花丸らんまん
切っ掛けは、部屋を間違えたことだった。
藤森露華は、6階建てアパートの403号室に両親と3人で住んでいる。
小学一年生の夏、とある水曜日の帰り道、暑い中階段を上るのが嫌になって露華はエレベーターに乗った。一人で乗るのは初めてだった。
奥へと足を運びながら、左手の壁に横並びでついたボタンを数える。4番目を押した。その間におじいさんが乗ってきて、ドア横の縦に並んだボタンへ手を伸ばした。ゆっくりとドアが閉まる。ぐいーんと上へ持ち上げられる感覚がして、やがて止まった。
ドアが開いて、おじいさんが降りる。それに続いて露華も降りると、おじいさんは不思議そうな顔で振り返ったが、何も言わずに左手へ曲がって外廊下の奥に行ってしまった。辺りを見た露華も何か違和感を覚えたが、それが何かは分からなかった。
ベランダ状に張り出した外廊下を進む。一列に並んだドアを数えて、声を上げる。
「いーち! にぃー! さーんっ!」
くるんと体を翻して三つ目のドアに向き直ると、左耳の上で括った髪が星形の飾りごと揺れた。伸びをして呼び鈴のボタンを押す。ピンポーンと軽やかな音が鳴るが、いくら待っても応える声もフローリングを駆けるスリッパの音も聞こえない。
露華はきゅっと目尻の上がった大きな目を瞬かせた。小首を傾げる。
「おかーさん、おでかけ……?」
でも大丈夫! と露華はランドセルを足下に下ろした。ファスナーのついた小ポケットをごそごそと探り、ネコのマスコットをつかんでそれについた鍵ごと引っ張り出す。きちんと鍵を持ち直して、鍵穴に差し込むと……。
ガチッガチッ。
「んん?」
何度やっても上手くいかない。春にこの鍵をもらって、父に教わりながらやった時はちゃんと開いたのに。
鍵を引き抜いてしげしげと眺める。鍵に異常はない。穴をのぞき込んだが暗くてよく分からない。
頭上から声が降った。
「こらこら。人ん家の前で何してんだおチビさん。」
振り仰ぐと、男が横に立ってこちらをのぞき込んでいた。
紺色のブレザーの左胸に描かれているのは、二駅向こうの高校の校章だが、露華には鳥のマークだとしか分からない。少年の歳も分からず、とにかく大きいお兄さんだと思った。
露華は彼の甘く垂れた目を見つめた。
「かぎ、あかないの。」
「開いたら困る。ここ俺ん家だぞ。」
「……なんで?」
「ええ? 何でって言われてもなぁ。」
少年は自身の額にかかる柔らかな髪をかきあげて、んーっとうなった。一つうなずき、よいしょっと父親が子どもにするように露華を縦抱きにする。呼び鈴の上の表札に近づく。
「ほら、名前違うだろ。……もしかして読めないか。”かでら”って書いてあるんだけど。」
黙り込んだままじっと表札を見つめる露華を心配して、少年が言葉を続ける。読めないけれど”藤森”と”鹿寺”の形が違うことは露華にもちゃんと分かった。しかし、彼女が注視していたのは違う部分だ。
303。403と左側の形が違う。いち、に、さんのさんの形だ。よんじゃない。
「かずがちがう! なんで!?」
「いやぁ、何でだろうなぁ。」
少年は苦笑しながら露華を下ろした。
少年、鹿寺晃司は露華を一階上の藤森家まで送ってくれた。
もういいだろう、と帰ろうとする彼のズボンを捕まえて引き留める。呼び鈴を鳴らすとパタパタとスリッパの音が近づいてきた。内側からドアが開いて露華の母が顔を出した。
「おかえりなさー……い?」
見慣れぬ少年を見つけて目を瞬かせる。露華はぐいぐいと彼のズボンを引っ張った。
「ろか、おうちまちがえた。」
「え、あ、それで。ごめんなさい、うちの娘が。」
「いえ、すぐ下なんで、気にしないでください。」
「あれ? あなた、学校は? もしかして早退!? 具合悪い!?」
母がさっと青ざめると晃司は苦笑した。
「違いますよ。今試験期間なんで、午後がないんです。」
「ああああ……。重ね重ねごめんね。お勉強の邪魔して……。」
「いいえ。丁度帰って来たところだったんで。そのまま追い返した方が気になっちゃって集中できませんし。」
二人の話を聞いていた露華が首を傾げる。
「しけん?」
「テストのことよ。露華もこの前、数のテストで花丸もらったでしょう?」
「はなまる!」
母の説明にぱっと顔を輝かせて、露華は家の中へ駆け込んだ。ぽぽーんっと靴を脱ぎ捨てると母の小言が飛んでくる。そのままの勢いで、廊下右手にある自室へ飛び込む。ドアを閉める前に顔を出して、まだ玄関に立っている晃司に「待ってて!」と念を押す。
露華はランドセルを椅子に置き、道具箱に飛びついてらくがき帳とクレヨンを出した。らくがき帳を一枚めくり、赤いクレヨンを押しつけるように線を引く。ぐるぐると何周も渦巻きを描く。
クレヨンを放り出し、ビッと用紙を破り取る。
廊下へ戻ると、玄関は閉まっていて晃司と母の姿はなかった。代わりに奥にあるリビングから話し声がした。中に入ると二人はテーブルを囲んでソファに座っていた。グラスで緑茶が出されていて、露華の分だろう、手つかずの三つ目があった。
露華は彼へ駆け寄った。手にした用紙を掲げて見せる。
何重にもなった赤い渦巻きの外側を、紙からはみ出しながら山なりの花弁が囲んでいる。
