最終話【ビブリアはここに在る】
迎えに来たネイサの従者と共に、ロズとスクレは居城へと向かう。
どちらからともなく、二人は手をつないでいた。もうすぐ本に成るスクレとの時間を惜しむように、ロズは指を絡めて彼女の小さな手を覆う。スクレがくすぐったそうに笑うと、ロズも白い歯を見せて笑いかけた。
ネイサの居城までは歩いて二時間ほど。普段は面倒に感じる距離だが、この日は違った。この道が永遠に続けばいい――そう思わずにはいられなかった。
ロズは師匠との、ある日のやりとりを不意に思い出した。
「ねえ、師匠。何で楽しい時間は短く感じて、辛い時間は長く感じるんですかね?」
「おや、もう泣きごとですか? 君が料理が苦手だと聞いたから、こうして教えてあげているのに」
「うっ、すみません……。でも、本当に不思議じゃないですか」
「そうですねえ。その答えからはちょっとズレてしまいますが、私は楽しい時間を長く感じるために、その時間を噛みしめることにしています」
「『時間を噛みしめる』って、どういうことですか?」
「たとえばですが、今、こうして君に料理を教えているのは楽しい時間です。だから、一つ一つのことにつぶさに目を向けるのですよ。まな板の上の食材、食材の香り、沸かしたお湯の湯気、傷だらけになった君の指……全てを感じ取るんです。それらはやがて強い思い出となり、後から何度だって味わうことができるんです」
「う~ん……よくわかんないです。っていうか師匠、感じ取るのはいいですけど、しっかり教えてくれないと困りますよ」
「おっと、すみません。ええと、どこまで進みましたっけ?」
「全然感じ取れてないじゃないですかあ……」
ロズは歩きながら空を見上げた。ヌエ第四の型のおかげか、神経が研ぎ澄まされ、以前よりも鮮明に“世界”というものを感じ取れる。
雲一つない青空を風が駆け巡る。
風にそよぐ草花がさらさらと涼しげな音を奏でる。
ざくざくと三人の足音がそれに混じる。
つないだ手からはぬくもりを感じる。
黒から銀へのグラデーションを描く艶やかな髪が視界に映る。
「どうしたんですか?」
目が合い、くすぐったそうな笑みを浮かべるスクレが尋ねる。
「ちょっと、世界を感じていたんだ。お前もやってみるか?」
「ふーん。どうやるんです?」
「簡単に言うと、一つ一つのことにつぶさに目を向けるんだ。たとえば……」
ロズの感覚的で下手な説明を、彼女は何度も吹き出しながら最後まで聞いてくれた。
自分の心を優しく温めてくれる彼女の声。
すっと通った理知的な鼻筋。
笑うとぷっくり膨れる桃色の頬。
指先で触れたくなる艶のある唇。
長い髪の隙間からちらりと覗く耳。
空と海の青さを閉じ込めたような青く澄んだ瞳。
彼女の全てが、今は愛おしい。涙を流しそうなほど。
いつの間にか、道の先にネイサの居城が見えていた。
普段は一部を除いて一般開放されているネイサの居城だが、スクレが本に成る儀式に配慮してか、この日はネイサと彼女の使用人を除いて誰もいなかった。
権威を示すほどの高い天井。広大な空間にステンドグラスを通過した色とりどりの光が差し込む。ビブリアの芸術家たちが魂を込めた彫像や絵画が配置され、その場の格式を高めている。
ネイサは自分の体を覆い隠せるほどの玉座に座り、その左右に二人の使用人が控えている。彼女らとロズ、スクレの二人の間には一台のテーブルが置かれ、その天板には一冊の本がある。タイトルも文章も装飾も無い、ただ真っ白なだけの本だ。
五人はテーブルを囲むように歩み寄る。ネイサがスクレに視線を向けた。
「やり方はわかっているな? 白本がこの本に触れると、その身に刻まれた経験の全てが一冊の“本”と成る。その瞬間、白本としての意識は消滅する。覚悟はできているな?」
「はい。もちろんです」
女王の目をまっすぐ見据えながら凛と返答する。
「スクレは本当に強くなった。師匠……俺と戦ったときも、こんな気持ちだったんですか?」ロズは心の中で尋ね、「きっとそうだったんだな」と自ら答えを返した。
「では、始めるとしよう。みんな、離れていてくれ」
「……ネイサ様。俺も……彼女の傍にいていいですか?」
「……わかった。特別だぞ」
