第百話 天獄で続く未来
「何だこれは……?」
地獄に戻ったクロムは、信じられない光景を見た。中層から下層のあたりが久しく無かったほど濃い魔のオーラに満ちていて、昔のように多くの黒い翼が飛び交っている。そこには先ほど説得に応じた部下たちの姿も見えるが、大半はそうではなかった。飛んでいる多くは、二度と顔を見ることはないと思っていた五百年前の部下たちの姿だ。
「えいっ! やった、当たった!」
「いいぞ、逃がすなよ」
「当然でしょ! さっき拾った獄炎花も投げてやるわ」
濃紺の巻き髪の悪魔が、金に染まった悪魔に向けて青い花を投げつけている。隣では茶髪を針のように逆立てた悪魔が、宙に向かって金色の液体の入った球体を投げ、金に染まった悪魔の脳天に雷を落としていた。
「よっし、やったぞ」
「相変わらずだっせー奴だなテメェは。ひとり始末しただけで喜んでんじゃねーよ」
茶髪の悪魔の後ろでそう言った全身タトゥーの女性は、両手に大きな溶岩を持っている。彼女は金色の球体ではなく、直接あちこちに溶岩を投げつけていた。
「いぇーい、命中っ!」
「あれ味方だろーが!」
「あ? 知らね」
「今投げたの誰だ!?」
「コイツ」
「違っ! お前最低だな! あ、マテ逃げんな」
堂々と罪を擦り付けて逃げた全身タトゥーを、茶髪の男が追っている。その少し下では獄炎花の青い炎に巻き込まれた裏切者が次々と姿を消していき、その周辺もあちこちが金色に染まっていた。あたりを見回しても、三百六十度どの方向にも、同じような光景が広がっている。
「…………」
混沌。その一言に尽きると、クロムは思った。以前の地獄はこんな感じだっただろうか。いや、もう少し秩序が保たれていた気がする。しかし隣で満足そうに頷いているサタンと反対隣りで楽しそうに声援を送っているミアの反応を見るに、やはりこんなものだったのかもしれない。
「いけいけみんなっ! あーそこ、おしいっ!」
「やっぱ地獄はこうでなきゃな」
「こんなに酷くはなかったと思いますが」
「みんな復活したばっかりだから張り切ってるんですよ。私もバリバリ仕事したいっ! 先代勇者と別れたばっかりだし」
「別れたのか」
「さっきフラれちゃいましたぁ」
口ぶりは残念そうだが、彼女の表情は明るい。先ほどまで大切そうに抱えていた聖剣は、今は壁際に立てかけてあった。
「さ。問題なさそうだし、俺らは煉獄行くか」
「むしろ問題しかないのでは」
「ねぇ、後継者ってどんな悪魔ですか? 私よりかわいい? 魅了上手? 私クビ?」
「見りゃわかる」
「えー。魔王様の意地悪」
ミアが口をとがらせ、サタンに続く。クロムもふたりのあとを追いながら、ルナと聖夜のいるであろう煉獄に思考を切り替えた。
「魅惑の悪魔」はふたりも要らない。クロムも当然、こうなることを予想していた。そして、自分が考えられる範囲の事をサタンが考えられないはずはないとも、当然クロムは思っている。
(何とかなるだろ)
任せておけば安心と思える存在が、近くにいる。クロムは金印の重みを感じなくなった首を回すと、軽やかに飛んだ。
◇
「ルナと申しますわ。初めまして」
ルナは深々と頭を下げた。先に戻ってきた聖夜からミアの復活を聞いて以来、彼女の表情は固い。サタンがミアに自分を紹介しているらしい声も、ほとんど耳に入っていなかった。
「ルナという。クロムが選んだ後任で……」
「ミア様がいらっしゃらない間、畏れ多くも臨時で役割を務めさせていただいておりましたわ」
サタンの口から決定的な言葉を聞く前に、ルナは自ら退いた。目の前で、藤色の髪の美女が驚きに目を丸くしている。その魅惑的な外見、噎せ返るような濃厚な気配。差は明確に表れているのだから仕方がない。
「ルナちゃんはそれでいいの?」
しかしミアは意外そうに首を傾げた。そしてルナのもとに向かうと、少し屈んでルナの瞳をのぞきこんだ。
「せっかくかわいいのにもったいなーい。奥ゆかしい子は嫌われないけど、遠慮してたらチャンスを逃しちゃうと思うわ」
「チャンスだなんて……」
「教えてあげましょうか」
ミアが、蕩けるように微笑んだ。その長い睫のついた瞼の動きひとつでどんな要望も叶えられるような魅力的な笑顔。ルナが彼女の瞳から目を離せずにいると、突然後ろから大きな手に阻まれて視界が暗くなった。
「ストップ。僕の瑠奈ちゃんを誘惑しないでください」
「えー。あなたのルナちゃんなの?」
「そうです」「違います」
