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第一話 綺麗な人に天使と言ってはいけない

「こちら、今日入ってきたんすよ。カッコイイっすよね!」


 駅前の大きなショッピングモールの端。ネオンライトで飾られた薄暗い店内で、金髪メッシュの店員が爽やかに笑った。大きな姿見のむこうでは小顔で()せ型の少年が、虎の刺繍が入ったジャケットを持って立っている。その強そうな服に似合わず自分(なかみ)の何と貧相な事かと、水島ハルトは今日何度目かの大きな溜息をついた。


「似合わないなぁ……」

「えー。いいじゃないすか、カッコイイっすよ!」


 ハルトから戻されたジャケットをハンガーにかけながら、店員が再び笑顔で言った。彼はさっきから何を手に取っても「カッコイイっす!」しか言わない。


「これはどうっすか?」


 今度は背中に般若(はんにゃ)が大きく描かれた渋い藍色のジャケットをすすめられた。ハルトはとりあえず羽織ってみたが、どう見てもこれは、(おど)されて不良グループのパシリになったかわいそうな少年だ。やはりイメチェンは難しいかもしれないと、ハルトはようやく諦めた。


「いやいいです。ありがとうございました」


 またでーす、と馴れ馴れしい挨拶で店員に見送られて店の外に出る。知り合いが誰もいない少し遠くの高校に合格したハルトの初登校はもう明日に迫っていた。童顔がコンプレックスの彼はどうにか舐められないようにと必死だが、まずその感覚が間違っていることを教えてくれる人は誰もいない。


(そろそろ帰ろうかな)


 ハルトは駅まで続く短い階段を降り、駅前の大きな交差点で立ち止まった。日が傾きかけた空を見て、今は何時だろうかとポケットを探る。慣れた手つきで四角い画面を(つか)んだその一瞬で握力がわずかに弱まり、落ちたスマホが地面を滑っていった。


(あ、やばっ!)


 慌てて地面に視線を()わせると、一メートルほど前の道路に見慣れた液晶画面がきらりと光る。早く拾わないとと一歩踏み出したハルトは、信号機の色がまだ赤であることをすっかり忘れているのだった。


「あぶないっ!!」


 突然誰かに手首を(つか)まれた感覚と、大きなトラックのクラクションがほぼ同時に脳に届く。目の前で大きなタイヤが少しの遠慮も無くスマホの上を通り過ぎ、さらさらした髪質が嫌でワックスで無理やり固めた渾身(こんしん)の前髪が風圧で広がった。一拍遅れて、ぞわりと肌が粟立(あわだ)つ。危うく()かれるところだった。


「あ……ありがとござ……ます」


 ばくばくと聞いたことのないような音を立てて口から飛び出して来そうな心臓を押さえ、ハルトはその場にうずくまる。信号が青になり、自分の周りを避けるように人の波が動いた。やっとの思いで立ちあがろうとすると、目の前にすっと手が差し出される。あたたかな光に包まれたような優しい声がハルトの耳に届いた。先程助けてくれた人だ。


「ふふっ、危なかったですね。大丈夫ですか?」


 声の主はハルトと同じくらいの歳の少女だった。一点の(けが)れもない真っ白なコートに真っ白なロングブーツが良く似合う、フランス人形のように整った顔立ちの女の子だ。金色に輝く長い髪に、晴れた日の穏やかな海のような蒼い瞳が真っ直ぐにハルトを映している。


 流暢(りゅうちょう)な日本語だが、海外の人だろうか。ハルトは半ば夢を見ているような心地で差し出された手を取った。華奢(きゃしゃ)な身体から伸びる小さな手はあたたかく、触れた部分から安心感が伝わって知らずのうちに鼓動がおさまる。


「天使だ……」

「え?」


 無意識にこぼした言葉は、比喩(ひゆ)のつもりだった。もしもこの世に天使が降りてきているのなら、それはきっと彼女のような形をしているに違いないと。しかしそれが口から出たのがまずかったようで、少女は困惑の表情を浮かべあわてて手を離した。手のひらから温もりが消え、代わりに少し冷たい春の風が二人の間を通り過ぎていく。