「はなまる!」
「おおー、でっかいな。」
「はい! あげる!」
「俺に?」
「うん! おにいちゃんは、やさしい いいこだから! いいこには はなまる!」
晃司がぱちりと目を丸くした。視界の端で母が慌てているが露華は気がつかない。喜んでもらえるものと信じ切って、大きな目をきらきら輝かせ、丸いほほを紅潮させている。
やがて晃司がふはっとためていた息を吐いた。怒っても笑ってもどこか凪いでいた、大人びた仮面がはがれ落ちる。大きく口を開けて、からからと笑った。
「ははっ。そっかそっか、ありがと。お前もいい子だよ。」
晃司は用紙を受け取ると、笑顔で藤森家を出た。
***
露華が再び晃司に会ったのは、夏休み前の朝のことである。
ランドセルを背負った露華がアパートの玄関ホールを出ると、丁度晃司が駐輪場で自転車の鍵を開けていた。彼は前籠にカバンを入れたまま、軽く手を振って露華の下へ寄って来た。
露華の小さな頭をくしゃくしゃとかきなぜる。
「あの後、テストばっちりだったぜ。お前の花丸のおかげかもな。」
それはある種のお世辞だったのだろう。それでも幼い露華は恩人の助けになったことがうれしかった。
頭の上のあたたかい手と、少年のイタズラっぽい笑顔が、露華の胸に強く残った。
二学期になると、晃司に会えることを期待して露華は早起きになった。
初対面の一件から分かるように彼は面倒見がよく、会えた日は通学路が分かれる交差点まで並んで登校してくれた。
夕方、外で遊んで帰って来て同じく帰宅する晃司に会った時も、彼に飛びつく露華の頭をなでてくれる。
そうして懐いて回る露華をたまたま見かけた級友が、晃司を”ロカちゃんのお兄ちゃん”と呼ぶようになった。彼はそれを否定しなかった。
***
露華と晃司がご近所さんだったのは、二人が出会ってから晃司が高校を卒業するまでの一年半の間だ。彼は遠くの大学に進学し、一人暮らしを始めてそちらへ引っ越してしまった。
露華の手には小さなメモが残された。それは電話番号で、母のケータイに登録したのでもう用は済んでいるのだが、筆箱の内ポケットにしまってある。
いつでもかけていいよ、と晃司が渡してくれたものだ。
しかし、一緒に登校していた時みたいに、昨日今日あったことをただ話すなんてことはためらわれて、なかなかかけることができなかった。
晃司の誕生日にどうしても「おめでとう」が言いたくてかけた時、「俺ももっと話したいんだけどな。」と苦笑された。なら晃司がかけてくれればいいのに、と思った。しかし、そもそも露華が使っているのは母のケータイなので、かけてもらっても露華が必ず出られるとは限らないのだった。
***
大みそかの夜、リビングには両親と露華の三人が集まっていた。露華はケータイを握りしめてドキドキしながら、テレビの特別番組を見守っている。
露華の誕生日と元日には、いつも晃司から電話をかけてくれる。
元日の電話は夜更かしした露華が寝坊するのを見越して、昼少し前にかかってくる。だから、日付が変わって直ぐに電話をすれば、晃司より先に年賀のあいさつができるはずだ。今回はどうしても、そうしなくてはいけない理由があった。
テレビの中、人々が大きく声をそろえてカウントダウンを始める。大きく太鼓が鳴って紅白の紙吹雪が舞うと、わーわーと人々は思い思いに喜びの声を上げた。
のんびりと年始のあいさつを交わす両親へ軽く返事をして、露華はくるりと背を向けた。自室へ戻る暇さえ惜しく、続き間のダイニングへ移動しながら既に表示していた番号へ発信する。
『……どちらさまですか?』
聞こえてきた青年の声が低く不機嫌で、露華はびくりと肩を揺らした。
彼はいつも優しくて、柔らかな声でしゃべるのに。
「あ、あの、藤森と言います。こちらはコージくんのケータイで合ってますか?」
『ん!? ロカ!?』
相手の声が慌てだす。名前を呼ばれたことでようやく晃司だと確信できた。一瞬ほっとするが、直ぐに別の不安が湧いて出る。
「ごめんなさい。寝てた?」
大みそかだから起きているものと思い込んでいたが、考えてみれば真夜中だ、寝ている人だっているだろう。こんな時間にたたき起こされれば不愉快に決まっている。しかし、晃司は怒るでもなく責めるでもなく、なぜかまだ慌てている。
『いや、うん、うとうとしてただけだけど、ちょっと寝ぼけたみたい。びっくりさせてごめんな。日付変わってたのか。明けましておめでとう、ロカ。』
あ。せっかくかけたのに、先に言われてしまった。
「明けましておめでとう、コージくん。今年もよろしくね。」
『うん、よろしく。で、番号違うけどどうしたの? それおじさんの?』
露華はぱっと目をきらめかせた。よくぞ聞いてくれました。
「ううん。これ、わたしのケータイなの。中学生になるからって、買ってもらったんだ。」
せっかくだから、一番初めは晃司にかけたかった。
『おおー。そっかそっか、中学生かー。何かお祝いしないとなー。』
「いいよー、そういうのは。あ、でも……。」
ふと思い至ったことが、言っていいことなのか分からなくて口をつぐむ。晃司がクスクスと笑った。
『どーした? 言ってみ。』
