第一話:夜
夜分遅くの投稿です。早めに寝ないと、学生のあなたも社会人のあなたも頰に小さなニキビができてしまい、毛穴が開いて背も伸びなくなってしまいます。第一話は地の文ばっかりで、目も疲れるので夜に読まないことをお勧めいたします。
それでも読んでやるというそこのあなたに心からの感謝を。
寒い夜だった。天気予報で伝えられた気温なんて当てにならない冷たい空気が、刃のように私の肌に切り裂くような痛みを与えていった。
私はやたらと風通しが良い駅のホームにある小さなベンチで、ついさっき買った時にはホットだったココアと全く温かくならないカイロを揉んだりして暖を取っていた。カイロはすでに固まっており、これから温かくなる未来は見えない。
ありがたかったのは、もはや白い息を吐き出す以外に仕事を知らなくなってしまった口に、小さな安らぎを与えてくれる甘めのココアだった。
『本日もJR東日本をご利用いただき誠にありがとうございます。 本日の最終便は吹雪のために運休とさせていただきます。 皆様にはご不便をおかけいたしますが、ご理解とご協力をお願い致します』
古くなり過ぎているせいで、自分の仕事である音声を出すということすら思い出したようにしかできないスピーカーが、重労働と長時間労働のせいか極寒の中であるのに眠りにつこうとしている私を起こしてくれた。
手に握っていたココアの缶はすでに空になっており、カイロも遂に百人一首の札のように硬くなっていた。私はため息をつきながらホームから立ち去り、踝近くまで積もっていた雪に靴裏を垂直に下ろし、ギュッギュッと音を立てながら帰路に就く。
雪を吸ったコートが、重く私の肩に伸し掛かる。ふと左手につけた腕時計で時間を確認してみると、もう十二時を回っていた。明日、いや正しくは今日は休みだったか。社会人になって初めて取った有給休暇だ。
本来ならば家の掃除をしたり、気になっている店のランチを食べに行ってみたりと、いろんな使い方があるのだろうが、私にはそんな洒落たことはできない。
家の冷蔵庫には賞味期限の切れたジャムしか入っていない。朝と昼ぐらいなら食べなくても死なないが、夜はどうしようか。お弁当でも買って家で一人で食べるか、それとも外食をして見知らぬ人たちの会話を肴に酒でも飲もうか。そんなくだらないことを考えていたらポケットに入れていたスマホが電話の通知を鳴らせた。
私は近くの雪を踏み固めてから、そばにあった電柱に体重を預けて電話に出る。どこか機嫌の悪そうな母の声が聞こえた。
『千桜。家を出てからもう一年も経つのに、電話の一本も寄越さないってのはどういうことだい?』
お盆休みに半日ぐらい顔を見せたが、それだけでは満足しなかったのだろうか。それに頻繁に電話をしていたんじゃ、まるでホームシックの大学生みたいじゃないか。とにかく今は母の機嫌を逆撫でしないように言葉を選んで返事をする。
「悪かったよ。最近は仕事が立て込んでて、連絡したくても家に帰ったらすぐに寝ちゃうんだ」
『そうかい? あんたは昔から友達を作るのが苦手だったからね、一緒にお酒を飲めるくらいの友達は作っておくんだよ?』
余計なお世話だよ、と言いたいところだが、ここで言い返せばまた話が長くなってしまう。今はあんまり長話をする気力もないので、はいはい、と適当に返事をしておく。
『それと、冬華の御墓参りも行きなさいよ? 双子で生まれてくるはずだったのに私がうまく産んであげれなくて、死んじゃったんだからお姉ちゃんのあなたが来てくれなきゃあの子も寂しいのよ?』
「わかったよ。もう遅いから切るね」
そう言って私は画面に映し出されてる赤い受話器のマークを押して通話を終わらせる。遺影もまともにない妹に何を思えばいいのか、小学生の時に生まれたこの疑問に終止符が打たれるのはいつになるのだろう。
私はポケットにスマホを入れて再び歩き始める。
しばらくして家に着いた私は、鞄の中から家の鍵を取り出し、玄関についている上下の鍵を開ける。室内は空気がこもるので実は外よりも寒いことの方が多い。真っ先に灯油ストーブの電源を入れてから手を洗い、私は脱衣所へと向かう。
出勤する前から出してあるタオルに一度目を向けてから、着ていたスーツと下着を洗濯機へ投げ入れる。一人の暮らしのシャワーは異常なほどに心地が良い。肌に打ち付ける水の音も、洗剤の匂いも独占できる。半年くらい前に隣の部屋から遠慮の知らない喘ぎ声が聞こえた時には腹が立ったが、それ以外にこの生活に不快感を持ったことはない。