不満げなミアの声に聖夜が頷き、ルナは否定した。ミアはふたりを交互に見て、そして心得たように頷いた。
「ルナちゃんはもっと自分に素直になるべきよ。本当はリーダーも降りたくないのに無理しちゃってるんでしょ? ほら、こっち来て。おねだりのお手本見せてあげる」
ミアは黒い翼を動かし、サタンを通り過ぎてその後方のクロムの前まで来た。そしてクロムの首に手を回し、視線を合わせる。先ほどルナの視線を奪った微笑みを、今度はクロムに向けていた。
「おねがい……ってほら見える? この角度が一番かわいく見えるの。ねぇクロムせんぱい?」
「何故俺に」
「ちょうどいいから。ねぇルナちゃん、見てるー?」
当然だがクロムは眉一つ動かさない平常心。その彼に豊満な胸を押し付けあざとく小首を傾げながら、ミアが魅了をかけやすい角度を指導している。その様子をルナと聖夜は横から観察した。少し前ならクロムに女性が絡むだけで大騒ぎしていたであろうルナだが、今はクロムには視線を向けず、ミアの表情だけを真剣に見ている。
今まで、地獄には魅了を使いこなせる悪魔がほとんどいなかった。しかし今日、初めて手にしたはずの力を自在に使いこなす聖夜の姿を間近で見て、更に魅了そのもののような存在のミアを目の前にして、ルナは少し変わったのだ。クロムが真顔で棒立ちのため、ただのモデルかマネキンのように見えているという事もあるかもしれないが。
「せんぱいはそのまま動かないでね」
「もう好きにしろ」
「ルナちゃんいーい? こう、左からの上目遣いが効果バツグンなのよ」
「瞬きの回数は関係ありますの?」
「多すぎるとわざとらしいからダメ」
「瑠奈ちゃんには難しいんじゃ」
「うまくできなくても大丈夫よ。魔王様は厳しく見えるけど、努力はちゃんと認めてくれるはずだから……」
「魔王様に!? い、いえ、私にはとても」
「女は度胸よ。ファイトっ!」
「魂胆バレバレじゃねぇか」
そこまで黙って見ていたサタンが思わず突っ込んだ。何をやっているのかと思ったら、魔王に取り入る方法を伝授しているつもりだったらしい。
「魅惑の悪魔はミア。どう考えてもお前以外にいない」
「魔王様……それは、嬉しいですけど」
サタンははっきり宣言した。ミアはクロムから離れて困ったように微笑み、ルナは視線を床に落として頷く。聖夜はルナを慰めるように頭に手を置こうとして、彼女に振り払われていた。サタンは口添えしようか迷っている様子のクロムに向けて軽く頷き、それからルナのもとへと向かう。
「ところでルナ。ケルベスの席が空いたから、後任を募集してるんだが」
弾かれたようにルナが顔をあげた。ミアがそっかぁ、と手を打ち、聖夜が微笑む。サタンはにやりと笑い、ルナの頭にポンと手を置いた。聖夜の時と違い、彼女は振り払わない。ただ全てを委ねるように、金の瞳を見つめた。
「魅惑の悪魔に拘りは?」
「微塵もありませんわ」
「だろうな。ただ策略ってのも柄じゃねぇだろうし……和平はどうだ」
「和平?」
サタンは金の天秤を指さした。長い間隔てられていた天国と地獄が久しぶりに煉獄を介して繋がり、天使と悪魔が再びともに仕事をする時代がやってくる。以前には当たり前だった光景だが、この五百年間をよく知っている彼女には、その難しさがよくわかるはずだ。
「復活させた悪魔たちは昔の事をよく覚えているが、天秤の存在から知らねぇ奴もいることだし、始めからすんなりうまくはいかねぇだろ。おそらく煉獄ではしばらくの間、多くの衝突が起こるはずだ」
「当然、心得ておりますわ」
「だろ? そこでお前の出番だ。天使との関りが一切なかった時代に生きて、ここまでしっかり地獄の理想を語れる悪魔はほかにない。お前は今日から「和平の悪魔」として、主にこの煉獄での仕事を任せる」
「煉獄で……天使たちと」
黒水晶のような瞳が大きく開かれ、そして輝きを取り戻した。地獄の最下層で苦しむ罪人たちを監視する仕事ではなく、白い翼とともに天に昇る死者の姿を日常的に見ることができる仕事だ。ルナにとって、これ以上のことはない。
「ありがとうございます」
ルナは深々と頭をさげた。次にサタンは、彼女に柔らかな視線を向ける後方の翼を見た。地獄法の細かな文字を細部まで思い出しながら、慎重に口を開く。
「聖夜。悪魔と契約を結んだ人間がどうなるのかは俺も知らねぇ。何せ今までそんな奴はいなかったからな。謎が多すぎる」
「わかってます」