「……コージくんに会えたら、うれしいなぁ。」
こうして電話で話してはいるけれど、この4年近く晃司に全然会っていない。彼の両親は今もこのアパートに住んでいるのに、彼は盆も正月も顔を出していないようだった。それだけ忙しいのだろう。だから、今言ったことはわがままだと、ちゃんと知っていた。
なのに、返ってくる声はからりと明るい。
『なーんだ、そんなこと。春になったら会えるよ。俺そっちで就職決まったから。』
「え!?」
露華は思わず大きな声を上げた。はっとして声量を落とす。
「ホント? 帰ってくるの?」
『うん。家も決まってる。割と近いとこ。』
「え? お家? 鹿寺のお家に帰ってくるんじゃないの?」
『んー、まあ、俺ももう大人だしね。一人暮らしも慣れたし。そうそう、そっちに戻ること、他の人には内緒にしてくれる?』
「うん! 分かった! ……あ。」
『どした?』
露華はゆっくりとリビングを振り返った。ソファの背から顔を出して両親がこちらを見ている。
「ごめん。お母さん達いる。」
『……箝口令敷いといて。』
***
晃司の新しい家は二駅向こうのアパートだ。彼が通っていた高校とは反対方向だが、自転車で行こうと思えば行ける距離。中学への通学に必要だからと自転車を買ってもらえたことに露華は感謝した。
露華は舞い上がった。彼へとつながる手段がいつでも手の中にあり、しかも相手は行ったこともない遠くではなく同じ市内にいる。
電話番号の書かれたメモを、お守りのように握りしめている必要はなくなったのだ。
それでも、中学生にベタベタとまとわりつかれては、社会人一年生にとってたまったものではないことくらい分かっている。小さい頃にはずっとずっと大人に見えていた晃司が、当時はまだ子どもだったことも。あの頃より大きくなった今、全力で露華に飛びつかれては受け止めきれないことも。ちゃんと分かっている。
だから露華は我慢した。彼の家に押しかけたりせず、一日の終わりに少しだけ、友人とのやり取りや近況をメッセージで送るだけで我慢した。返ってくる彼の言葉をかみ締めて、眠りについた。
しかし、夏の終わり頃、晃司の方から頻繁に露華に会いに来るようになった。友人からどこぞのパウンドケーキをもらっただの、駅前のカフェの期間限定モンブランを買っただのと、お菓子の箱を携えてやって来る。
繰り返される内に露華の遠慮もはがれ落ち、週末に遊びに行く約束をすることが増えた。ケーキを食べに行き、映画を見に行って、動物園にも出かけた。
***
ぐるりと季節は一巡し、中学生二年生の8月末、晃司からカフェのかき氷を食べようと誘われた。
果肉がふんだんに使われた桃のかき氷にソフトクリームも足してもらい、フルーツとミルクの甘みを夢中で味わう。食べ終わると内側から冷えた体に冷房の冷たさが染みるように感じたので、ミルクコーヒーを頼んだ。
中身が半分ほどになってもカップはまだあたたかった。それを両手に包みながら取り留めなく話していると、晃司が不意に声をあげた。危うく忘れるところだったとこぼし、横に置いたカバンの中からバレーボール大のグレーの包みを取り出す。
描かれているロゴは、人魚や海中をモチーフにした雑貨屋のものだ。友人達と行った時のことを以前晃司に話していた。
開けてみてと差し出され、慎重に外側のテープをはがす。包み紙をめくると、赤くて丸いものがふわころと転がり出てきた。ぴょこぴょこ飛び出した耳と、丸い婦人傘の様な形が特徴の、メンダコのぬいぐるみである。
「え。どうしたの、この子。」
「ロカの話聞いてたら気になってさ、見に行ってみたんだ。俺もかわいいなぁって思ったから、つい買っちゃった。もらってくれ。」
「えぇ……。」
イタズラっぽくほほ笑まれて、ぬいぐるみへ再度視線を落とす。つぶらな瞳がかわいい。
確かに、メンダコのぬいぐるみがかわいかった、と言った。しかし、あれはおねだりなどではなかったのだ。決して。信じて欲しい。
露華は包み紙ごとずいっと晃司の方へ押し出した。
「かわいいと思うなら、コージくんのお家に置いてあげたらいいじゃん。」
「それでもいいけど。ほら、ぬいぐるみだって、愛でられるならおっさんより女の子の方がうれしいと思うんだよ。」
「コージくんはまだおじさんじゃないと思うけど……。」
あと、優しい大人が大事にしてくれるなら、ぬいぐるみだって普通にうれしいと思う。
露華は眉を寄せてぬいぐるみと見つめ合った。
一度、欲しいと思った品である。しかも、人形は同じ商品でも個体によって顔が違うが、バッチリかわいい好みのお顔だ。くれると言われると抗いがたい。
と、晃司が手を伸ばしてぬいぐるみをそっとつかんだ。彼が手を揺らして、とことことメンダコが露華の方へ向かってくる。テーブルに投げ出していた左手にちょんっと触れた。つぶらな瞳が上向く。
数秒の間の後、露華はぎゅっとメンダコを抱きしめた。
「……今回はもらうけど。」
「うん。」
「もうダメだからね。コージくんにわがまま言うなって、お母さんに言われてるんだから。」
「別にわがまま言われてないけど。」
「もし、わたしが何か言っても、コージくん聞いちゃダメなんだからね。」
「無茶なこと言うなぁ。」
