七話【守護霊使いとの夜】
日和国に来て三日目。相変わらずスクレの栞の消耗は激しい。腰まであった栞は、今は彼女の首筋で白く燃え続けている。この世界に滞在できるのは、せいぜいあと一日半だろうとロズは目測を付けた。
この日のロズたちの行動は二日目とほぼ同じだった。
スクレは相変わらず不機嫌で、ロズの存在をひたすら無視してテレビをかじるように見ていた。CMに入るたびザッピングし、ニュースから子供向けのアニメまで真剣な表情でにらみつけている。異世界に来ることを拒否していたが、いざやってくれば白本の知識欲という本能には逆らえないようだ。
五十嵐は朝のジョギングに出かけた。出かける際に彼のスニーカーの靴紐が切れた。五十嵐いわく、何か良くないことが起きる前兆らしいが、どんな関連があるのかロズたちには意味が分からなかった。
しかし結果的に、本当に良くないことは起こるのだなと、その日の夜に痛感することになった。
「なんだ。明日にはここを出ていくのかい」夕食を食べ終え、爪楊枝を口にくわえる五十嵐が目を丸くしていた。
「はい。これ以上五十嵐さんのお世話になるわけにはいきませんし、そろそろ故郷に帰らないといけないので……」
「そうかい。そういうことなら仕方ねえな。儂もこの三日間、楽しかったぜ」
「はい、俺もです」
「あ、あたしも……」スクレもおずおずと同意する。
「それで、最後にお願いがあるんですが。五十嵐さんは今日も夜回りに出かけるんですよね? それなら、俺もまたついてっていいですか?」
「そりゃ助かるが、嬢ちゃんもいることだし、早く寝たほうがいいんじゃねえか? ああ、朝の靴紐のことなら気にすんなよ。あんなのただの迷信さ」
「それもあるんですが、それ以上に嫌な予感がするんです。俺の野性の勘は師匠からも一目置かれているんですよ」
「――まあ、お前さんがそうしたいなら。嬢ちゃんはどうするよ。儂は正直、あまりおすすめはしねえけどな」
「あたしは……」
三人は大通り中央の細長い公園を歩いていた。昨日はカップルたちが座っていたベンチには、今日は誰もいない。午後十時にもなれば車の往来も少なく、昨夜よりも夜が深く感じる。今夜は新月で、月の代わりに星々が都会の空に浮かんでいる。
「……そういえば、俺って、星を見るのは初めてなんだよな」
ビブリアの夜空には星が無い。ビブリアという世界には、ただ“ビブリア”という国が浮かんでいるだけなのだ。女王であり創造主であるネイサの力によって太陽と月は昇るが、ただの飾りのようなものだ。この世界に存在する本物の太陽と月とは規模が違いすぎる。
「星を見たことが無いって、お前さん、一体どこに住んでたんだよ……」先頭を歩く五十嵐が唖然としている。
「あ、いや……それは」自分たちが異世界から来たことを悟られてはいけないと、ようやくロズは思い出した。「め、滅茶苦茶空気が悪いところに住んでたんですよ。いつもスモッグが立ち込めていて、星は見えないし、太陽や月もぼやけてたくらいで……」
「はあ~。儂はこの街の空気も悪いと思っとったが、まだマシなほうだったんじゃな……。嬢ちゃんもそうだったのか?」
「あたしはロズと違うところに住んでたので、星なんていくらでも見てますから」スクレは事もなく嘘をつく。「まったく。星なんて見て何が感動するのかしら?」
「おいおい、星が光る夜空なんてロマンチックじゃねえか。そういうお前だって、あの星空を最初見た時は感動したんだろう?」
そう言って夜空に光る一番星を指さした。
「――ん?」
ロズは眉根を寄せた。つい先ほどまで夜空にあった、赤みを帯びた一番星が消えていたのだ。
その場所はただ黒く、しかも黒い範囲が徐々に広がっていく。
「――よけろ!」
咄嗟にロズは背後のスクレを抱きかかえ、その場から跳んだ。
ズドンッ!!
何かが地面に落下した。轟音を響かせ、その場に猛烈な砂煙を立ち上らせる。
「……いけない、五十嵐さん!」
スクレを守れたことに安堵していたが、五十嵐はどうだ?
