六話【街を回ろう】
アパートの裏の駐車場にある白い軽自動車。それが五十嵐の車だった。中古で購入したうえに二十年近く乗っているため、かなりの年季を感じさせる。ただの脚としか見ていないのか、塗装の剥げやボディのへこみなどは一度も直していないらしい。ドアを開けば若干かび臭い空気が吐き出される。
その有様にスクレは眉をひそめていたが、初めて車に乗るというロズは目を輝かせていた。後でスクレに田舎者呼ばわりされてもかまわない。
「五十嵐さん! 俺、この車運転してみたいです!」
「待て待て、勝手に運転席に乗り込むな! お前さん、運転免許なんて持ってないんだろ?」
「運転免許? 誰かに許可がいるんですか? でも俺、大体の道具はすぐに使いこなせますよ」
「そういう問題じゃないんだよ。とにかくお前さんは助手席に座ってくれ」
「助手席? それはどこですか?」
「運転席の隣だよ! 念のため言っとくが、助手席だからって助手っぽいことはしなくていいからな。大人しく座っててくれ」
「む……そうですか。わかりました」
不承不承といった様子でロズは助手席に座る。シートベルトを締め、キョロキョロと窓越しの景色を見る姿は小さな子供のようでもある。
「嬢ちゃんは後ろの席でいいかい? 狭くって申し訳ないが」
「ええ、構いません。お気遣いありがとうございます」
「そうかい。よかったよかった」
五十嵐はスクレを車内にエスコートし、自分は社内に乗り込む。バックミラーの角度を調整すると、口元が緩んでいるスクレの顔がチラリと映った。
五十嵐とのドライブは有意義なものだった。
この世界のことを何も知らない二人からすれば、そこに生きる人々の姿を見るだけでも大きな刺激になる。食べたり、遊んだり、体験したりすれば最高だ。
五十嵐は二人のリクエストに快く応えてくれた。気になる店があれば立ち寄ってくれたし、わからないことを質問すればスマートフォンで調べてでも答えてくれる。(ロズとスクレはスマートフォンが何なのか最後までわからなかった)
五十嵐が二人の気晴らしのためにドライブを提案してくれたのは明らかだったが、それは見事に成功したようだった。ロズはどこに行ってもテンションが高かったし、はじめのうちこそ仏頂面を貫いていたスクレも、いつの間にか少女らしい笑顔を見せてくれていた。
彼女の機嫌がよくなってきたことにロズは安堵していたが、次第に別のことが気になっていた。
赤信号で止まるオンボロの軽自動車。その運転席に座る五十嵐の視線はせわしなく左右に動いていた。
その答えを知るのは夕食の後だった。
「五十嵐さん、こんな時間にどこかお出かけですか?」
部屋着だった五十嵐は、夕食を食べ終えてひと心地つくと、ドライブの時に着ていた外出着に着替えていた。
「ああ、ちょっとな。先に寝てていいぞ」否定はしないが曖昧な返答に訝しく思う。
思い切って、ロズは日中の五十嵐の不審な行動を指摘した。五十嵐はバツが悪そうに顔をしかめると「よく見てるじゃねえか」とつぶやいた。
「まあ、秘密にすることでもねえか。
ただ、夜の見回りに行くだけさ。昨日も話したけれど、野良の守護霊ってのは増加し続けているからな。もちろん、それがらみの事件も増えている。警察の手も足りてねえのよ」
「そこで、元警官の五十嵐さんの出番ということですか?」
「元警官っていうか、ただのお節介なオヤジというだけさ。町内の見回りをする程度のことだよ」
「その割には、随分緊迫した面持ちですよね?」
「……何が言いたいんだい?」
「よろしければ、俺もお手伝いしましょうか? あなたにはお世話になりっぱなしですから。あなたはきっと見返りなんて求めないんでしょうが、それじゃあ俺の気が済まないんです」