「あ、あのっ! 助けてくれて、本当にありがとうございました」


 変なことを言ったと後悔しながら再びお礼を言って立ち去ろうと彼女に背を向けると、後ろから再び腕を(つか)まれる感覚がした。振り返ると、天使のようなその人が、その天使のような美しい顔を引き()らせてこっちを見ている。


「あ、あの???」

「……どうして……」

「え?」

「どうしてわかったんですか!?」


 思い詰めたような表情をしているが、果たしてなにがわかったというのか。頭に疑問符を浮かべている状態のハルトをただとぼけているだけだと思ったのか、少女はその美術品のような顔を不快そうに歪めた。怒った顔も綺麗だ。


「とぼけないでください! 今私のことを、天使だって言ったじゃないですか!!」



       ◇



「えぇと。では本当に、あなたは天使なんですか?」


 夕方の喫茶店は人もまばらで、奥の席に座ると他の客は気にならない。

 

 大人ぶって頼んだアイスコーヒーにガムシロップをたっぷり入れてかき回しながら、ハルトは目の前に座っている少女を見た。先程まで海のように真っ青だった瞳を、今度はウサギのように真っ赤にしてしきりに(こす)っている。道端でいきなり泣かれた時はどうしようかと思ったが、場所を変えて正解だった。


「はい。私はリリィと申します。今日初めて人間界に降りてきたのですが、まさか人間に正体がバレてしまうなんて……もうおしまいです。部下に合わせる顔がありません」


 何を言っているのかわからないが、そういう設定なのだろうか。こいつはやばい奴だなと思いながらグラスを持ち上げ、一口飲む。甘くしたはずなのにやはり苦い。オレンジジュースにすれば良かった。


「それでは、僕はこれで」

「待ってください!!!」


 例えどんなに美人でも、ヤバい奴とは距離をおくべきだ。借りを作らないようにここは会計も持った方がいいだろうと判断し、伝票を(つか)んで腰を浮かすと、先ほどまで(うつろ)な目でぶつぶつ言っていた自称天使は勢いよく立ち上がってハルトの行く手を(はば)んだ。ニゲラレナイ。


「……それで、天使がなぜ人間界に降りてきたんですか?」


 ハルトは仕方なくこの設定に乗ることにした。この愛らしい天使のような少女が公共の場で危害を加えるとはとても思えないし、せっかく頼んだ飲み物が空になるまでくらいなら話を聞いても良いのでは、と思い直す。


「それは、その……」


 彼女は思いつめたような表情で下を向いた。何から話せばいいか迷っているようだった。よく見ると手が震えている。


「大丈夫です。ゆっくり話して」


 お腹を空かせたライオンを前にしたウサギの如き天使に、ハルトはできるだけ優しく声をかけた。(おど)された経験はあるが、(おび)えられたのは初めてだ。


 ハルトの言葉に安心したように息をはき、アイスティーを一口飲んだリリィを見ながら、これは長期戦になるなと彼はぼんやりと思った。こうなったらとことん付き合ってやろうかとアイスコーヒーを持ち上げた時、反対側の手が淡く光った気がしてハルトは思わず手を止めた。


「えっ?」


 ハルトの目に飛び込んできたのは、左手の甲に現れた奇妙な数字だった。

 

 8610と書かれたそれは、マジックでもペンでもなく、手の皮膚にそのまま吸い付いたような自然さでそこにあった。ハルトには手にメモをとる習慣などはないし、先程までは確かにこんなものは無かったはずだ。


「まっ、まさか……!!!」


 ハルトが突然現れた数字に夢中になっていると、ガタッとイスが鳴る音が響く。ハルトが驚いて手から視線を離して正面を見ると、リリィは今度はハッキリと全身を震わせていた。顔は幽霊でも見たように青白く、色を失った小さな唇が震えている。


「リリィ、さん?」

「あなた……カウンターが見えるんですか?」

「カウンター?」


 ハルトは再び左手を見た。やはり数字はそこにある。


「カウンターって、この数字のことですか?」


 ハルトは左の手の甲を上に向けて、リリィにも見えるように前方に差し出した。彼女はコクコクと頷く。不審者なのに可愛い。


「この数字は何なんですか?」

「これはカウンターといって、人の行いによる罪の重さを数値化したものなんです」


 リリィはそっとハルトの左手をとった。遠慮がちに数字をなぞる(なめ)らかな白い指先の感触に、ハルトは顔に熱が集まるのを感じてうつむく。美少女には免疫がない。しかしゆでダコのように真っ赤になったハルトの様子には気が付かず、リリィは数字をじっと見たまま不思議そうに首を傾げた。


