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黒髪に秘めたスクレ=ヴェリッタ  作者: 望月 幸
【エピローグ】
76/77

【姫乃ネイサ】

挿絵(By みてみん)

 ジリリリリ!

 バアン!


 とっくに目を覚ましていた私は、遅れて鳴り出した目覚まし時計をぶっ叩いた。念のためにとセットしておいたが、元々女王(ネイサ)様の使用人として働いていた私には不要かもしれない。

 安物のカーテンの向こうから、まだ弱々しい朝日が忍び込んでくる。夏という季節に入る前に新調したいなと思う。この“日本”という国は退屈なほどに平和だ。浅い眠りを繰り返すよりも、しっかり熟睡したほうが主の力になれるはずだ。


 スピー……スピー……。


 隣の部屋から我が主の寝息が聞こえる。はじめのうちは「なんと薄すぎる壁なのだ」と呆れたものだが、この国のお金をほとんど持っていない以上贅沢は言えない。それに、これはこれで隣の様子がわかりやすいから好都合ともいえる。


 ここは日本のとある郊外にある安アパート。あまりのボロさに住民はほとんどいなかったが、今では全部屋をビブリアの元住民たちが占めている。

 人間になった私たちは日本各地に散らばり、今ではそのほとんどが細々としたつつましい生活を送っている。

 我が主は二〇一号室に、そして私は光栄にも隣の二〇二号室に住んでいる。理由としては、私が年齢が近い女性であり、この国での生活への適応力が高かったからだろう。


「さて、始めるか」


 冷蔵庫を開き、卵にベーコンに野菜にと食材を取り出していく。あわせて、彼女が最近好きになったパンケーキというのも作り始める。お金が無いとはいえ、主に貧相な食事を振る舞うわけにはいかない。

 装者から人間になったことで、かつての高い身体能力は失われてしまった。体が重く感じ、指先の器用さも衰えた。以前は料理を終える頃には調理道具の片付けもほとんど終わっていたが、今は片付けまで手が回らない。


「でも、悪いことばかりでもないか」


 下の部屋から「ワーギャー!」と乳幼児たちの騒がしい声が聞こえて、つい笑みがこぼれる。

 人間になったことで、私たちは子供を授かることが可能になった。下の部屋にいるのは、かつてペアを組んでいた若い白本と装者だ。今では毎日のように仲間たちが彼らの子供と遊びにやってくる。かくいう私もそうだが。


「よし、できた!」


 甘いパンケーキに、目玉焼きが乗ったベーコン、サラダ。コーヒーには砂糖とクリームをたっぷり。この世界で使える“インターネット”というもので調べたオーソドックスな朝食だ。甘めのコーヒーは主の好みの味。

 それらをお盆に乗せて、私は二〇一号室に向かう。大家さんには内緒で作った合鍵で鍵を開け、扉を開ける。


「うっ……」


 年頃の女性が住む部屋とは思えない生臭い悪臭が鼻をつく。

 主は人間になったことで人並みの体臭を放つようになった。それ自体は構わないが、生活能力が皆無に等しく、主に溜めこまれた生ゴミやカップラーメンの容器の臭いが酷い。加えて主は仕事柄部屋にこもりがちで、おまけに神経質になるので気軽に掃除もできない。

 しかしこの日はそうもいかない。主を甘やかすだけが私の仕事ではないのだから。


「ネイサ様!」


 六畳一間の奥に置かれた机に突っ伏し、パソコンのキーボードによだれを垂らしている我が主に声をかける。


「うう……誰……?」

「私です! ローズです! 寝ぼけてないで、早く朝食をお済ませください!」

「ええ……何でよう……? 何か予定とかあったっけ……?」

「あります! お忘れですか!?」


 普段は部屋にこもりっきりでも問題ないが、今日だけはそうもいかない。心を鬼にして、必要ならば叩き起こす!


「今日は“姫乃ネイサ”のサイン会でしょう!? あなたのファンを失望させることだけはいけません!」


 その言葉を聞いて、我が主はようやく頭を上げて振り返った。口元にはよだれの跡、頬にはキーボード模様がくっきり浮かんでいるが、それでも我が主は愛嬌のあるお顔をしている。


「――でもそれはそれとして、とりあえず朝食を覆食べください! 冷めないうちに!」

「ふあ~い」




 主がもそもそと朝食を口に入れている間に、私は部屋を片付け、今日の予定を再確認し、着ていく服をコーディネートした。朝食を終えたのを確認し、浴室で主の汚れを徹底的に落とし、乾かした絹のような金色の髪を梳かしていく。

 事前に呼んでおいたタクシーに主を突っ込み、私も後に乗る。タクシー代は痛いが、免許も車も無いし、主は自転車に乗ることもできない。


「三景堂名古店までお願いします」

「はい、わかりました」


 我が主は、人間になってからは「姫乃ネイサ」という名を名乗っている。職業は小説家。主にビブリア時代の白本たちの経験を元ネタにしており、この世界の人間たちには“新進気鋭のファンタジー小説家”として人気を博している。