「ありがとうございます!」
放していた彼女の手を再び握る。
「情けないですね、ロズさん。まるで親離れできない子供みたい」
「うるせえ。お前だって似たようなもんだろ」
触れてみてわかったが、彼女は震えていた。自我の喪失。この世との別れ。白本の使命とはいえ怖くないわけがない。
だから最後まで力になる。ロズの揺るぎない覚悟の証だった。
「さあ、スクレ。手を――」
「はい」
ついに、彼女の指先が白い本に触れた。
ぶわっ
スクレの体中から翼が生えたかのように無数の紙が噴き出した。一枚一枚の紙には細かな文字で、これまで彼女が生きてきた物語全てが記されていた。それらは鳥の群れのように宙を飛び回り、指先で触れる白い本に溶け込んでいく。
この光景を、ロズは美しいと感じた。体が紙になるにつれスクレの体は眩しく発光し、居城の内部を光で包み込む。
神々しかった。かつて守護霊が存在する国で見た光の巨人を思い出した。守護霊には主の姿が反映されると聞いたが、まさに今の彼女は、全てを包み込む光の女神に違いなかった。
「スクレ……」
どうしようもなく涙があふれてくる。握っている彼女の手が少しずつ軽くなっていく。眩しい光の中に目を凝らしても、彼女の輪郭はぼんやりとしか映らない。
宙を飛び回る紙の枚数が減っている。もうじき本に成る儀式が終わるのだ。もはやスクレの体は、ロズの右手の中に収まる数枚の紙しか残っていなかった。
この手を握ってしまおうか? 一瞬そんなことを考えて、やめた。それは彼女が望むことではないだろうから。
「そうだよな。お前はきっと、こうしてほしいよな!」
ロズは右手を真上に掲げ、パッと開いた。最後の一枚が優雅に彼の頭上を舞い、白い本に着地して、溶けていった。
「――スクレは無事、本に成った。本当は私が真っ先に読みたいところだが、せっかくだ。お前が読んでいいぞ」
ネイサが手にした本をロズに差し出す。ロズはそれを両手で受け取ると、指で優しくなぞりながら見下ろした。
彼女の髪の色をそのまま写したように、黒から銀へのグラデーションを描いている。その中心に描かれているのは、一人の少女と一匹の獣。その獣は頭部が猿で、尾は蛇で、体は虎だった。獣の胸にはハートが描かれており、同じように少女の胸に描かれたハートとつながっている。
ロズは本を開かず、そのままネイサに返した。
「なんだ。読まなくていいのか?」
「はい」即答して頬を掻いた。「あいつのことならだいたい知ってますし、それに……」
「それに?」
「そんなことしたら『デリカシーがありません!』って噛みつかれるかもしれませんから」
「……ふふっ、そうか。私も気を付けないとな」
それから、ネイサを人間にするための儀式の準備が始まった。
手順としては、まずビブリアに残る者と、ネイサに付いていく者とを分けた。結果的に、ビブリアに残るのは全体の二割程度に留まった。その多くは人間とは異なる姿を持つ本の虫たちで、残りは女王よりも国を愛する者たちだった。
そして、彼女らを人間にするための儀式に必要なものを異世界で集め回った。分量こそ多いがどの世界にも存在する素材がほとんどだったので、一週間ほどで集まった。これらを持って、異世界で人間になる儀式を行うのだ。
その異世界は、ネイサの希望で「地球」と呼ばれる天体が存在する世界が選ばれた。全員が確実に地球にたどり着けるよう、ヘルティク夫妻が作る特別製の栞が量産された。
それらと並行して、白本と装者たちは遠い異世界への移住の準備を進めた。街全体が慌ただしくなり、人々は不安と期待に満ちた表情を浮かべながら各々必要なものをまとめていった。
「お祭りみたい。ニーニャも混ざりたい」
「駄目だって。お前は“ビブリアの消滅を防ぐ“っていう超重要な仕事があるから残るんだよ」
「うー。わかってるってば」
街を蟻のように練り歩く人々を建物の屋上から見下ろしながら、ロズとニーニャは取り留めのない会話を続けていた。
ロズは正式に“ビブリアの守護者”となったため異世界に出ることは許されなかった。ニーニャもビブリア存続のために必要な唯一の存在なので、現在はネイサから力の一部を複製してもらいながら居城で暮らしている。