晃司は頬杖をついてクスクス笑った。露華はぬいぐるみを抱いたままジトッと彼をにらんだ。
これはもう、自分が気を引き締めねばならない。
露華はテーブル端に伏せてあったダークブラウンの細長いバインダーを引き寄せた。伝票だ。反対から晃司が手を伸ばす。
「俺が払うのに。」
「だめ。ホントに怒られちゃう。」
気がつくと、あれこれおごられているのはいつものことだが、今日は本当にまずい。ぬいぐるみを抱えて帰った上に、お茶まで晃司に金を出させたと知られれば、遊びに行くこと自体を禁止にされかねない。
自分の分の注文を確認し、財布の中身を数えて、そこで露華はうっと動きを止めた。ちらっと視線を上げれば、晃司は面白がるように笑っていた。
結局、露華が払ったのはかき氷代だけで、コーヒーの分は出してもらうことになった。
***
「コージくんって、わたしにお金使い過ぎなのでは?」
「今更どうしたの。」
二学期が始まって少し経った昼休みの教室、友人と向かい合って弁当を広げながら、露華はそう切り出した。友人のセイカは小さい頃からの仲良しで、晃司とも面識がある。セイカは冷たい声で返して、丸いおにぎりを一口かじった。梅干しがのぞく。
露華は意味もなく箸でプチトマトをつつく。
「だって、昨日ふと気がついちゃったんだもん。部屋のぬいぐるみも、今使ってるヘアアクセも、ほとんどコージくんが買ってくれたものなんだよね。」
「ついでに言うなら、アンタのその腹のぜい肉も晃司さんが育てたもんよ。」
「ぜい肉になってない! ちゃんと運動してる!」
「あらー? ほんとかしらー?」
ほほほっと笑いながらセイカは次のおにぎりを取り出す。露華はキッとにらんだ。
確かに最近体重が増えた気はするが、身長だって伸びているし成長期として問題はないはずだ。それに筋肉、そう筋肉だってついてきているはずだ。
「って、そんなことはどうでもいいの! なんかわたし、コージくんにものもらってばっかりなんだけど!?」
「普通の神経してれば、タダ飯が続いた時点で遠慮を覚えそうなものだけど。アンタすっかり餌付けされちゃってたのねぇ。」
「餌付けされてない!」
「はいはい。で、さすがにマズいと思い始めたのね。」
「うん。だから、わたしからも何かあげたいなーって思ってるんだけど、大人の人って何がうれしいんだろう……?」
もう中学二年生なのだ。ビーズのストラップやキットで作ったテディベアなどという、実用性のない自己満足の塊からは卒業したい。
「うーん。無難なのだとネクタイとか?」
「あー……。就職祝いでね、お母さんから援助もあったから、渡したんだけど……。」
「喜んでもらえなかったの?」
「お父さんがむせび泣いてた。」
「父の日も何かしてあげなさいよ。」
露華はため息をつく。
「わたしのお小遣いで買えるものって、そもそもコージくん自分で買えちゃうんだもん。絶対うれしいものが何かあればいいんだけどなー。」
***
数日後の晩、露華は夕食が終わっても自室に戻らずにリビングでテレビを見ていた。クイズ番組が流れているが、正直内容は頭に入ってきていない。クッションを抱いてソファの座面に懐いたまま考えているのは、もうずっと悩み続けている晃司へのプレゼントだ。
手作りのものは今回はなしだ。露華自身の技術力が圧倒的に不足している。子どもの工作以上のものは作れない。日々のお礼として改めて渡すものとしては力不足だ。
しかし、予算は二千円と少しだ。露華のお小遣いが月に千円なので、月末にもらえる分とお年玉の残りを足してこのくらいだ。
これで買える、晃司が喜ぶものって何だ。もう一月貯めるべきだろうか。
ぬいぐるみのお礼なら、いっそぬいぐるみだろうか。
嫌いではないはずだ。昔露華が作った毛並みの悪いテディベアを今の家にも飾っているくらいだし。でも、晃司の好きな動物って何だろう。
イヌ? ネコ? ウサギ? やっぱりクマか?
知る限りのかわいい動物を思い浮かべる。せっかく一緒に動物園も行ったのに、自分がはしゃいでいたばかりで彼の気に入ったものは覚えていない。
ふと知った名前が聞こえて意識がテレビに向いた。クイズにかこつけて観光案内がされる中、今年の春に行った植物園が紹介されていた。
視界いっぱい花畑を作るコスモスに、八重咲きのシュウメイギクが見頃を迎えている。赤と白の混じる桃色の景色に、露華は目を輝かせた。もう少し待てば、マーガレットの様な黄色い花をスプレー状につける、ユーリオプステージーも咲き始めるという。思わず身を乗り出す。
「わあ、やっぱりいいなぁ。コージくんお仕事どうだろう。行けるかなぁ。」
聞いてみようとケータイを手に取り、メッセージを送る寸前でぽーんっとソファ端へ放った。
「って違ーう! わたしの好きなことしちゃだめじゃん!」
「うるさいわよ露華。今何時だと思ってるの?」
「ごめんなさーい!」
ダイニングにいる母に謝り、クッションごとソファに倒れ込む。露華が一人で暴れている間に、クイズの内容が秋の草花から絵画へ移っていた。隣の県の美術館で行われる特別展示が紹介されている。大写しになった油絵の花畑に、露華の目が再びきらめいた。
これは確か……!
