六話【ヌエ第四の型】
「ハッ!?」
ロズはベッドの上で目を覚ました。
窓の外からは柔らかな朝日が差し込む。何度も経験してきた穏やかな朝だった。
「俺は……師匠と戦ってたんじゃ……?」
つい先ほどまで左腕の義手を開放した師匠と戦った記憶がある。しかし手足にはそのときの感触が無く、体をさすっても痛みも傷も無い。
「まさか、夢だったのか? いや、そんなはずは……」
寝起きのせいか頭がぼんやりする。
とにかく頭をすっきりさせようと外の空気を取り入れようとするが、窓が開かない。鍵は開いているのに、どれだけ力を込めてもガチャガチャと揺れるのみだ。
「立て付けが悪いのか? まあいいか」
ベッドから出ると、体が汗でじっとりしていることに気付いた。
「……そうだよな。師匠と命がけで戦うなんて悪夢を見れば、汗ぐらいかくか」
顔を洗うついでに体も拭いておこう。そう思って寝間着を脱ぎ、下着一枚になる。
自室を出ると、そこには誰もいなかった。
「師匠? お出かけですか?」
マグテスの部屋をのぞいてみるが、もぬけの殻だった。
玄関に行くと、マグテスの靴は無い。そこにあったのは自分の靴と、見たことの無い三足の靴だった。
「客? いや、そんな記憶は無いけど」
いよいよ自分の記憶が信じられなくなってきた。
体を洗ったらもうひと眠りしようか。そう思いながら洗面所に向かうと、鏡の中に信じられない姿が映った。
「何だこれ……!?」
顔の半分が、見ず知らずの少年になっていた。よく見れば首の筋肉も落ちて子供のように細くなっている。
それだけではない。胸の片方は女性の乳房のように膨らみ、もう片方には女性の顔がうっすらと浮かんでいた。
手足を見れば、太さが二倍近くになるほど筋肉が盛り上がっている。太ももには初老の男らしき顔が浮かび、恨めしく睨むような目つきで自分を見上げている。
「あ……うあぁっ!!」
驚きと恐怖で鏡から目を逸らそうとする。しかし体が支配されているようにびくともしない。
「オレの体……」
「わたしの体……」
「俺の体……」
三つの顔がか細い声を上げる。
それと同時に、ロズの脳内に濁流のような記憶が流れ込んできた。誰かの日常の記憶、誰かの戦いの記憶、誰かの別れの記憶……記憶が流れ込むたび無理やりに感情が溢れてきた。
「あ……あはっ……うぐっ……ひっく……くうっ……」
ロズは次第に理解し始めた。
この記憶は、自分の体を支配する三人の記憶だ。ビブリアの守護者を生むために使われた三人の装者の灰……それらがロズという存在を塗りつぶそうとしている。そうなれば自分は死ぬか、全く別の存在になってしまうだろう。
それがわかっていても、ロズには為す術が無かった。自分の体が自分を拒否しているのだ。それに抗うということは、やはり自分を拒否することになってしまう。
「お……思い出した……ヌエが壊されたから……」
マグテスの義手の力で武器が破壊された。ヌエはロズの力を封じる依り代のようなもので、それが破壊されたことで一気に力が戻ってきたのだ。その反動がすさまじく暴走している……そう判断した。
「だからって、どうすれば……」
ロズにはどうすればいいかわからなかった。むしろ諦めかけていた。
自分ははじめから歪な存在だったのだ。それなら、この三人に体を明け渡してもいいんじゃないだろうか。そうすれば、暴走のリスクはあるものの、生まれたときのあの力を取り戻せるかもしれない。
「本当にそれでいいのか?」
遠くから誰かの声が聞こえた。どこか、いや、いつも聞いている声ではないか……しばらく考えて気付いた。自分の声だった。
「なぜ師匠がお前を殺させず、引き取ったと思う?」
「それは……」
「わからないか? そんなはずはないだろう?」
どこからか届く自分の声に促されて、ようやく思い出した。
師匠は装者としての生き方を教えてくれた。戦い方を教えてくれた。礼儀を教えてくれた。世界のことを教えてくれた。
いつか始末する相手にそんなことをしてくれるだろうか? いや、そんなことは無い。マグテスには彼なりの考えがあったはずだ。
「師匠は……俺が成長することを期待していたんだ。装者として、真の“ビブリアの守護者”として。俺が二度と力に溺れないように」
その答えを導き出すと、フッと笑う声が聞こえた。
「わかってるじゃないか。それじゃあ、最後に一つ尋ねる。お前は誰だ?」
「俺は、ロズだ」
「本当か? かつて猿と呼ばれた少年、蛇と呼ばれた女、虎と呼ばれた男……そうじゃないのか?」
「そうじゃない。俺は俺、ロズだ」
「そうか。そう思うなら、もう一度鏡を見ろ。答えはそこに映し出される」
ロズはぎゅっと目を閉じ、ゆっくり開いて正面の鏡を見た。
「……俺だ」
鏡には正真正銘、ロズの姿が映し出されていた。
胸の中心に淡い光が灯っている。それをつかむと、体が少しずつ透けていく。元の世界に帰るのだと悟った。
「最後に一つ言わせてほしい」
名残惜しそうな自分の声が聞こえる。
「おめでとう」
今のロズには、“自分の声”だと思っていた声の正体がわかっていた。
これは自分を形成する三人の装者の声が合わさったものだ。彼らの存在を認識し、受け入れ、自我を保つ。師匠の教えと数々の旅を経験して、ロズにはそれができるほどの器が完成していた。
「ヌエ第四の型“鵺の心”。師匠、手に入れました」
***
目を覚ますと、師匠が武器と義手を構えていた。一分の隙も無い、ロズを殺すためだけに完成された構え。しかしその表情は、いつも食事を共にするときのように穏やかだった。
「手に入れたのですね。君の本当の力を」
「師匠のおかげです」
覚醒したロズの目にはマグテスの力の流れまで見えていた。
あの義手はマグテスの力を限界以上に引き出す。死ぬまで。あの義手を開放するということは、ロズを始末し、自分もその後を追うことを意味していたのだ。
師匠の愛に涙をこらえながら、ロズは徒手で構えた。
「師匠。今までありがとうございました」
「楽しかったですよ、ロズ君」
二人が同時に跳ぶ。
振り上げたロズの右手と、マグテスの左手が激突した。
バキンッ!
肉と金属の拳がぶつかり合った結果、マグテスの義手が砕けた。金属の破片とボルトが周囲に飛び散り、戦いを見守っていた木々の幹に突き刺さる。義手に蓄えられていたマグテスの力も霧散し、周囲に血飛沫のような赤いもやが広がり、すぐに消え去った。
「師匠!」ロズは握りこぶしをほどき、くずおれる師匠の体を抱き留めた。彼の体はみるみる冷えていき、全身から血の気が失せていく。しかし、表情だけは幸福な夢を見るかのように安らかだった。
「ロズさん……」後ろからスクレが話しかける。「もう、泣いてもいいんですよ。強がる必要は、もうありませんから」
その言葉を聞いて、感情があふれ出した。
ロズは泣いた。天に向かって吠えるように泣き続けた。いつからか、スクレがすすり泣く声も聞こえてきた。
ビブリアの消滅も何もかも忘れて、二人はただマグテスのためだけに泣き続けた。