「だが、地獄法の対象は「黒い翼を持ち、かつヒト型である者」となっているはずだ。ヒト型云々は単純に魔物と区別するためだと思うが、とにかくお前はこれに当てはまる。これに該当する者には、地獄で働く権利も与えられると思わないか?」
「もしかして就職のお誘いですか? そうですね……条件次第で」
聖夜は、もう答えは決まっていると言わんばかりの表情で、しかしわざとらしく考え込むような仕草を見せた。サタンは心得たとばかりに大きく頷き、にやりと笑う。
「条件聞いたら働きたくなるぞ」
サタンは聖夜をルナの補佐として破格の待遇で雇うべく、交渉を始めたのだった。
◇
「勇者様!」
「勇者様万歳!」
ルシファーが星となり、ケルベスが消え、再び街灯が灯された夜の広場には鳴りやまない歓声が響いている。ハルトはその中心で聖剣を掲げ、一身にその敬意ある眼差しを受ける立場だ。しかし、彼の表情は明るくない。
「ハルトさん」
隣にぴったりと寄り添うリリィが、気遣わしげに背に手を当てる。ハルトは高く掲げた聖剣を下ろし、ぎゅっとその柄を握りしめた。
生まれて初めて斬った肉と骨の感触がまだ生々しく手に残っている。何度思い返してもこうするしかなかったのだが、簡単に割り切れるものではない。
「これでよかったんだよね」
「はい。ハルトさんは、皆を救ってくれた立派な勇者です」
リリィは星空を見上げた。願いを叶え天に昇った金の翼。そしてそんな彼女を眩しそうに見上げながら消えた、黒い翼。彼は消える瞬間、どんなことを思っただろう。
「あら。浮かない顔ね、ふたりとも」
遥か上から、ミカエルとシルヴィアが降りてきた。きつく剣を握る手もとを、新緑がやわらかく見つめる。
「天使が武器を使うと、対価を取られて同じだけ傷つくのよ。ハルト君はそんな縛りなく自由に剣を振るえるのに、ちゃんとその重みを感じているのね」
「君こそ「我々の勇者」だよ、ハルト君。天使にはできないことを君はやってくれた。ほんとうに感謝しているよ」
ミカエルは深く頭を下げた。天国の王が認めた「勇者」に、より一層大きな歓声があがる。ハルトは慌てて首を振った。
「そんなっ。今回平和が守れたのはみんなの力です。ここにいる天使のみんなと、それに魔王様をはじめとする悪魔たちも。みんなで力を合わせて、死後の世界を守ったんです」
「そうだね。皆もよくやった。私は天使という種族を誇りに思うよ」
ミカエルの微笑みに、歓喜の声があがった。そんな天使たちの喜びを表すように、真っ暗だった空の色が次第に薄くなっていく。夜明けが近づいてきたのだ。
「さあ、今日はもう解散しようか。皆疲れたろう。今からでもゆっくり休んで……」
「冗談でしょう? マスター!」
「休んでなんていられるものですか」
「まだお祝いもしていないのに」
「いや、それはまた後日でも……」
「何言ってるんですか!」
「勇者様がいらっしゃるうちに盛大な祭りを!」
「え? いや待って……おーい」
ミカエルがやんわりと手を伸ばすものの、テンションの上がり切った白い翼たちは止められない。「宴」ではなく「祭り」なのは天使たちに飲酒の習慣がないからだが、とにかく天国を救った勇者を労おうと、天使たちは張り切っている。
「全く。ハルト君は逃げたりしないのに」
「あはは。何かすいません」
「気にすることないわよ。これを口実に騒ぎたいだけでしょ」
「天使は賑やかなのが好きですからね」
金の塗料にまみれた広場で始まった、盛大な祭りの準備。しばらくそれを眺めていると、ひとりの天使がミカエルのもとにやってくる。
「マスター。ご相談ですが、勇者様の銅像はどの辺に建てればよろしいでしょうか」
「銅像を建てるのかい? それなら、せっかくだし一番目立つところに……」
「ちょっと待ってください!」
噴水の周辺を指して銅像の位置を決めようとしているミカエルに対し、ハルトは思わず強めに突っ込んだ。楽しそうなので祭りはいいが、銅像は恥ずかしいので心底遠慮したい。
「せっかくなんだから建ててもらえばいいのに」
「でも、ハルトさんの気持ちもわかります」
後方でシルヴィアが揶揄い、リリィが苦笑いをうかべて理解を示した。聖剣を掲げた凛々しい像がいいのではないかと少し遠くで天使たちが話しているのが耳に入り、ハルトは改めて手の中の聖剣を見る。鋭く光る聖剣らしい聖剣。獣の首を切り落とし、天国を平和に導いた神聖な武器。しかし、ハルトはそれを誇れなかった。
「ミカエル様」
