか指輪を買わされるなんてね」
食後のハーブティーをゆっくりと飲みながら指輪を見ては思い出し笑いをするシルヴィアに、クロムは呆れた溜息を零す。あくまで彼女の意向に沿っただけで、彼としては買わせたという意識はないのだ。
「お前が面倒な事を言うからだろう」
「わかってるわよ。気遣ってくれたのよね」
「俺が払っても良かったというか、そうするつもりだったんだがな」
「どっちが払っても同じようなもんでしょ」
言いながら、シルヴィアは気がついた。どちらが払っても同じだと自然と思えるほどに、彼との距離は近いのだ。くだらないことを気にしてしまったなと今更思うが、一方的に贈られるよりも気楽なのは変わらない。
「何か聞かれたら、自分で買ったと言える方がいいんだろう」
よくわからないが、と言いながら珈琲を飲むクロムは、隣にいながらあさっての方向を見ている。誰にでも通じるものではないが、彼女に対する深い理解は、シルヴィアの心にしっかり届いていた。
「あんたってわかりにくいのよね」
「何が」
「優しさがよ」
「最近は態度に示すように心がけているんだがな」
クロムはカップを持ったまま肩を竦めた。確かに最近彼は部下との関係を良好にすべく努力している。積極的に飲みに誘ったり、業務とは直接関係のないことを自分から話しかけたりする姿は、ここ五百年はもちろんのこと、それ以前にも見られなかったことだ。
「クロム様が変わった、って噂になってるわよ」
「本質は変わってない」
「知ってるわよ。あたしは」
「そうだろうな」
落ち着いた低い声が心地よくシルヴィアの耳に届く。常に向上心を持ち地獄の未来を切り開こうと努力を続ける彼と肩を並べる立場から、翼を失ったことで一方的に守られる存在へ。何もできない悔しさに流した涙を彼に見せた事は一度も無いが、おそらくそれも気がついているのだろう。
「お前がいてよかった」
しみじみと噛み締めるような彼の言葉がゆっくりと染みていく。シルヴィアは両手でカップを持ちあげ、クロムのいる隣ではなく彼と同じ前方を見た。この調理台で洗い物をしながら死後の世界の現状を聞いたり、カウンター席で夜通し試験の勉強をしたり。何もない自分をそのまま肯定してくれる彼との時間がなければとても、そのままの自分ではいられなかっただろう。
「あたしがあたしでいられるのは、あんたが隣にいるからよ」
そんな彼女の言葉を聞いて、クロムは静かに口の端を持ち上げた。魔王のいない地獄にひとり、出口の見えない暗闇の中で必死に藻掻いた五百年。いつでも会える彼女の存在にどれほど励まされたかわからない。
「翼が生えてきたら、やっとあんたの隣に戻ってこれたって気がしたのよね」
「ずっと隣にいただろうが」
呆れの溜息が溢され、薄墨色が銀の環に落ちる。細く白い右手の上に、長い指が重ねられた。
繋がれた手が、反応を確かめるような緩い速度で、少しでも嫌がれば解けるほど軽く持ち上がった。しかし彼女は解かない。その態度を許しと解釈し、彼が動く。
「お前はただお前であるだけで、どこの誰より良い女だ」
新緑が見開かれ、花が綻ぶような微笑みに変わった。それを視界の端で確認した彼は、瞳を伏したまま口の端を持ち上げる。
縛ることも求めることもない。ただ天より高い『敬愛』と、地よりも深い『親愛』を込めて。
彼女の白い手の甲に、淡雪のような、掠めるだけの接吻が一粒、降り落ちた。