「……そういうことなら、遠慮なく手伝ってもらおうかね。お前さんもなかなか頑固そうな男だからな。
ところで、スクレの嬢ちゃんはどうするんだい?」
「えっ? あたしですか?」
「儂としては、ついてきても、この家に残ってもらっても構わんがな」
「どうする?」
五十嵐とロズの二人に尋ねられ、スクレはしばらく逡巡した後答えた。
「――あたしも行きます。ここでテレビを見ていても退屈ですし、夜の散歩も悪くなさそうですから」
時刻は午後九時を過ぎたあたり。夜回りに決まった時間は無いが、おおむね一時間は街のあちこちを歩き回るらしい。
五十嵐の暮らすオンボロアパートは市街地にあり、所狭しと住宅や小型の店舗がひしめいている。あちこちの窓からは四角く切り取られた光や、遅い夕飯の香りが漏れ出している。外を出歩く者はほとんどおらず、街全体が眠りにつく支度を始めているようでもある。
平穏な夜の景色を背景に、先頭を五十嵐が、その後ろをロズとスクレが並んで歩いている。ロズは「拍子木でも鳴らしながら歩くのか?」と思っていたが、実際は夜の散歩と変わらないものだった。時折人とすれ違うこともあるが、五十嵐の夜回りの習慣を知っているのか、軽く会釈して通り過ぎるだけだった。
しばらく歩くと、住宅地を抜け、商業施設が並ぶ大通りに出る。通りの中央は長さ約一キロメートルの細長い公園になっており、市民の憩いの場やイベント会場などになるとのことだが、今は数組のカップルがベンチでいちゃついている。この道を少し北に歩けば、あの巨大イノシシが暴れた現場がある。
「――どうです、五十嵐さん。何か変わったことはありますか?」何も起こらず退屈し始めたロズが尋ねる。
「いや、何にも。そもそも何か起きることが珍しいし、何も起きないに越したことは無いんだよ」
「それはそうですけど。何か起きる予感がするから、五十嵐さんもこんなことをしてるんじゃないんですか?」
「逆だよ。何も起こさないためにやってんのさ。人の目があるだけで犯罪の抑止力になるのさ。でもまあ、そこまで言うんなら……」
そう言うと、五十嵐は横道に足を向けた。明るく煌びやかな表通りから一本奥に入るだけで、その景色は一変する。妖しいネオンの光が瞬き、歩道にはゴミやたばこの吸い殻が放置されている。化粧のやたら濃い女たちが練り歩き、目つきの据わった男たちが歩行者たちに値踏みするような視線を向ける。
さらに一本奥の裏通りに行けば、もはや明かりはほとんど届かない。おまけに生ゴミから空き缶まで放置されており、懐中電灯でもなければ足をひねってしまいそうだ。
「儂としては、本当はこういう道を歩きたいんだがな。しかし、せっかくの客人を案内するには、この道はちょいと臭うんでな。特に、お嬢ちゃんみたいなべっぴんさんはな」
「は、はあ……」スクレが自分の頬に手を当てる。
「――さ、そろそろ帰ろうかいな。付き合ってくれてありがとうよ。退屈な夜回りが久々に楽しかったぞ」
「はい。お役に立てて良かったです」
周囲の好奇の視線からスクレを守るように、彼女の肩をそっと抱き寄せる。スクレもスクレでこの場の居心地が悪いのだろうか、大嫌いなロズに身を任せている。
「……なあ、何か臭わないか?」スンスンとロズの鼻が鳴る。
「し、失礼ですよ!」
「いや、お前のことじゃなくて……」
「それならゴミの臭いでしょう。あたしの鼻も曲がりそうなんですから」
「ん~、それもあるんだが……」
気にしつつも、大人しく五十嵐の後を歩いていく。五十嵐が何も感じなかったのなら、自分が感じた違和感も気のせいなのかもしれない。
あのイノシシと似たような獣臭さ。それはひとまず忘れることにした。