ハルトは聖剣を両手に持ち、ミカエルの前に差し出した。浮かない顔で手にしたばかりの武器を早くも手放そうとするハルトに、自然と周囲の注目が集まる。
「これを消滅させたいんです。もう二度と、こんな剣の出番なんかあってはいけない。僕自身もこれを振るう必要がないような未来を、これから創っていきたいんです」
「それが、君の望む未来なんだね」
「はい」
ミカエルが全てを包み込む微笑みとともにそれを受け取り、ハルトの頭上に高く掲げた。聖剣が見えなくなるほど白く輝き、光の雫となってハルトの身体に降り注ぐ。
「ハルトさん……!」
後ろで見ていたリリィが、その蒼い瞳をかつてないほどいっぱいに開き、両手で口を押さえた。その隣でシルヴィアが柔らかく微笑み、リリィの肩に優しく手を置く。
「祝勝祭というより、歓迎祭ね。準備しなきゃ」
「はいっ!」
「? ミカエル様、何が……」
「後ろを見てごらん」
ミカエルが示したのは、ハルトの背中。振り返ると、聖剣から零れ落ちた光の雫が翼を形作ってハルトの背に宿っている。ハルトが驚いているうちに白い光は消え、あとには天使と全く同じ、白い翼が残った。
「聖剣が、翼になった……?」
「ようこそ天国へ」
ミカエルが両手を広げ、ハルトに改めて歓迎の意を示した。最初は種族争いに巻き込まれた気の毒な人間として。次は頼れる勇者として。そして今は、今度こそ争いのない世界をともに目指していく仲間として。
「我々の理想は遠くにある。それでも、ともに目指してほしい」
「はい、もちろんです」
「ハルトさん! 一緒に頑張りましょうね」
「うわっ、リリィ」
「お熱いわねー」
「幸せそうで何よりだよ」
先ほどまで剣の重さを感じていた右腕に、リリィが腕を絡ませてきた。耳まで赤く染まったハルトを見てミカエルとシルヴィアは頬を緩ませるが、周囲の天使たちは蒼白の表情をうかべている。
「嘘だろ」
「ミカエル様の言ったとおりだ……」
「くっ。何かの間違いだと信じてたのに」
「お前ら何を弱気なことを言っているんだ! リリィ様の幸せを願うのが俺たちファンクラブだろうが! さっさと祝福の準備を!」
「会長、涙が」
「汗が目に入っただけだ」
「会長っ!!」
それから数分後。主に涙を堪えて準備したリリィファンクラブの面々により準備された「祭り」のメインとして、でかでかと「勇者様&リリィ様 末永くお幸せに」と書かれた垂れ幕があちこちの建物に吊るされた。敵を討伐した事よりも恋人を祝福することで盛り上がっているのが何とも天国らしいなとハルトは思った。そして、その一員に迎えられて心から幸せだとも。
「恥ずかしいですね」
「かなりね」
「でも、嬉しいです」
「僕も」
太陽が昇り、天国の未来に繋がる新たな一日がやってくる。金に染まった明るい広場で堂々と手を繋ぎながら、揃いの白い翼を広げたふたりは笑って顔を見合わせた。
もう街の中で彼女を見かけても「天使だ」と呟くことはないだろう。
だって今は彼の背にも、同じ「翼」が生えているのだから。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
これで「天使みたいな美少女は本当に天使でした~冤罪で地獄行きになるそうですが、魔王を復活させてなかったことにしてもらいます~」(改題「天獄に続く洋菓子店」)本編は完結となります。
五月から連載をはじめ八カ月間、百話四十万字の物語(+前日譚「天獄を守る翼」十七万字)にお付き合いただき、ありがとうございました。
皆様からのあたたかい感想、レビュー、評価☆☆☆☆☆、ブックマーク等、とても励みになっています。
完結後もまだまだお待ちしておりますので、よろしくお願いします(*^-^*)
また、本編はこれで終わりですがおまけSSを用意しております。
12月24日 ハルト×リリィ
12月25日 聖夜×ルナ
12月26日 クロム×シルヴィア
三組のクリスマスデート回です(投稿日とSSの日付はリンクしてます)。
お砂糖増量で甘めにいきたいなーと思ってますが、どうなるかはわかりません笑
そしてできれば年末に黒谷の店でルークも交えて忘年会、まで書きたいなと。
それで一回完結設定にして、その後はバレンタインとか、イベントの時にSS投稿していこうかなと、今のところ思っています。
完結しましたが、物語が終わっても彼らは生き続けています。今後も見守っていただけたら嬉しいです。
本当にありがとうございました。
これからも、よろしくお願いします。
 