***
知人から栗ようかんをもらったと晃司からお誘いがあった。確認したいことがあったので、願ったり叶ったりである。
晃司の現在の住まいはアパート2階の1Kだ。玄関に面したキッチンに入って直ぐ、露華は手提げからプラスチック容器を二つ取り出した。
「これ、お母さんから。金平とね、からあげを何か漬けたやつ。金平はね、コンニャクも入ってるやつだよ!」
「いつもありがとうって伝えといて。」
「うん。あ、前のやつ預かるよー。」
「よろしく。」
いつものやり取りを終え、露華は奥へ進んだ。カーペットを踏みしめ、二段ほどの小さな本棚へ近づく。お茶を入れてくれるのだろう、かたんっとマグが調理台に置かれる音がした。
「コージくん。本、見してもらっていーい?」
「いいぞー。」
目当ての本に手を伸ばしながら、チラリと後ろを盗み見る。晃司は電気ケトルを傾けてお湯をポットに注いでいた。よしよしよし。さっと本を引き抜く。
ぺたんとカーペットに座り込んで、膝の上にその大きな画集を広げた。自然そのままを写し取ったような透明で鮮やかな色彩を追いながら、ページをめくっていく。テレビで見たそれが両開きになる。
黒っぽい緑の茂みが左右に割れて、中空の青と咲き乱れる桃色黄色橙が広がっている。暗い森をようやく抜けて、春の日差しと花畑にたどり着いた、そんな絵だ。
露華は絵画に詳しくない。ただ、名前のおかげか名付けた両親の影響か、草花は好きだ。花の絵も好きだ。だから、晃司の膝の上で見せてもらったこの絵も、よく覚えていた。
みつけた。晃司の好きなもの。
「ロカ? 何見てるんだ?」
「えへへー。ちょっとねー。」
白と黒、色違いのマグを両手に持って来た晃司へはにかんで応えながら、本を閉じる。元の通り本棚に差し込んで、いそいそと座卓の前のクッションに座った。
***
朝から、というか昨日から上機嫌だった露華は、教室に入るなり駆けるようにセイカの下へ向かった。体を傾いで友の顔をのぞき込む。
「コージくんにね、美術館のチケットあげることにした。特別展示も見るのだと追加料金で1800円になるんだけど、今月で足りるからバッチリ!」
「おバカ。」
「おぅっ。」
ぽすんっと頭をたたかれる。痛くはないけれどびっくりした。じとりっと半目でにらまれる。
「それ、晃司さん一人分よね?」
「うん? うん。」
「チケットのプレゼントでお一人様とか、プレミアムなやつじゃないと許されなくない? 好きな人をぼっちの旅に送り出すとか論外でしょ。」
「え? え? でも美術館だよ? ゆっくり見たいものじゃないの?」
「断言するけど、晃司さんならロカも一緒がいいって言うわよ。その分は自分が払うからって。」
困惑に染まっていた露華の顔が更に曇る。
「じゃあこれ、ダメ、かな?」
「うーん。もう一枚は用意できないの? 中学生の分ならそんなに高くないんじゃない?」
「中学生は、特別展示と合わせて900円、だったと思う。予算オーバーです。」
月千円にとってはあまりに大きい壁である。
「次まで待つと、特別展示終わっちゃう……。」
「ならお小遣いの前借りは?」
「前借り? したことないけど、できるかも……?」
***
「だめ。」
皿洗いや風呂掃除や、お手伝いをいつもより頑張ってから切り出してみたが、バッサリと切り返された。お金が必要な時は要相談、と言われているのでワンチャンスあるかと思ったがなかった。
母がため息をつく。
「だってねぇ、露華。もう10月になるのよ。」
「それがどうしたの?」
「あなた、中間試験の勉強はどうしたの?」
「あ。」
晃司のことで悩んでいて、というのは言い訳にもならないが、完全に意識の外だった。
「だからだめよ。遊びに行くこと自体だめ。」
「び、美術館は学びの場だと思うなぁ。」
「中間試験に美術関係ないでしょ。でも、試験が終わった後なら良いわよ。」
「ホント!?」
それならギリギリ間に合う。がっくりと気落ちしていた露華はぱっと元気を取り戻す。ただし、と母は声を強めた。
「5教科全部、前回より点数が上がったらね。そうしたら、二人分の入館料を出してあげる。」
身を乗り出したままのポーズで露華は凍りついた。
***
次の日、学校に着くなり露華は友人へ泣きついた。
「ムリだよぉ。」
「結構破格の条件だけど、アンタおバカだもんねぇ。」
「一学期末の英語。」
「やめなさい。人には得意不得意があるのよ。」
露華よりずっと成績の良いセイカだが、英語だけはどっこいどっこいである。特に、前回は本当にひどかった。持ち出してやると意地悪な笑みが直ぐさま渋面に変わる。
「まあ、ロカはものとか人の名前覚えるのが苦手なわけだし、とにかく頭にたたき込むしかないと思うわよ。」
「そうだね……。でもね、理科は今回結構自信あるんだ! 生き物のことばっかだもん。」
「アンタ動物も好きだもんね」
「うんっ。もう改めて復習しなくても良い線行くんじゃないかな。」
「ところがどっこい。はい、心臓を4つに分けて、向かって右上は何と呼ぶ?」
「は!? え、右、じゃなくて、向かってだから、さ、左心室?」
「ブー。左心房でした。」
「あー……。」
「理科といい、社会といい、アンタよくセットのものがごっちゃになりやすいんだから、ちゃんと確認しないとだめよ。放課後少しなら付き合ってあげるから。」
「はぁーい……。」
***
「肺循環が右心室、肺、左心房。体循環が左心室、体、右心房。」
アパートの駐輪場に自転車を止める。今日復習したことをつぶやきながら玄関ホールに入る。エレベーターの前に細身の女性が一人立っていて、ちらっとこちらを振り返った。あらっと声を上げる。晃司の母親だ。柔和な笑みを向けられて、露華はなぜかぎくりとした。
「久しぶりね、露華ちゃん。大きくなって。」
合う度に言われている。もう目に見えて背が伸びる年頃ではないはずなのに。
……やっぱり太ってる!?