「ネイサ様たちは三日後に出発予定だ。こんなにたくさんの人たちが見られるのは今だけだぞ。ビブリアに残るのは千人もいないからな」
「ふーん」
「……寂しくならないか? 実は俺、ちょっと不安なんだけど」
「ニーニャは寂しくないよ。これがあるから」
彼女はロズに向かって両手をかざした。両手の薬指に指輪がはめこまれている。
「たしか、シゾーの手の中に収納されていた刃から作ったんだったな。物騒だから俺は処分したかったんだが……」
「これはあの人の形見なんだから駄目! それに、指輪は誰も傷つけない!」
「わかった。わかってるって」
ロズは自分の首から提げた指輪を握った。自分にとって、これがスクレとの絆であるように、ニーニャにとってはそれがシゾーとの絆なのだ。否定なんてできるわけがない。
「さてと。お前はそろそろ城に戻らないといけないだろ? 帰ろうか」
「うー。ニーニャ、まだ帰りたくない」
「そんなこと言われても、帰りが遅くなると俺が怒られちゃうからな。それにネイサ様との“お勉強”が進まないと、みんなビブリアから出られないんだぞ」
「うー……わかった。ニーニャ、頑張る」
「よしよし、偉いぞ」
ロズは見た目以上にずっしりと重い彼女の体を抱きかかえ、ネイサの居城に送っていくのだった。
ネイサたちがビブリアを発つ当日。
天気は快晴。ビブリアでは珍しくない天気だが、この日の青空は真っ白な混沌の炎を青く染め上げてしまいそうなほどに青く感じられた。
混沌の炎の前にはビブリアのほぼ全ての住民が集まっていた。白本たちの髪にはヘルティク夫妻特製の栞が結び付けられ、彼らの脇には装者が寄り添う。
「さあ、出発の時間だ! 準備ができた者から炎に入れ!」
ビブリアの時空を安定させるため、ネイサは最後に混沌の炎に入ることになっていた。そのため、彼女の指示に従って白本と装者が次々と炎の中に歩んでいく。
人口のほとんどがビブリアを出るためか、彼らの旅立ちはロズの想像以上に淡々と進んでいった。彼らにとって重要なのは、ビブリアとの別れよりも異世界での新生活なのだ。荷物を満載した荷車を引いて続々と焼かれていく姿を何度も見送った。
「さて。いよいよ私の番か」
ついにネイサの番が回ってきた。
このときばかりは、残された者たちも涙をこらえずにはいられなかった。この世界の創造主であり、母親たる存在と二度と会えなくなる……国を選んだとはいえ、その気持ちをごまかすことはできなかった。
見送る者の中には彼女に別れの握手を求める者もいた。ネイサが一人一人に応えていると、最後にロズとニーニャが彼女の前に立った。
「いよいよ出発ですね」
「ああ、そうだな。正直なところ、お前にも、皆にも悪いと思っている。私のわがままでこの世界を作って、そして去ってしまうのだから……。かつてのアンサラーのように怒りを覚える者もいただろうに」
「それでもこうして、無事にネイサ様の旅立ちが叶ったのは、あなたの人徳だと思います。俺たちはあなたの道具として生まれたのかもしれませんが、そんな俺たちをあなたは間違いなく愛していた。まあ、俺は危うく処分されるところでしたが」
「そ、それは……ごめんなさい……」
「あはは、冗談ですよ! 最後にちょっと意地悪したかっただけですから」
「……まったく。お前は今後もビブリアの守護者……いえ、“ビブリアの王”になるのだから、そんな軽薄な態度ではみんなが困るぞ」
「わかってますって。任せてくださいよ」
ロズは自分の胸をドンと叩いて、満面の笑みを見せつけた。
ネイサも笑顔で返すと、次はニーニャの前に立った。
「結局、お前には私の力の半分も託せなかったな。私の知識ではこれが限界なんだ」
「ううん、大丈夫!」ニーニャはバッと両手を広げた。「ニーニャたちには、もっと小さな世界で十分! 狭い所で、みんなが毎日顔を合わせる。それで良いと思う!」
「そうか、そうだな。ありがとうニーニャよ。後のことは任せたぞ」
「うん! ニーニャ頑張る!」
二人は抱き合い、別れの挨拶を済ませた。
「では、行ってくる! 皆、達者でな!」
ネイサは皆に背を向けると、ドレスの裾を翻しながら混沌の炎に身を投げた。この世界の女王らしい、堂々とした後ろ姿だった。
ズウンッ!
