三話【旅の終わり】
スウ――スウ――
テントの中でスクレの寝息が聞こえる。モーブはそれを確認すると、自分もようやく眠りについた。
クウ――クウ――
スウ――スウ――――カサ
彼の寝息を確認すると、スクレは嘘の寝息を止め、ゆっくり音を立てないように寝袋から這い出した。テントの入り口のファスナーをじりじり開け、半分ほど開けたところで体を潜り込ませ、どうにか外に出た。
スクレは非情な決断を下した。つまり、全てを知るモーブをこの世界に残し、自分一人でビブリアに戻ってしまう。そして異世界への旅をやめ、これ以上自分の身に物語を刻むのをやめてしまうのだ。
そのためには、まず彼から離れなければならない。栞を燃やす光が彼の目に映れば失敗だ。
「……このあたりでいいかな」
テントから百メートルほど離れ、さらに古ぼけた廃屋の陰に隠れた。これならどれだけ強い光を放っても心配ない。
「ごめんなさい、モーブさん。ビブリアのために許してください……」
心の中で精いっぱいの謝罪の言葉を述べながら、スクレはぎゅっと両手を組んだ。髪に結び付けた栞が激しく発火し、彼女の体を包み始める。
そのときだった。
「どこ行くんだよ!?」
肩が抜けそうになるほどの勢いで腕を引っ張られる。
目を吊り上げて怒りをあらわにするモーブ。栞の光に照らされる彼の顔は燃えるように赤かった。
「モーブさん、これには訳が……」
「どんな訳があれば俺を置いてくって結論になるんだよ!」
「それは、でも……あたしが本に成ってしまったら、ビブリアがなくなるんですよ!」
「それがどうした! これ以上の手柄は無いっていうのに、お前はそれを手放すのか? それとも独り占めする気か!?」
その言葉に、彼女は生まれて初めて本気で怒り、我を忘れた。
「そんなんじゃ」栞の炎が一層強まる。「ありません!!」
突然の大声にモーブの力が緩む。彼の手をほどき、足蹴にして距離を取った。その数秒の隙に白い炎は彼女の体を包み、モーブを残して世界から消え去った。
「――ハア――ハア」
ビブリアに戻ってみれば夜だった。夜風は心地よく涼しいが、全身からはとめどなく脂汗がにじみ出てきた。
「あ……これ」
ぎゅっと握りしめた左手の中には、モーブがはめていた指輪が収まっていた。彼の手を振りほどいたときに抜けてしまったようだ。
「ごめんなさい、モーブさん……ごめんなさい……ごめんなさい…………」
指輪を両手で包みながら、東の街にある自分の函へと帰っていった。
この数日後、スクレはフリーの装者たちに依頼し、本の虫たちが住む西の村へと函を移した。その頃には、彼女の頭頂部からは黒い髪が伸び始め、作業に当たる装者たちを驚かせた。
「……そんなことが」
ロズは自分の首から提げた指輪を握りしめた。彼女を無理やり外に連れ出すために、大事そうにしている指輪を悪いと思いつつ拝借した。しかしまさか、そのような過去が絡んでいたとは想像もしていなかった。
「すまなかった!」彼女の正面に立って頭を下げる。「ただの高価な指輪とか、そんな風にしか思ってなかった! すぐに返す」
「いえ、もういいんです」
「えっ?」
「その指輪は、あたしの罪の印……自分で自分を縛り付けるための鎖に過ぎませんでした。もう本に成る条件を満たしてしまった以上、それを返してもらう理由はありません」
「罪の印なんて!」彼女の細い肩に手を置く。「俺にとってはお前との絆の印みたいなものだ! お前のやったことは残酷かもしれないが、ビブリアの存続を真剣に考えた末の結論なら、俺は否定しない! 言っただろ、俺はずっとお前の味方だって!!」
ロズのまっすぐな言葉をぶつけられ、スクレは瞳から涙を溢れさせて微笑んだ。
「それなら、あたしを殺してください」
いつかの国で彼女が囁いた言葉をもう一度聞いた。
「話した通りです。あたしがビブリアに戻れば、ネイサ様が放っておくはずがない。きっと逃げることもできず本にされて、人間になる方法を知られてしまう」
「だからって、そんなこと……」
「ヘルティク夫妻の栞ように、特定の世界を選べる栞も近いうちに制作方法が広まるはずです。そうなれば、誰かがあたしを追いかけてくるかもしれない。ネイサ様が人間になるのを遅らせる最良の方法は、あたしを“処分”してしまうこと。
ロズさん、あなただってビブリアが消えるなんて嫌でしょう?」
「それは……」
彼女の言葉に、自分の意識がビブリアに飛ぶ。愛するネイサ姫、尊敬する師匠のマグテス、自分を生み育んできたビブリアという世界……その全てとネイサが天秤にかけられた。
スクレ自身がここまで言ってるんだ。ここで彼女を処分すればビブリアの安泰は続くし、マグテスにいくらでも恩返しできる。自分も装者として名を上げるチャンスがいくらでもやってくるじゃないか。そんな悪魔の囁きが直接脳に滑り込んでくる。
俺は馬鹿だ。ロズは改めて気づかされた。
今までスクレを守ると何度も宣言してきた。しかしそれは、現実を受け止められない幼稚な自分をごまかすための方便だった。こうしてビブリアの消滅が目前に迫ると、その現実感に途端に押しつぶされそうになる。
スクレは死んでもいいと覚悟している。それに対して俺は……!
