三話【ロズが生まれる日】
ある日の昼下がりの午後。マグテスは雑誌を読みながらくつろいでいた。テーブルには淹れたばかりの紅茶。開け放たれた窓からは近所の子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。
マグテスはとっくに引退した高齢の装者で、今は“彫師”として生活していた。装者は自身に刺青を彫ることで、その刺青に対応した物を体内に収納することができる。その刺青を彫る職業が彫師で、優れた彫師は刺青のデザインと機能性を両立することも、炎や水といった不定形の物に対応した刺青を彫ることもできる。
元々手先が器用だった彼は彫師としてすぐに大成し、今ではビブリア屈指の彫師として活躍していた。その人柄の良さから、特に子供と女性からの人気が高かった。
「おや?」
ティーカップを口に運びながら窓の外を見やると、敷地に何者かが入ってくるのが見えた。その後すぐに玄関のベルが鳴る。
「今日は休業日なのだが……休みの札をかけ忘れていたかな?」
申し訳ないが、休みの日はゆっくり休む主義だ。来客には悪いがお引き取り願おうと、ティーカップと雑誌を置いて応対に向かう。
玄関の扉を開くと、目の前に立っていたのは一人の精悍な顔つきの装者だった。どこかで見たことがあるが、客ではなかったはずだ。
しかしすぐに思い出した。ネイサの使用人の一人だ。
「マグテスさん、ネイサ姫があなたに助言を求めています。突然のことで申し訳ありませんが、城までお越しいただけませんか?」
その言葉が、ロズとマグテスの運命をつなぐきっかけだった。
「おお、マグテス。突然呼び出して申し訳なかったな」
「いえ、ネイサ様がお呼びとあればいつでも駆け付けます」
心の中では「代わりに明日を休みにしよう」と思っていたが、それは顔に出さないように振る舞う。
マグテスとネイサ、そして数人の使用人が彼女の居城の一室に会していた。部屋の中心には一脚のテーブル。天板には布をかぶせた何かが置かれていた。
「それで、私に助言を求められているとお聞きしましたが。私ごときがネイサ様のなさることに口を挟むなど恐れ多いことですが……」
「そう謙遜しなくていい。私など長く生きているだけで大したことは無い」
「いえいえ、そのようなことは……!」
慌てて否定するマグテスを見て、この世界の女王であるネイサは笑みを浮かべた。
「このままでは話が進まんから、要件を言うぞ。お前には新たな装者を生む際の立会人になってほしい」
「立会人……でございますか?」
「そうじゃ。ちなみに、装者がどうやって生まれてくるか、お前は知っているな?」
「ええ、もちろん」
装者と白本は灰から生まれる。
ビブリアと異世界をつなぐ混沌の炎の薪となるのは、主に亡くなった装者と白本だ。燃え尽きた灰は使用人たちの手で回収され、そこにネイサが力を加えることで装者か白本に変わる。そのため、ネイサはビブリアの住民全ての母親でもある。
「実は試したいことがあってな」
「それは何でしょうか?」
「新たな“ビブリアの守護者”を作る」
“ビブリアの守護者”それを聞いて思い出したのは、今では伝説として皆が知るシックザール=ミリオンという名の白本だった。アンサラーという名の本の虫からビブリアを守った英雄である。
若き日のマグテスもあの渦中の中にあったが生き延びた。しかし今でも、彼の脳裏には当時の凄惨な光景と阿鼻叫喚の悲鳴がこびりついていた。
「そういえば、今はビブリアの守護者と呼べる者が不在でしたか」
「うむ。あれだけの力を持った存在は、私でも簡単に作れはしない。かといって、いつまたアンサラーのような危険因子が現れるかも知れぬ。そこで思いついたのだ」
そう言って、彼の前でテーブルの上の布をゆっくり取り去った。
「これは!」
テーブルの上には、三つの器に盛られた真っ白な灰があった。
「少し前、同時期に三人の装者の遺体が薪に使われてな。それらが灰になったので回収した」
噂によれば、装者と白本とでは灰になった際の粒子の大きさに差があり、区別ができるのだという。ネイサであれば、目の前の灰が元々誰だったのかまで見抜くことができるのかもしれない。
「今まで私は白本をビブリアの守護者にしてきた。白本の体は手を加えやすく、特異な能力も足しやすかったからな。しかし白本の“本に成るために異世界で経験を積む”という本能までは今更変えられんし、多感な彼らはあまりにも不安定だ。あの子……アンサラーも元は守護者だったからな」
「つまり」マグテスがつばを飲み込む。「次は装者を守護者にしようと? この三人の灰を使って」
「そうだ。本当はもう少し灰を増やしたいが、何が起こるかわからないのでな。実験的に三人分に留め、万が一に備えて腕利きの装者に立ち会ってもらう」
「なるほど……」
最初から気付いていたが、ネイサの使用人以外にも名の知れた装者が部屋にいる。その理由をようやく理解した。
しかし老齢のマグテスに彼らほどの力は無い。ここでようやく自分が呼ばれた本当の理由がわかった。
「私の“彫師”としての力が必要ということですね」
「そういうことだ」
新たな守護者を作る儀式は今夜のうちに実行するとのこと。
他の装者たちと共にネイサから儀式の詳細を聞き、一旦準備のために自宅に戻った。
「これと、これも必要だな。念のために武器も……おっと!」
戸棚から刺青用の墨が入った瓶を取ろうとして、手を滑らせて落としてしまった。よく見ると、自分の手が汗でじっとりと湿っていた。
「うまくいくのだろうか……?」
どうしても嫌な予感がぬぐえなかった。
若かったマグテスは、シックザールとアンサラーの壮絶な戦いを目の当たりにしていた。それは一言で表すなら「怪獣のぶつかり合い」で、装者ですら介入できないほどの巨大な力が激突していた。
装者三人の灰を混ぜ合わせたところで、あれほどのことは起こらないだろう。そう思いもするが、何が起こるかはネイサですらわからない。
「私のこの手が必要にならないことを願おう」
墨で汚れた両手を見下ろしながら、そう願うしかなかった。