「人間には、一人ひとりに必ずこの数字が刻まれています。でも、普通は見えないはずなのですが……」

「あの。罪の重さって?」


 ハルトはこれ以上自称天使を疑いの目で見るのはやめることにして説明を促した。とにかくこの数字を何とかしたい。罪の重さが手に刻まれているなんて冗談でも嫌だった。


「今、人間界には多くの天使と悪魔が降りてきていて、人間がいい事をした時には天使が+のエネルギーを、悪い事をした時には悪魔が-のエネルギーを与えることになっています。そして、その人間が生を終えた時にこの数字が+だと、天使がその魂を天国へ導くことが出来るのです」


 リリィが一気に説明して、両手でグラスを持ちアイスティーを飲んだ。ハルトは再びじっと数字を見る。8610ということは、今死んだら天国に行くという事だろうか。


「ちなみに、マイナスで死んだら?」

「悪魔が地獄へ連れていきます」


 ピシッとハルトは固まった。リリィがあわてて胸の前で両手を振る。


「いえいえ、大丈夫ですよ。ハルトさんはちゃんと天国へ行けますからねっ」


 陽だまりのような優しい微笑みに、しかしハルトは引き()った笑いで返すしかなかった。こんな事、たとえ事実でも知りたくはない。


「それで、あの……お願いがあるのですが……」


 少しの間の後、リリィは言いづらそうに上目遣いでハルトを見た。何だろうかと首を傾げるハルトの手を再び優しく取り、何かを握らせる。


 それは軽くて柔らかい一枚の羽根のような……いや羽根だった。カラスのそれよりも一回り大きい、真っ白な羽根。こんな鳥がいただろうか。


「これは? なんの羽根ですか?」

「私の羽根です」

「え!?」


 きっぱりと断言してみせるリリィの表情は真剣で、ハルトは混乱した。頭の中に鶴の恩返し、という絵本の各場面が思い浮かんでは消えていく。そんな馬鹿なと突き返すことをしなかったのは、彼がすぐに目の前の少女が天使と名乗っていたことを思い出したからだ。


 天使ってやっぱり翼があるんだ、と思いながら目の前の羽根をしげしげと(なが)めるハルトに、リリィは言った。


「私は『運命の天使』。この羽根には、私の力が宿っています。きっとお役に立つでしょう」


 リリィはずいと身を乗り出し、ハルトの両手をしっかりと握り直した。


「お願いです、この事は黙っていてください。人間に私たちの存在がわかってしまうわけにはいかないのです」


 成程、交換条件のようだ。これ以上不審な天使と関わってどうするという思いと、ゲームで重要なアイテムを貰った時のような高揚感(こうようかん)がせめぎあう。


「わかりました。これはもらっておきます」


 高揚感が勝った。ハルトが受け入れた途端、ぱあっと手の中の羽根が光り、手のひらに収まるサイズに変わる。柔らかかった羽は硝子細工のように硬く、しかし重さは感じないほど軽い。


「その方が、持ち運びしやすいでしょ」


 えへへ、と悪戯っ子のように笑う天使に、ハルトは引き()った笑いを返す。手品だ、とはもう言えなかった。ハルトは羽根をそっと机に置き、ズズッとアイスコーヒーの残りを吸った。苦い。


「わかりました。誰にも言わないので安心してください」

「よかった! ありがとうございますっ! どうかよろしくお願いします」


 (ひたい)が机につくほど勢いよく頭を下げられ、同時にアイスティーの残りが倒れた。美しい金糸の髪が紅茶色に染まっていくのを見ながら、ハルトは今日一番の深い溜息をついたのだった。


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[良い点] 主人公とヒロインの姿が コミカルなタッチの中でも 詳細に想像できるように描写されているのが 素敵だなぁと思いました。
[良い点] 文章の美しさが秀逸すぎて、嫉妬を通り越してしまう。 人物の描写もいきいきしている。とくに天使のふんわりとした中に揺るぎない意志の強さを感じる。 主人公の少年も良い感じでちょっと軽めのノリと…
2023/07/05 13:18 退会済み
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