第二話:見知らぬ世界
目覚め方としては最も素晴らしいものだった。アラームがなったわけでもない、母親が作る味噌汁の匂いがしたわけでもない、体がこれ以上寝るな、と私を起こしたのだ。
朧げにだが周囲の音が耳に入る。男の人の声だろうか。片方の声が大きいのかやたらはっきりと聞こえる。
私は上手く開かない瞼を手の甲でこすって、目の前で聞こえる声の正体を両目で確認する。
「ん? 寝かして半日も経ってないんでしょ? なんで起きてんのさ」
そこにいたのは学校で後ろの友人に話かかるような姿勢で椅子に座っているやたらと足の長い男性。彼が今発した言葉は私というよりかは、私の後ろにいる誰かに話しかけているようだった。
「知らないですよ。俺にそこの責任はないでしょ」
私の真後ろで声が聞こえる。振り向こうとしても振り向けない、手は動かせる。足も上がる。でも体は全く動かないのだ。
まるで椅子に貼り付けられたかのような感覚、足は動くのに立ち上がれないという現実。彼らに対して不信感は抱いていても恐怖ない、感情から生まれる硬直ではないのに何故私は動けないのだろう。
「まぁ、この話は後でいいけどね。 えっと絢瀬千桜さん......でいいのかな?」
名前も顔も知らない男の人に名前を聞かれるのは入社の面接以来だ。私は首を縦に動かして、その通り、という意を伝える。
「僕は二神終夜。 見えないだろうけど後ろにいるのが水無月悠斗、昨日君を助けてくれたナイスガイだよ」
後ろから、どうも、という柔らかな声が聞こえてくる。なんとなく聞いたことのある声だとわかり、小さな安心が心に生まれた。
「あの......状況が理解できないんですけど」
「ごもっとも。 聞きたいことは山のようにあるだろうけど、わかりやすいように一つ質問。 これ見える?」
彼が指をパチンと打ち鳴らした瞬間彼の真後ろに黒い靄が出現する。それは少しずつ形を成していき凝固し形が定まっていくまでの経過で、私に目を合わせようとしながら息を荒げていた。
昨日の記憶が少しずつ鮮明になっていく。私は震えを自覚し、声を出そうと思っても出せないので荒っぽく首を縦に動かす。
「ん、重症だね」
男の人は右の手のひらを私に向けて、ぎゅっと握りしめる。するとその瞬間に彼の背後にいた怪物が瞬く間に圧死した。どこかの作家が気に入らない原稿をグシャグシャにするように、動物めいた悲鳴とともに怪物の体はまるでそこに何もなかったように姿を消した。
「こいつら『シャドウ』って言ってね、人の悪意から生まれるの」
「シャドウ?」
二神さんは私の鸚鵡返しに対しても、そうそう、と頷いてくれる。
「まぁ文字どうりさ。 でも、一口に悪意って言ってもその種類は計り知れない。 悲しみや恨みといった陰鬱な感情。殺意などの攻撃欲、そういった『陰』の感情から出てくるの。 生まれる場合もそれぞれなんだ、ちりつもな場合もあるし、巨大な奴がドカンと来る場合だって少なくない。 そしてそいつらは全員決まって僕ら人間が大嫌いなの、人が最も悪意を向けるのは人だからね」
その話を聞いて、私は昨晩の男の人の後ろにいたシャドウはどのようなな感情から生まれたのだろうかと疑問に思う。だが今の私にはそれを知る術はない。実はドラマのような複雑な感情があったのかもしれない。
「そしてこいつらを作る人間は山ほどいるのに、見える人間はほんの一部。 戦うとなるとそこからもっと篩にかけなきゃいけないんだ」
「私に戦えと?」
「無理強いはしない」と二神さんは私の言葉を遮る。
「君が戦う必要はない。 君には可能性があっても現状、力はない。 もちろん付けることもできるけどそれは君の自由。 命の保証もできないような場所で見ず知らずの人間のために戦い続けるか、ある程度の休みと平穏を保証された生活なら僕は後者を選ぶけどね」
「そうですよね、では丁重にお断りいたします」
私は形ばかりの笑顔を作って返事をする。二神さんを残念がらせようと思っていたのに、彼は微笑を浮かべただけで「了解」と一言だけ述べて指を鳴らす。すると私の体はがくんと前に倒れ、自由の身になる。
「これで君は自由。 悠斗に任せていれば、ここの記憶もさっぱり消して君は腐った社会の一員として身を粉にする生活に戻れるよ」
私は二神さんにお辞儀をしてから、後ろから肩を叩く水無月さんの背中についていく。
*
「水無月さんはなんでこの仕事をしているんですか?」
出口と思われる場所に案内してくれている途中で私は昨日とは違う内容の質問をしてみた。
「仕事......とは思っていないですね。 俺がやりたいからやるんです......でもこれじゃ質問に答えていませんよね、簡単に言えば誰も死なせないためです」
私が相槌に困っていると、彼は腰に差してあった日本刀の柄をさすりながら続けてくれる。
「悪意なんて誰でも持ちえるもの。 だけど、それが巡り巡って、何気ない日常を送っている誰かを殺している。 だからせめて、何も知らない人には何も知らないまま正しく死んで欲しいんです」
「そんな理不尽に立ち向かってたらきりがないですよ。 人が何かに悪意を持つのなんて天災と一緒で、止めようにも止められないじゃないですか」
「そうかもしれませんね。 けど、誰かがやらなくちゃいけないことがあって、それに向き合える力を持っている自分が逃げていたら後から後悔しそうなので」
その言葉の後は沈黙が続いた。五分も歩けば黒い軽自動車に乗せられ、怪しい薬を飲まされた。これを飲めばあの怪物を見ることも、今日の記憶もなくなるようだ。おとぎ話を打ち切ってまたいつもの日常に戻る。これが最善だと私もわかっていた。
私が目を覚ましたときには無機質なアパートの自室に帰ってきていた。