シャワーから出て、寝巻きに着替えた瞬間に強烈な睡魔に襲われた。普段なら酒を使ってより深いところまで行くのだが、幸いなことに今日は出番がないようだ。これならいつもよりぐっすり眠れるかもしれない。
私は力なく布団に入る。何度か姿勢を変えてみたが、眠気はあるのに上手く寝付けなかった。仕方がないから携帯で小さく音楽を流しながら眠りにつくことにした。目を覚ました時には、雪は止んでおり、鳥の鳴き声が夕暮れを告げていた。
*
寝起きで簡単な身支度と化粧をした私が向かったのは、全国にある牛丼のチェーン店だった。一番小さい牛丼とサラダ。そして日本酒を頼んだ。
普段頼むことのない日本酒は喉を裂くような痛みがした。銘柄も知らされていない日本酒は私の喉をその都度ひっかいて、少し痛めば冷たい水を流し込む。日本酒、水、日本酒、水、それを繰り返しているうちに私の体は軽くなっていた。
酔っ払った勢いで一つも手をつけずに冷めてしまった牛丼とサラダを胃袋へ流し込むと、会計で倍近い料金をトレーに出して、お釣はいらない、と言って店を出た。
なぜこんな遠くの店に来たのか、なんでこんなに泥酔するまで飲んでしまったのか自分でも理解ができなかった。火照った体を冷ますにはちょうどいい風が私の頬を撫でていき、その心地よい感覚は私の心をより跳ねあがらせた。私はロックを気取って人気を得ている大嫌いなアーティストの曲を口ずさみながら、誰も通らない雪が積もった道を歩く。
十分程歩いたところで、ふと私は脚を止めた。不鮮明な光り方をする街灯の下で、コートも着ていない男の人が地面にうずくまっていた。男の人は吐瀉物を吐き出しているのか、それか啜っているような奇妙な音を口から出していた。
よく見てみれば彼のそばには女性が横たわっている。生気のない瞳と雪に負けないほどの白い透き通った肌。普段ならば近づこうとはしない筈が、酔った勢いで私は彼らの元へと歩いていく。肩を叩こうと腰を少し降ろした瞬間のことだった。彼女の腹部から赤黒い鮮血が飛び散る。
私のブーツ、コート、腕にも顔にも生暖かい血が付着し、つぅっと流れたかと思えば真っ白な雪を赤く染めていく。
あまりにも生々しい景色。ドラマの撮影だとするならばこの男の人の顔はなんなのだろう。焦点の合わない両目はぐるぐると宙をさまよい、怯えるような呻き声はおよそ人間の喉から出るものではなかった。
私は一歩だけ後ずさりをする。雪で滑った。鳩尾から頭のてっぺんまでが洗った直後の包丁みたいにひんやりと冷える。尻餅をつくまでの一瞬で私はこの状況を理解できた。
この男の人が女の人を殺した。そして次は私の番だ。よく考えれば幼稚園児でもわかりそうなこの事実を知るまでに私は何度死ねただろうか。
こんな状況じゃ五感も仕事を投げ出して、遠くへ逃げているのだろう。私の目には男の後ろで黒い靄のようなものが明滅して見えていた。
彼らが片手を振り上げ、私に向かって振り下ろしてくる。私は目を閉じることすら許されずに目の前の光景に目を奪われた。
突如として現れた閃光は糸を張ったように空中に走った。速く、美しく、静かに闇夜に消えていった。私に向かって拳を振り上げていた男の人は、糸の切れた人形のように積もった雪の上に崩れ落ちた。
私は開いた口を閉じることもできずに、目の前に降り立った蒼い着物を着た男に目を奪われ続けていた。
「せめて......安らかに眠ってください」
着物を着た男の人は殺害された女性とその犯人の男性に手を合わせていた。閃光の正体だと思われる無機質な鞘と柄の日本刀は雪の上に置かれている。彼は一体何者なのだろうか。
「大丈夫ですか? お怪我は?」
男の人は腰を抜かしていた私に手を差し伸べてくれた。私は彼の手を握って立ち上がると、お尻についた雪を払いながらこの一瞬で生まれた疑問を彼に投げかけた。
「すみません、あなたは何者なんですか? あの男の人は誰なんですか? あの黒い靄のようなものはなんなのですか?」
二つ目の質問までは冷静な顔を維持していた彼は、私が出した三つ目の質問を聞いた瞬間に顔色が少しだけ変わった。だが、それは一瞬で元に戻る。
「全てにお答えすることはできません。それと、急なことで申し訳なのですが、あなたを連れ去ることになってしまいました」
その一言を境に私の視界はぐらりと揺れて、世界が反転するような感覚に襲われた。薄れゆく意識の中で聞こえたのは彼の小さな声だった。
「一つだけお答えします。 俺の名前は水無月悠斗、悪意専門の殺し屋です」