 加えて我が主は美しく、愛嬌もあり、笑顔も素敵で、怒った顔まで可愛らしいので、そのあたりも人気の一因となっているようだ。もっとも、それを支える我々の力あってこそだが。

 

 この日は主の新作『銀色の髪の乙女』の発売日であり、熱心に「姫乃ネイサ」を推してくれる大型書店でサイン会を開いてくれるのだ。

 私は主の使用人改めマネージャーを務めており、身の回りの世話から取材交渉、今回のようなサイン会の調整なども行っているというわけだ。


「ほら、ネイサ様。着きましたよ……また寝てるんですか?」

「あ……ごめんごめん。車って、妙に眠気を誘われるから……」

「遅刻寸前ということをお忘れなく……」


 半ば駆け込むように書店に入り、今回のサイン会の担当者に取り次いでもらう。事務室で本日の流れを確認し、私だけ会場を覗き見てくる。決して大きなスペースではないが、この世界の部外者だった主がついに受け入れられたのだなと感涙せずにいられなかった。


***


「それでは、姫乃ネイサ先生のサイン会を始めさせていただきます!」


 午前十時。ついにサイン会が始まった。

 サイン会では、テーブルに積まれた新刊・既刊に姫乃ネイサがサインを書き、来場者に手渡す。既に購入した本があるという場合、持参してもらえばそちらにもサインを書く。

 もう一つの嬉しいポイントは、一分にも満たない短い時間だが、姫乃ネイサと会話ができるという点だ。この世界では、小説の読者は作者と会話するどころか、会うことすら難しいらしい。まさに千載一遇のチャンスというわけだ。

 一人目の来場者が主の前に立つ。二十歳ぐらいの男か。少々挙動不審に感じるが、悪い人間ではなさそうなので安堵する。


「あの……僕の名前は〇〇といいます。姫乃先生の著作は全巻揃えています」

「はい、〇〇さんですね。いつも応援ありがとうございます!」

「実は僕も小説家を目指しているんですが、姫乃先生のアイディアはどのようにして生まれるんでしょうか? 僕にはあんなファンタジー想像もできません」

「ふふっ、それは企業秘密ですよ」


 主は「〇〇さんへ 姫乃ネイサ」といった感じに、来場者の名前を添えたサインを書き、会話に興じる。執筆のために引きこもりがちではあるが、本来他者と話すことが好きな人なのだ。

 来場者は約三十人。もっと来いと思わずにいられないが、人数が少なければ一人一人と接する時間が長く取れるし、終了までに人も増えてくるだろう。そう考えて我慢する。


「姫乃先生、新刊おめでとうございます!」

「姫乃先生、お会いできて光栄です」

「ネイサ様……ああ、お美しい……ハァハァ」


 サイン会はつつがなく進行していく。少々ヤバそうなのもいたが、私が目を光らせているうちは狼藉など許さない。身体能力が落ちたとはいえ、そこらの男どもなら三人はまとめて相手できる。

 そしてようやく最後の一人となったとき、異変が起きた。目の前に立つ二十代ほどの男の顔を見て、主が目を丸くしていた。


「……ネイサ様?」

「えっ? ああ、ごめんなさい。あなたの……お名前は?」

「俺は」男性が照れ臭そうに頬を掻く。「神木叶銘っていいます」

「ああ、やっぱり……」


『やっぱり』? 二人は知り合いなのだろうか?

 改めて男を見る。少々地味だが、清潔感のある好青年といった風貌か。これといって特徴の無い男に見えるが、彼が主と接触したことは無いと断言できる。主が外出するときは私が常に一緒だし、記憶力にも自信がある。

 訝しむ私の前で、主は言われたとおりの名前をサインする。その指が震え、ポツリと丸い染みができる。なぜ、主は涙を流しているのだろうか?


「ネイサ……やっぱりネイサだ。ただのペンネームかとも思っていたけど」

「いえ……私は正真正銘、ネイサです。あなたが知っているとおりの……」

「そうか。まさか、こんなことが起こるなんて」


 男はおもむろにスマートフォンを取り出し、保存されていた画像を主に見せた。そこには何枚もの美しいイラストが描かれていた。パソコンで描かれたものだろう、ビブリアでは見ることの無かったタイプの芸術だ。


「実は俺、大学や仕事に通いながら独学でイラストの勉強をしてたんだ。その甲斐あって、今は一応プロのイラストレーターになれたんだよ。と言っても、生活するにはギリギリの稼ぎなんだけどな」

「まあ! あの頃のあなたは、お父様との親子喧嘩以外は随分無気力だったのに」

「それはたしかに。それでさ、もし良かったら……次の本の表紙は俺に描かせてもらえないか? 姫乃ネイサの名前を見つけたときから、そう考えていたんだ」

「それは、私の一存で決められることではありませんが――」


 そう前置きしているが、主の表情を見れば答えは明らかだった。

 常に主の傍にいる私は、彼女の色々な表情を見てきた。しかし私は、このときの笑顔を忘れることは無いだろう。つられて私の目頭まで熱くなってくる。


「ぜひ、私とまた、一緒に……!」


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