大人
忘れたくても忘れられないこと、
傷つくよりもっと深くわたしに刻み込まないで。
オリーブオイルとニンニクの、香ばしい香りが部屋に満ちていた。
度数37%のジンを口にしたせいで、わたしの意識はもう朧げになる。
お酒の味とニンニクの香りと、彼の部屋にいるわたしはふわふわと酩酊していくのがわかった。
背後でわたしを抱きしめる温度に、余計、物事の分別がつかなくなる。
「手、綺麗だよね」
言いながら彼はわたしの指を一本ずつ撫でた。
乾燥した感触が心地いい。
ハロウィンの仮装で着たナース服をもう一度着てほしい、と彼に言われたのは数日前だった。
彼の部屋でアヒージョを作り、お酒を飲みながらその衣装に包まれたわたしは、まんまと彼に抱きしめられている。
比較的アルコールに強いはずなのに、今日は酩酊していて、ぼうっとわたしを上から眺める彼の目を見つめてしまう。
「ねぇ、酔ってるでしょ」
軽く笑いながら彼は言った。
「酔ってない」
酔ってるかもしれない、と思いながら呟いた。
「うそ、目がとろんてしてる」
もう彼は笑っていなかった。
幅広二重の綺麗な茶色い目がじっと私を見ている。
吸い込まれるようにわたしもそれを見つめた、綺麗、
「顔が好き」
言葉が勝手に口をついて出る。
熱に浮かされているようだ。
「おれの?ありがと、今日は特別かわいいよね」
真剣な顔をしないで欲しかった。
彼の顔がゆっくりわたしの首元に埋められる。
唇が、薄い皮膚に押し当てられる。
柔らかさに、温度に、何の区別もつかない。
脳内はゆらゆらしていて、ただ人の温度が心地いい。
「ねぇほんとにかわいいね」
「なにが、」
ふふふ、て訳もわからず笑ってしまう。
「かわいいよ」
そう言って、じっと目を見つめられるから、思わず瞼を閉じた。
ばかだった。
ゆっくり唇が重なるのがわかる、
柔らかいしふわふわしていて、
わたしの何かが飛んでいくのがわかった。
ただのキスじゃないのもわかる。
優しく食まれて、まるでわたしの全部食べられていくみたいな。
ゆっくりそれに答えながら、
意識はただ水面をゆらゆらする。
ゆらゆら、ゆらゆら、
彼の手がわたしの肩より下に触れた時に、弾かれたように目を開けた。
「えっだめでしょ」
一気に意識が戻ってくる。
肩を押された彼は不満そうな顔でこちらを見ていた。
「待って、これだめでしょ、
他の人たちと同じじゃん」
今まで欲望のままに、わたしを貪ってきた男たちと。
目の前にいた彼が唐突に遠くに行ったように感じた。
ゆっくりと、わたしは物理的に距離を取る。
「もう、こない、会わない」
暗黙のルールだった。
手を出さないこと、出されないこと、
わたしの中の青さが劈くように叫ぶ。
なんで目を閉じたのって。
「どうして」
彼の渇いた声が、響いた。
「他の男と一緒じゃん、
そうじゃなかったからきてたの」
だめ、声が冷たくなってしまう。
彼が、泣き始めるのを見た、
小さく肩を落として。
「ごめん、」
見ないでって。
「ねぇ、謝らないでよ、
なんでわたしがここにずっときてたと思ってるの」
衝動だった。
「あなたのことが好きだからだよ」
彼の涙の浮いた瞳が、
じっとわたしを見た。
「ごめん」
俺は、誰も好きじゃないから、と。
口から溢れた言葉を、
わたしはわたしの中に密閉する、
わかっていて口にしてしまったのはわたしのほうだ。
早く忘れたかった、
今すぐここから逃げ出して。
蕩けるほど柔らかい温度を、
自分の体にとどめていたくない。
なんで好きな人とするキスはこんなに優しいんだろう。
彼が、わたしのこと好きじゃなくても。
お酒とタバコとこの関係も、
大人じゃなきゃ起こらなかったこんなミスも。
酔いが覚めていく頭で必死に理性を繋ぎとめた。
彼の部屋には、わたしと彼しかいないのに。