「どうしたの?」
「あ、何でもないです。」
思わず自身の両ほほを触って確かめていると、晃司の母親は不思議そうな顔をした。
「晃司には最近会った? 元気にやってるかしら?」
エレベーターが着いた。小さい頃の失敗以来、露華は極力階段を使っているのだが、相手が言葉を続けるので、一緒に乗るしかなくなってしまう。細い指がボタンの3と4を押す。
「はい。元気でした。お仕事、大変みたいですけど。」
「あらぁそう。ご飯はちゃんと食べてるのかしらねぇ。何か困ってないかって聞いても、大丈夫としか言わないのよ、あの子。」
「コージくん、何でもできちゃいますから。」
「でも、せっかく戻って来たんだから、もっと頼ってくれてもいいのにね。」
エレベーターが3階に着く。露華が小さく手を振るとまたねっとほほ笑んで去って行った。ドアが閉まり、箱が動き出す。
露華は詰めていた息をほっと吐き出した。
大好きな晃司の、その母親なのに、なぜかいつも緊張してしまう。じっと観察されているような、そんな心地がするからだろうか。
***
夜、夕食も入浴も済ませて自室に戻ると、ケータイがメッセージの着信を伝えていた。晃司からだ。
――今年もリンゴパフェが始まったぞ。食べに行こう!
チェーン店のファミレスのことだ。彼の最寄り駅の近くにあるので、季節メニューののぼりがあがる度にこうしてお誘いがある。
ぐるり、と去年のことを思い返す。黄金色に透き通ってなお、くし形のフォルムとシャキシャキした歯ごたえを保つリンゴのコンポート。家では再現できないあれがもう一度食べたい。しかし。
露華はため息をついて返信を打つ。
――もうすぐ定期テストだから。遊びに行っちゃダメだって、お母さんが。
ケータイを手にしたままベッドにあがると、クッションにのしかかるようにうつ伏せになった。ぽこんっとケータイが鳴って、汗を飛ばすメンダコのイラストが送られてくる。
――そっかそっか。そういや去年もテストの頃だったな。うっかりしてた。
――ごめんね。
――こっちこそごめん。終わったら食べに行こう。それより、俺が勉強見るよ。遊ぶんじゃないから、大丈夫だろ?
リンゴパフェを思い出してしょんぼりしていた露華は、ぱっと表情を輝かせた。勉強を見てもらえるのはもちろんありがたいが、今週は会えないと思っていた晃司に会えるのが何よりうれしい。使用履歴から、カラフルな”OK”を背負うメンダコを押そうとして、はた、と指を止める。
晃司へのプレゼントを得るのに、晃司の力を借りてもいいのだろうか?
良いか悪いかはともかく、自分は嫌だ。
――ありがとう。でも、友達と勉強会するの。
まだ約束してないけど、今決めた。
直ぐに返信が来る。
――友達って、セイカちゃん?
――そうだよ。
一番に声をかけるならセイカだ。
――他の子も来るの?
――まだ分かんない。
――セイカちゃんは絶対いるんだよね?
露華はんーっとうなる。
セイカは優しいので絶対付き合ってくれるはずだ。
――うん。
――分かった。勉強がんばって。
――ありがとー。
意味もなく踊っているメンダコを送ってやり取りを終える。
顔を横向けて片ほほをクッションに押しつけた。画面をスクロールしながらやり取りを読み返す。はぁーっとため息が押し出された。
晃司に会いたかった。
「あ。忘れないうちに済ませとかないと、うそつきになっちゃう。」
メッセージを打つ。相手はセイカだ。
――というわけで、勉強会が決まりました。
返信にしかめっ面をしたネコのイラストが送られてきた。
***
試験明け初の英語の授業。終わりのチャイムが鳴り、日直の合図で礼をとる。教師が教室を出て行く。露華は丸付けされた答案用紙を手に、セイカの下へ駆け寄った。
「見て見て! これで5教科全部クリア!」
「アンタよくそんな赤点ギリギリのもの掲げられるわね。」
「えへへー。英語は最難関だったからねー。喜びもひとしおだよー。」
「ふーん。何点上がったの?」
「2点。」
「それもう時の運じゃないの。」
「でもでも、理科と社会はホントびっくりするほど上がったもん。セイカちゃんありがとね。」
「あら。感謝は形で示して下さる?」
「今月は! 今月は勘弁して下さい!」
***
朝の緊張した面持ちから一転、帰ってきてからずっと上機嫌の露華を見て、チャレンジが成功したことを母も察していた。しかし、夕食の後、前回の点数表と今回の5つの答案用紙を見ると、父とそろって目を丸くした。理科の用紙を持ってため息をつく。
「晃司くんをぶら下げただけでこんなに効果があるなんて……。これ期末も使えるわね。」
「今度は俺をぶら下げてくれ。」
「公園で懸垂でもしててちょうだい。」
わっと父がテーブルに突っ伏すのに構わず、露華は母の方へ身を乗り出した。
「ねえ、これでいいよね? コージくんと美術館行っていいよね?」
「ええ、もちろん。電車とかもいくらかかるか、きちんと調べるのよ。」
「うん! わたし、コージくんに話してくる!」
ケータイは自室に置いたままだ。たーっと廊下を抜けて飛び込む。机の上からひったくるようにして薄い端末を拾って、ぼすんっとベッドに身を投げた。
――コージくんコージくん。今平気?
