一話【最後の旅へ】
「ハアッ!」
「フンッ!」
師匠の木刀の一撃を弾き、すかさず得物の先をのど元に突き付ける。
弟子の鋭い一撃を前に、師匠は笑顔で「参りました」と降参した。
「たった一日ですっかり快復しましたね。相変わらず頑丈な体で、この老体には羨ましいですよ」
「何言ってるんですか、師匠はまだまだお若いですよ! それに、俺の体調のことを考えてちょっと手加減してくれてたでしょう?」
「はは……君も随分洞察力が磨かれましたね。やはり、装者は仕事をするのが一番の鍛錬になる」
「はい、俺も実感しています! もちろん師匠の教え方が上手いというのもありますが」
「まったく、今日のロズ君は随分おだて上手ですね。
それはそうと、今日の内に出発するんでしょう? スクレさんを待たせても悪いですし、そろそろ準備してはいかがですか」
「はいっ! すみませんが、お先にシャワーいただきます!」
ヌエを刺青に収納し、飛び込むように家の中に戻っていった。
「――色々不安でしたが、ロズ君は上手くやれているようだ。良かった……いや、本当に良かった……」
マグテスは目を細めながら、ズズッと鼻水をすすった。
準備を終え、マグテスに行ってきますを言い、ロズはスクレの函に向かった。スクレたちが命がけで持ってきてくれたという聖水の効果は抜群で、体は羽のように軽い。しかし、気分は若干重かった。
「これで、あいつともお別れか」
スクレは聖水を手に入れる過程で本に成る条件を満たした。その現場に居合わせることができなかったのが心残りだった。加えて、シゾーという危険な相手を前に倒れてしまうという醜態をさらしてしまった。装者として最も恥ずべきことだった。
「……まあ、過ぎたことは仕方ない。本に成る前に、こうして最後の旅に出るんだし。結果的にはスクレを守れたんだから、次の白本に仕えるときに気を付けよう。俺はまだ若いんだし」
なんにせよ「白本を本にする」という装者最大の目的はもうすぐ達成できる。その事実でどうしてもニヤけてしまう。初めての任務が引きこもりのスクレの従者という点は不安で仕方なかったが、今はこの世界に生まれて最高の気分だ。
そんな気分のまま歩いていると、すぐに彼女の函に着いた。いつもの、つばの広い帽子をかぶった少女が函の前で待っていた。
「よっ、スクレ!」
「あっ、ロズさん……」
帽子の影のせいか、彼女の表情は白本の使命を果たしたとは思えないほど暗かった。
「なんだ、やけに暗いな。俺を待ってるうちに気分でも悪くなったか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「そうか? それじゃ、さっそく行くぞ!」
うつむくスクレの手を引き、ロズたちは混沌の炎へと向かった。
気がかりなのはもう一つ。彼女は事あるたびに「自分はビブリアを滅ぼす存在」だと言ってきた。その件も決着をつけるとみて間違いない。
それでもロズは「何も起きないよな」「何か起きても、今まで通りどうにかなるよな」と楽観的な気持ちが勝っていた。
スクレとこれまでの旅の思い出話をしているうちに混沌の炎に着いた。二人の気持ちなど関係なく、この日も巨大な白い炎はゴウゴウと天に向かって燃え盛っていた。
彼女と共にこの炎で焼かれるのも、きっとこれが最後になる。
「準備はいいか?」
「はい。いつでも」
黒から銀にグラデーションを描く艶やかな髪に、一房だけ色の違う栞が混じる。彼女と初めて異世界に飛んだときと同じ色の栞だ。
「ロズさん」
スッと彼女の右手が伸びる。左手で手を握ると、悲し気な笑みを浮かべた。
「行くぞ」
「はい」
炎の中心に続く石橋を一歩一歩踏みしめ、ゆっくりと体が炎に包まれる。パチパチと体の表面が弾ける感覚の中、繋いだ手はいつまでも柔らかかった。
「わあ……綺麗」
「ああ。これはすごいな……」
二人が降り立った丘からは、燃えるような夕焼けが一望できた。この世界が炎に包まれていると言っても過言ではない光景に、二人はしばし言葉を失った。
「今まで景色の良い世界はいくつもあったが、夕焼けに関してはダントツだな」
「ええ。本当にそう思います」
二人はそれ以上言葉を交わすことも無く、ただぼんやりと沈みゆく大きな太陽を眺めていた。
話があるんじゃないのか? そう思いもしたが、彼女は時折髪を直したり、茜色の空を横切る鳥たちを眺めたりして、話し始めるのを避けているようでもあった。
ロズとしては、それでいいと思った。彼女と別れたくない……本気でそう思い始めていた。それなら、数分――数秒でも長く一緒にいたい。それも、誰にも邪魔されない場所で、誰も汚すことのできない景色を眺めながら。
「あの……あたし……」
しかし、その願望はスクレの言葉で終わりを告げた。
いや、これでいいんだ。ロズは目を閉じて頷くと、視線を夕焼けに留めたまま彼女の話に耳を傾けた。
「これが最後なので……すべてお話します。あたしの過去のこと。そして、これからのことを」




