1 王秘書官の死
思ってもいなかったタイミングで訪れるものが人の最後というものなのかもしれない。
アルブス国王の秘書官である、レイモンド・フリンは自分の胸部から突き出した幼子の腕ほどある長い爪を見ながらそう思っていた。
そうしている間にも、爪は徐々に形を変えて、自分の胸に吸い込まれて消えて行った。程なくして、レイモンドは自身の胸から赤い血飛沫が噴き出す様を見たのだが、彼にとって全ては緩慢に動く玩具のようであった。視界の隅に暗い色をした魔獣が見えた。
「レイモンド!」
狭くなりつつあるレイモンドの視界の真ん中にいたアルブス国王が秘書官の名を叫んだなとレイモンドは頭の隅の方で理解した。
そうして、急に寒くなったのか言う事を聞いてくれない震える身体を、国王に抱き起こされたレイモンドは、王の青い双眸に映る赤い自分を見つめながら、黒曜の王が無事で良かったと思っていた。
“ヴィンセントを聖廟に向かわせて欲しい”
秘書官が言いたかった言葉は音を成さず、コポリと音を立てて、赤い色した泡が口元からこぼれ落ちて行った。
徐々にレイモンドの視界は狭くなり、間近にいる国王さえも見えなくなって行った。
彼が自身の死を甘受した頃、秘書官の脳裏には亡き最愛の妻の面影が浮かんでいた。
ーー神がいたとしたら、緑色の瞳をした優しい妻にこの後会える機会でも貰えるのだろうか……?
勿論、秘書官の問いに応える者はいなかった。
アルブス国王はレイモンドの身体を掻き抱くと、護るように自身のローブで秘書官を覆った。
その様子を見て、獲物を横取りされると思ったのか黒い影が王に爪をかけようと動いた。護衛の騎士達が走るも王を狙う爪には僅かに届かない。王が次の餌食かと思われた瞬間、火柱が王と秘書官を護るように立ち昇り、黒い影を退けた。
ーー忌々しい。
そう言いたげな咆哮を上げ、影は王の一団を蹴散らしながら樹海へ溶け込んで消えた。
そして、危機が去ったとばかりに今度は血塗れのアルブス国王とその秘書官を残して火柱が消えた。
「負傷者の手当を急げ。王都に帰還する。」
王は護衛騎士と魔法師団長にそれだけ伝えると、秘書官を抱えて馬車に戻り、外から扉を開けられないよう錠を下ろした。
「すまないアルヴィン。影武者失格だな。」
と、王は既に事切れた秘書官をゆっくりと下ろして呟いた。
王のローブから露わになったレイモンドの髪は赤からアルブス国王と同じ藍色に変わっていた。
この王秘書官の死が、この後に起きるアルブス国騒乱全ての始まりとなった。