八話【繭の国消滅】
ニーニャという名の少女に客間に通される。しばらくソファーに座って待っていると、彼女はカチャカチャと危なっかしい音を立てながら茶の入ったティーカップを二人分持ってきた。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
カップを手に取ると、盛大にこぼれた茶でびちゃびちゃに濡れていた。一瞬眉をひそめそうになるが、ニーニャがじっと見つめているので笑顔で茶を飲み干す。
「ロズ、美味しかった?」
「うん、美味しかったよ……」
「スクレ、美味しかった?」
「ええ、美味しかったです……」
実際は半分ほどこぼれていたうえに、味が薄すぎて白湯を飲んでいる気分だった。
しかし二人の感想を聞いて、ニーニャは満面の笑みを浮かべていた。
今から自分たちは、この笑顔を壊す報告をしなければならない。そう思うと気が重かったが、シゾーの遺志を無駄にするわけにもいかなかった。
「ニーニャ。実は君に伝えないといけないことがあるんだ」
「えっ? なーに?」
「……シゾーが死んだ。君とどういう関係なのか知らないが、彼にそう伝えてくれと頼まれたんだ」
ニーニャはきょとんとしていた。宝石のような銀色の瞳がロズをじっと見つめている。
「死んだって……? もう動かないの?」
「そうだ」
「もう会えないの?」
「会えたとしても、それは死体だ」
「もうお話できないの?」
「そうだ」
「……ニーニャは、これからどうしたらいいの?」
「……それは、俺たちからは何も言えない。ただシゾーは『好きにしろ』って言っていた」
「……そうなんだ」
ニーニャが自分の胸の辺りをぎゅっと握る。
泣いてしまうだろうな……そう思ったが、彼女の大きな瞳から涙は流れない。ぶるぶると小刻みに震えるだけだった。
「ニーニャは、機械人形……」
「機械人形?」
「機械人形は涙を流さない。涙は機能として必要無いから。でも今は、涙が流れないことがとても悲しい。そう思う……気がする」
ニーニャの震えが激しくなる。それと呼応するように居城が、繭の国全体が振動を始めた。空気がビリビリと肌を震わせ、柱や天井がミシミシと軋む。部屋の隅に置かれていたガラス棚が倒れて破片をまき散らした。
「ニーニャは機械人形……ニーニャは涙を流せない……!」
「ニーニャちゃん!」
飛び上がったスクレがニーニャの肩を抱いて頬を寄せた。
「スクレ? スクレ?」
「悲しいよね、ニーニャちゃん。あたしもわかるよ、あなたの気持ち。あたしも大切な人を目の前で失いそうになったことがあるから」
「そう……なの……?」
「うん。だから、あなたの悲しみをあたしに共有させて。あなたが涙を流せないなら、代わりにあたしが流すから……」
そう言うとスクレは本当に涙を流し始めた。
シゾーはスクレにとっても敵だった。そんな彼の死を、今は親しい人が亡くなったように涙を溢れさせている。
「あったかい……」
ニーニャがぽつりとつぶやくと、次第に繭の国の振動が収まってきた。
「スクレ、ありがとう。ニーニャ、もう大丈夫だから」
彼女の白い指がスクレの涙をぬぐったころには、振動は完全に止まっていた。
ロズとスクレは自分たちとシゾーの関係から説明した。とはいえ決して穏やかな間柄ではないなので、彼女にはある程度内容をマイルドに抑えた。
そして肝心のシゾーの最期。話を聞いている間、ニーニャはずっとうつむいていた。
「――そういうわけなんだ。俺としては、君はこの世界を出たほうがいいと思う。この世界には誰も帰ってこないし、かなり崩壊が進んでいる。このままだと完全に消滅するだろう。どうだ?」
ロズは提案しながら、彼女は拒否するかもしれないと思っていた。自分はシゾーの敵であり、そんな男の提案を受け入れる可能性は低いと。
しかし予想に反し、ニーニャは首を縦に振った。
「ニーニャ、行きたい。あの人の故郷に」
「……そうか、わかった」
ビブリアに異世界の生物を連れていくことはできないが、機械人形のニーニャは問題ない。
「ビブリアに着いたら、君が生活していけるように支えてあげる。安心してくれ」
「うん。お願い」
「――話はまとまりましたね。それではこの世界を出ましょうか。先ほどの振動の影響か、崩壊が加速度的に進んでいます」
三人が外に出ると、クリーム色の空にひびが入っていた。浮遊する大地の端の方から崩れ落ち、立ち並んでいる墓標も次々と虚空に落下していく。
あの墓標の下には誰が眠っていたのだろうか。そう思いもしたが、今となっては確かめる時間も無い。
「それではビブリアに戻ります。二人とも、あたしの肩に手を置いてください」
スクレの後頭部に結び付けている、シゾーが持っていた栞が激しく発火する。白い炎はスクレを覆い、やがて二人にも燃え移る。
三人の体が燃え尽きて繭の国から消えた瞬間、世界の崩壊が一気に加速した。
大犯罪者“アンサラー”が作り出した繭の国は、そこに染みついた怨念や憎悪、そして静寂を道連れに消えて無くなった。
***
ビブリアに戻った三人を出迎えたのは、手に手に武器を構える装者たちだった。理由は言うまでもなく、モーブにマグテス、そして名も無き白本の殺害容疑だ。殺人などめったに起きない平和なビブリアにおいては文句なしの凶悪犯罪と認識されても仕方ない。
「どうする、スクレ?」
そっと耳打ちする。
本来の自分の力を取り戻したロズなら、二人をかばいながらでも目の前の装者たちを蹴散らすことは難しくない。二人を抱きかかえて逃げ出すこともできる。
しかしスクレは装者たちに向けて、思いがけない言葉を発した。
「あたしたちは抵抗しません! 大人しく捕まりましょう! しかし投獄する前に、ネイサ様に会わせていただきたい!」
彼女は自分から捕まると宣言した。
何を言い出すんだと混乱していると、一人の装者が歩み出た。ロズも知っている、ネイサの使用人の一人だった。
「私はネイサ様の使いで、本に成る条件を満たしたスクレ様をお迎えに上がった次第です。あなた方が殺人犯の容疑をかけられるとは思いもしませんでしたが……いいでしょう。本に成れば、あなた方がこれまで何をしてきたか一目瞭然ですから」
使用人の命により、装者たちが三人の手に縄をかける。事情が全く呑み込めないニーニャはしきりにキョロキョロしていたが、スクレが「大丈夫だよ」と声をかけると落ち着きを取り戻した。
「なあ、スクレ。どういうつもりだ?」
「あたしたちの無実――というより正当防衛を証明するには、あたしが本に成り、経験してきた物語を直に見てもらうのが一番ですから」
「それはわかるが、ビブリア消滅の件はどうなる? お前が愛するビブリアを守る手段はまだ見つかっていないんだぞ」
「それも当てがあります。任せてください」
「……そういうことなら、お前を信じるよ」
自分は最後までスクレの味方になると誓った。それなら、彼女がやろうとしていることも尊重すべきだろう。
ロズは心を決め、装者たちに見張られながらネイサの居城へと歩き出した。