彼女の姿が見えなくなったと同時に、ビブリア全土を揺るがす振動が襲った。ロズには経験がある、繭の国消滅寸前で感じたあの振動と同じだった。
「ニーニャ!」
「うん!」
ニーニャの体の表面に電子回路のような光の模様が描かれる。数秒の内に彼女の体は光の模様に覆われ、一際強い瞬きと同時に「キィン!」と甲高い音を発した。
すると、ビブリアを破壊する揺れが止まった。その場に伏せていた者たちが首をもたげ、「大丈夫か?」「俺たち生きてるよな?」と確認し合った。
「正確には」この中で最も鋭敏な感覚を持つロズが説明する。「ニーニャの力は、ネイサ様の三割ほどしかない。今は彼女に負担を強いてビブリアを維持しているが、安定させるにはビブリアの土地の七割以上を切り捨てなければならない。
以前から説明した通りだ。みんなも準備はできているだろう? 今後はネイサ様の居城を中心に新たな街をつくり、混沌の炎も移動させる! 俺についてこい!」
それだけ告げてニーニャと共に歩き出す。
これがロズにとって、ビブリアの王としての初めての仕事だった。ネイサたちとの別れに打ちひしがれ、ビブリアの存続に不安を抱く者たちを奮い立たせなければならない。
できるのか、俺に? そう思わずにはいられなかった。なにせ自分は、かつてこの国の女王を傷つけた大罪人なのだから。
「ねえ、ロズ」
しばらく歩いたところで、後ろを歩いていたニーニャが話しかけた。
振り返って、驚いた。
ロズの目の前には、瞳を輝かせてロズに続く人々の姿があった。
「ロズさん……いや、ロズ様たちはビブリアの救世主だ!」
「あんたがいなけりゃ故郷が消えて無くなってたからな」
「私たちの手でより良い国を作っていきましょう!」
「頼むぜ、王様!」
ロズには理解できなかった。この数日間、ビブリアのために奔走することも多かったロズだが、彼らにこれほど支持される理由は無かった。
答えを教えてくれたのはニーニャだった。
「ネイサ、何度も頭を下げてたらしいよ。『彼をよろしく』って。私が外に出かけてる間、東の街にも、西の村にも、スクレの本を持って。あの本には、ロズの良いところがいっぱい書かれてるから」
「そうか……そうだったんだ」
師匠だけじゃない。主人も、女王も、こんな自分を支えてくれている。それなら、ビブリアの新たな王として不甲斐ない姿を見せるわけにはいかない。
ロズは込み上げていた不安を押し込め、満面の笑みで宣言した。
「ビブリアはここに在る! 異世界の連中に笑われないよう、最高の国を作っていこうじゃないか!」
新たな王たちの姿を太陽と混沌の炎が明るく照らす。
残された者たちに悲壮感は無く、その足取りは力強かった。