――大丈夫だよ。
――今日テスト全部返ってきたの。点数全部上がったの!
――それはすごい。がんばったな。
――うん! それでね、もう遊んでいいの。コージくん次の土日空いてる?
――土曜が空いてるよ。日曜は用事入っちゃったけど。
返答に一瞬ドキリとする。
危なかった。件の特別展示は来週の水曜日まで。中学生である露華や平日に仕事がある晃司が行けるチャンスは今週末だけなのだ。
あのね、と切り出す言葉を打つ間に、晃司からメッセージと写真が届く。
――植物園に行こう。
写真には白い背景、おそらくテーブルの上だろう、そこにチケットが2枚映っている。今コスモスが見頃を迎えているあの植物園のものだ。
まだ、美術館への行き方を調べてはいないが、植物園は一度行ったから何となく分かる。一日に両方行くことは無理だ。
震える指で文字を消し、新しい文面を打つ。
――もう買ったの?
――うん。もうテスト終わる頃だと思ったから。ゴールデンウィークに行った時、秋の花も見てみたいって言ってただろ。
――うん。言った。
一緒にお出かけするのは、いつもうれしい。
晃司が誘ってくれることも。会えない間気に掛けてくれていたことも。露華の言ったことを覚えていてくれたことも。
いつも、うれしいのに。
今日は、胸がぎゅうーっと重くなった。
「露華、そろそろお風呂入っちゃいなさい。」
ドア越しに聞こえた母の声に、のろのろと身を起こして返事をする。
――お母さんが呼んでるから、ごめんなさい。おやすみ。
――うん。おやすみ。また明日。
露華はぽすんと身を横たえて、クッションに顔をうずめた。
***
翌朝、セイカが教室に入って来たのを見て、露華は席に着いたまま手を振った。しかし、友人は露華の顔を見るなり表情を曇らせた。自身の席を素通りして、真っ直ぐこちらへやって来る。
「どうしたの? 2点アップじゃだめだったの?」
露華は驚いて首を横に振った。
「ううん。あー、英語は特に言及されなかったな。でも、他の教科はすっごく褒められたよ!」
「じゃあ、どうしたの?」
「どうもしてないけど。……え? わたし何か変?」
露華はペタペタと自身の目元やほほに触る。
「変というか、元気がないわよ。」
「んー、眠いからかも。ほら、テスト勉強がんばったから、まだ疲れてるのかな。」
「じゃあ、今日明日は早めに寝なさい。晃司さんにそんな顔見せたら心配されるわよ。」
「だいじょーぶだよ。コージくんに会ったら元気になるもん。」
にへらっと笑ってみせるが、友人は納得のいかない様子で更に顔をしかめた。
どうしたらいいのか、そればかり考えて、先生の声も教科書の文面も何も頭に入ってこない。座学ばかりで実習の類がなかったのは幸いだった。どんな失敗をするか分からない。
帰路を自転車で駆けながら、またぐるりと思考を巡らせる。
晃司にお礼がしたかった。何かしてあげたかった。だから、あのチケットを無駄にするのはだめだ。美術館に行くことは諦めないといけない。
他にできること。土曜日に出かける時に自分が昼食代をもつ。今回は取っておいて、クリスマスや誕生日にいつもより豪華なプレゼントを贈る。
後者の方が晃司は喜びそうだ。これがきっと一番良い。
ああ、でも。
じわりと涙がにじむ。
露華自身が、晃司とあの絵を見たかったのだ。
***
夕食、露華が目の前の食物を黙々と口に運んでいると、突如バチンと音をたてて父が箸を置いた。露華はぱちりと目を瞬かせた。父がじっと見つめてくる。
「露華。晃司くんを美術館に誘えたのか?」
露華はもぐもぐとそしゃくを続けた。いつもより多くかんでいる。ただの時間稼ぎだ。
どう言おう。素直に、別の所に行くと言っていい、はずだ。予定が変わることなんて世の中いくらでもあるのだし、誰が悪いことでもない。
「晃司くんにちゃんと話しなさい。」
露華が口を開く前に、父がそう続けた。
「露華がどうしたいのか、ちゃんと聞いてもらいなさい。」
「でも、コージくんきっと困るよ。……わたし、いやだ。」
「同じ結果になるとしても、それを飲み込めないなら、お前一人で結論を出したらダメだ。自分には分からないことでお前が悲しんでる方が、あの子は困るだろう。少なくとも、お前がそんな顔をしてたら、あの子も楽しくないはずだ。」
晃司はいつもやさしい。もし、露華が浮かない顔をしていたら心配してくれるはずだ。理由が分からなければ、自分のせいだと勘違いするかもしれない。晃司は何も悪くないのに、そんなのはダメだ。
露華はこくんとうなずいて食事を再開した。
***
ベッドの上、クッションを挟んで壁によりかかる。赤いメンダコのぬいぐるみを膝に抱いた。ケータイを両手に持ち、ゆっくりメッセージを打つ。
――今、電話して平気?