「ぐ……うう……」
五十嵐のくぐもったうめき声が聞こえる。目を凝らせば、彼の体を守護霊のゴリさんが覆っている。落下物をゴリさんの屈強な体が防いだのだ。しかし傷は深く、霊だから血は流れないようだが、代わりに体が霧散していく。
そして残されたのは、地面に倒れたままの五十嵐の姿と、その老体を抑え込む鳥の足だった。その鳥は足まで黒く、ガアと耳障りな声で一鳴きした。
イノシシ、ゴリラと続き、次に現れたのはカラスだった。それも、翼を広げれば幅十メートルに達するのではというほど巨大なカラス。紛れもなく守護霊の一種だが、頑強な体を持つゴリさんを一撃で消滅させるほどの力は格が違う。
「しょ……正太郎……」
巨大カラスの足の隙間から、五十嵐は首を出して声を絞り出す。その声に反応して、カラスの背から人影が現れ、チッと大きな舌打ちをする。
「その名前で呼ぶなって言ってんだろ、親父!」
「呼ぶなも何も、お前の本名だろうが……ぐおっ!」
正太郎と呼ばれた男は、カラスの足で自分の父親を踏みにじる。その気になれば体を潰すこともたやすいだろう。
「それにしても衰えたな、親父。不意打ちとはいえ、あのゴリラが一発で消えちまうなんてな。こんなことなら、こそこそせずにさっさとケリつけちまえば良かったよ」
「お前! ロクに働きもせず、いつまでガキのようなことをしてんだ!? この親不孝もんが!」
「うっせえな。こんな力持ってたら、ガキみたいな夢を追いかけたくもなるだろうが。それに不孝っつうんなら、正太郎なんて時代遅れな名前を付けてくれたあんたも同罪だよ。この名前で小学生の頃から、何回からかわれたことか……」
「おい、あんた」黙って話を聞いていたロズが割り込む。「よくわからないが、五十嵐さんの息子さんなんだよな? 自分の父親に暴力を振るうのが悪いことだってのは、世間知らずの俺だって知ってるぞ」
「……そもそも、お前らは誰だよ? 昨日から急に親父の夜回りについてきただろ」
「俺はロズで、こっちはスクレだ。二人で旅をしていて、縁あって五十嵐さんの家で厄介になっている。夜回りについてきたのは、ただの興味本位だ」
「なんだ、つまり部外者ということか。それならほっといてくれ。これは親父と俺の問題なんた。そもそも、親父が夜回りをしてたのも、俺を見つけて懲らしめるのが一番の目的だったんだからな」
クンとロズの鼻が鳴る。間違いない。昨夜の夜回りで感じた臭いは、このカラスから発せられたものだった。あの時正太郎は、近くからこちらを見下ろしていたのだ。
正太郎はロズたちには興味が無いのか、真下で這いつくばる父親をにらむ。
「なあ、親父。厳しい親を持つ子供ってのは、どっちかに育つと思うんだ。模範的な“良い子供”か、親に反発した“悪い子供”か。それで俺は、後者に育ったんだ」
「お前……実の父親を殺すつもりか……!?」
「そんな物騒なこと言わないでくれよ、親父。でも、しばらくの間監禁させてもらうよ。これからやることを邪魔してほしくないからな……だが、その前に」
正太郎の視線が逸れる。その先には、上目遣いで睨むロズの姿があった。
「五十嵐さんを放せ。今すぐだ」
「……これ以上首を突っ込むなよ、よそ者」
「そうはいかない。五十嵐さんには恩がある」
「その恩を返すために、俺と戦うのか?」
「そのつもりだ」
「見ればわかるが、俺は強いよ?」
「俺も強いから問題ない」
「…………ふーん」
その瞬間、彼の目つきが変わった。相手を見下す余裕に満ちた目から、感情を失った冷たい目に。
「人目に付くと面倒だから、早めに終わらせるぞ」
正太郎の腕が上がる。それと同時に、ロズの鼻はさらに濃厚な獣の臭いを感じ取った。
彼らを周囲の視線から遮るように植え込みや街路樹が植えられているが、その陰から動物たちが顔を覗かせ、ゆっくりと歩み寄ってくる。細くしなやかな筋肉質の体。動物を狩る動物、獰猛な肉食動物だとわかる。
この数日の経験で、これらの肉食動物も守護霊だとロズは理解した。
「俺は野良の守護霊を操ることができる。こんな力を持ったら、世界征服とは言わないまでも、裏の世界の権力者として君臨するくらいはできそうだろう? 親父は正義感を振りかざしてやめろと言うが、せっかくの才能を活かさない手はない……なんて言っても、お前にはわからないか」
野良の数は、視界に入るだけで十匹ほど。彼の言葉を信じるなら、さらに増やすことができるかもしれない。
この窮地に、ロズは自分の想像以上に冷静だった。
「“才能を活かさない手はない”それは同感だよ。ただ、どうしても同意できないことがある」
「なんだ?」
「“才能は、他人を、自分を不幸にするためにあるんじゃない”ということだ」
ロズが服の左袖をまくる。彼の張りのある左上の肌には、臙脂色のシンボリックな刺青がびっしりと彫られていた。それを彼の指先がなぞると、腕の中から歪な形の棒が生えてくる。灰になった大木の枝のようでも、人の骨のようでもある。赤黒い炎の模様が蛇のように絡みつき、それが尋常ではない武器であることを主張している。
「師匠。俺の力と、師匠の教えは異世界でも通じると証明します」
現れたのは1.8メートルほどの長さの棒状の武器。腰を落として構えるロズ。正太郎・カラス・肉食獣を威圧しつつ、スクレを自分の背後に隠す。
「ヌエ第一の型“猿の顎”」