気にしすぎだ。出会って一年程度の間柄じゃないか。
俺は彼女を守るって誓ったのに!
その彼女が死にたいと言ってるんだ。誰も責めない。若い過ちだよ。
誠実な自分と打算的な自分がぶつかり合う。薄っぺらな自分は風に飛ばされそうだった。
「大丈夫。あたしはここで死んじゃうけれど、あなたはビブリアに帰してあげる」
スクレは背を向けると、無防備な首筋を晒した。
「だから、ね。あなたは自分のやるべきことをやって。そして、立派な装者になってください」
どうしてこうなってしまったんだろう。
後ろからスクレの細い首に指をかけ、他人事のようにそんなことを考えていた。
確かに彼女の味方であると誓ったはずだ。彼女を守ると心に決めたはずだ。
だったら、この両手は何なのか?
いや、理由はわかっている。ただ認めたくないだけだ。
だって、そうだろう? 文字通り、俺の両手に一つの世界の命運が託されてしまったんだから。
なんてありふれた展開。
“世界を守るか。愛する人を守るか”創作の中で何度も見てきた展開に自分が放り込まれてしまうだなんて、今の今まで思いもしなかった。
「いいよ、あたしを殺して。あなたの手にかかるなら、それでいい」
スクレの声が突き刺さる。自分はこんなに震えているというのに、彼女の声は凛としている。覚悟を決めた声だ。
だけど彼女の表情を覗き見ることすらできない。これ以上感情が揺さぶられたら、自分というものがバラバラに砕け散ってしまいそうだから。
「どうしたの? あたしのことなら、気にしなくていいのよ」
やめてくれ。もう、これ以上しゃべらないでくれ。
頭の中に天秤が浮かぶ。片方にはスクレが、もう片方には無数の人々が乗っている。
二つは上下に揺れながらも釣り合っている。それが揺れて、揺れて、揺れて――皿の上からこぼれ落ちてしまいそうだ。
「あぐっ」
揺れる心が無意識に指先に力を籠めさせる。数々の敵を葬ってきた指先が、今は彼女の首に食い込み始めている。
なんて細いんだ。世界の命運って、こんなにか細くていいのか?
息苦しさにスクレが咳き込むが、指の力は緩まない。じわじわと彼女の命を締め上げていく。
「ごめん……ごめん……。約束を守れなくて、ごめん……」
遠くで獣の咆哮が聞こえる。それは実在する獣なのか、俺の体に潜む獣なのか。
ここは赤い世界。二人の旅は、ここで終わりを告げる。
「何をしているんですか?」
背後から女性の声が聞こえたかと思うと、横から伸びた手がロズの手首をつかみ、放り投げた。七〇キロ近い体が宙に浮かび、受け身もとれず地面に激突する。
チカチカする視界の中央に映る女の姿を見て、ロズは言葉を失った。
「装者が主人である白本を手にかけるとは、理解できませんね。そこにどんな事情があるにせよ」
この女は、確かに“装者”や“白本”という、ビブリアの住民しか知らない単語を口走った。それに、体中に彫られたシンボリックな刺青は間違いない。
「あんた……装者なのか?」
女はうなずいた。
「『あんた』はやめなさい。私には“アルメリア”という名前があります」