送信して、そわそわする気持ちを落ち着けようと、目の前のメンダコの耳をいじくる。すると、手元から鉄琴を奏でる音がして飛び上がりそうになった。音の出所、ケータイを見れば晃司から電話が来ている。
文字で返事が来るものと思っていたから、完全に油断していた。わたわたと混乱しながらとにかく画面をタップする。
耳に寄せるが何も言えずにいると、向こうが先に口を開いた。
『ロカ? どうしたの?』
「あ、あの、いま、へーきなの?」
『うん。メシも終わったとこ。で、どした。土曜日のこと?』
「えと……、」
また不安な気持ちが首をもたげる。せっかくのお出かけにケチをつけるような話をして、晃司は嫌な気持ちにならないだろうか。本当に平気だろうか。
うつむいた視線の先にはぬいぐるみのつぶらな瞳があった。
かわいかったのだと、言っただけだったのに。
リンゴみたいに赤くてまん丸で、リスみたいな小さな耳と目がかわいかったのだと、ただそれだけ。お小遣いの三倍もするから手が出せなかったことも、友人達の買い物を待つ間、未練がましく見つめ合っていたことも言わなかった。
言わなかったのに、今露華の膝の上にいるのだ。
植物園のことだって、沢山おしゃべりした中のたった一言だったのに、そんなことを晃司はいつも大事にしてくれる。
空いてる左手で、ぎゅっと胸元へ抱き寄せた。
「あのね、テレビで美術館の話してたの。」
『美術館?』
「隣の県の大きいとこ。晃司くんの持ってる本の人、特別展示があるんだって。」
『んー? お、おー、これかな?』
タブレットか何かで調べているらしく、向こうで晃司が得心している。
「コージくんに何かしたくて、わたしが美術館連れて行きたくて、テストがんばって、臨時のお小遣いもらったんだけど……展示もう終わっちゃうから……。」
『ホントだ。……そっか。ごめんなぁ、タイミング悪かったな。』
「そんな! コージくんは悪くないよ!」
苦い声がこぼされて、露華は思わず首を横に振った。晃司を責めるために話したかったわけではない。
「それでね、何か代わりに、わたしができることないかなって、」
『いや大丈夫。美術館に行こう。』
きっぱりと言われて、露華は目を瞬かせた。
「でもコージくん。もうチケットが……。」
『植物園のは大丈夫だよ。日付が決まってるやつじゃないから。期限も大丈夫。こっちはまた今度行こう。』
きゅうっと両手に力がこもる。
「じゃ、じゃあいいの? 美術館行けるの? コージくんと?」
『うん。行こう。』
「や……やったぁー!!」
露華は今度こそ飛び上がった。ぽーんとメンダコとケータイが宙を舞う。ぬいぐるみを両手で抱き留めてはっとした。シーツにぽすんと着地したケータイへ身を乗り出す。
「ダメだからね! 美術館のお金はわたしが払うんだからね!」
『分かってるよ。楽しみにしてるから。』
晃司の声は笑いを含んで揺れている。露華はぎゅうっとぬいぐるみを抱きしめて顔をうずめた。
***
特別展示がある最後の週末だからだろう、美術館は盛況だった。流されるほどの密度ではないのだが、はぐれないようにと露華は晃司へ身を寄せる。手をつなぐかと聞かれたが断った。この歳ではもう気恥ずかしい。
露華はほうっと絵を眺めた。
画集では分からなかったが、近くで見ると絵の具の盛り上がりや筆の跡がよく見える。写真より色に奥行きがある。重さや明るさが塗り込まれていて、額縁の中の街や湖は空間そのものを切り取ったみたいに鮮やかだ。
絵画の中に入り込んだような心地で進んでいくと、一際大きな空間に出た。壁一面を覆うように、春の花畑が広がっている。画集にも載っているあの絵だ。
「え……。この絵こんなに大きいの?」
慌てて自分の口を両手で塞ぐ。露華の声としてはいつもより小さいものだったが、美術館で許される声量ではなかった。晃司が肩を揺らしているのに気がついて隣をにらむ。案の定、彼は片手で口元を隠して笑っていた。
いつまでもむくれていてもしかたないので、そろそろと絵に近づく。
錯覚しそうになる。
空は晴れてどこまでも高く澄み、あたたかい日差しを浴びて花々は風に揺れている。美術館の外では、道の脇に落ち葉が降り積もり空は薄雲をまとっているのに、そのことを一瞬忘れてしまう。
部屋は薄暗くて絵だけが照らされているから、重く茂った森の中から春を見ているみたいだ。
晃司が傍らに立った。
軽く腰を折って首を傾げる。隣から露華の顔をのぞき込む時、彼はよくそうした。柔らかな髪が額に掛かる。甘い垂れ目を更に緩めて、ほほ笑んだ。
「ありがとう、ロカ。俺はこの絵がもっと好きになったよ。」
その声に、小さい頃のことがよみがえった。
彼の膝の上、背中が彼のぬくもりに触れている。
長い腕が囲い込むように本を、その中の花畑を広げている。
声が降ってくる。やさしく、やわらかく、降り積もるみたいに。
――俺はね、この絵を見るとお前を見つけた日のことを思い出すよ。ロカ。
露華は隣へ手を伸ばして、大きなあたたかい手を握った。垂れ目がはたっと見開かれる。すぐ笑み崩れたのを確認して、露華はぷいっと顔を背けた。
やはり、恥ずかしかった。
END