【取り残された国2】
その日の夜、シゾーとニーニャはカフェの女性店員に教えてもらった街はずれの高台に赴いた。崖から駆けあがってくる風が二人の髪をふわりと持ち上げる。
「精霊! 精霊さん!」
ニーニャが両手で街のあちらこちらを指差す。
日が落ちて夜も更けてくると、街からは精霊病末期の人間たちが夜空に向かって浮かび上がっていた。
精霊病は高齢者が罹ることが多いらしい。そのため患者の家族によっては、無理に人間に戻す儀式を行うことはせず、そのまま家族を送り出すことも多い。近くから浮かび上がった精霊病患者の顔を見ると、その表情は心地よい夢を見ているかのように安らかだった。
「なあ、ニーニャ。お前は人間になりたいか?」
隣ではしゃいでいる機械の少女に呼びかける。
「人間に?」
「そうだ。僕も純粋な人間じゃないけど、機械の体よりはずっと刺激的だと思うぞ。せっかくあの息苦しい世界から抜け出したんだ。どうだ?」
「んー……」
口元に指を当てて考え込む。最近は仕草が随分人間らしくなってきたなと思った。
「ニーニャは今の体のままでいい。ニーニャはドジだから、人間になったらすぐに死んじゃうと思う。それに、ニーニャは自分の体が嫌いじゃないから」
「ふーん、そっか。まあ、人間の体になるには人としての魂が必要らしいから、機械のお前じゃ最初から無理っぽいけどな」
「そーなの?」
「たぶん。ひょっとしたら、機械にも人か、人に近い魂が宿るかもしれないけど」
「……よくわからない」
「僕もよくわからない。魂が実際に目で見えればいいんだけどな」
正直なところ、シゾーは魂の有無も、人間になれるか否かも興味がなかった。目に見えないものはどうでもいい。人間が特別良い生き物とも思えなかった。
だけど、たしかビブリアの女王は人間になるのが目的でビブリアを作ったのではなかったか。尊敬するアンサラーが暴いた事実だった。
「僕には理解できないな。あの女は昔何があったんだか……」
「キャッ!?」
「ニーニャ!?」
唐突なニーニャの悲鳴。
慌てて振り向くと、彼女の小さな体は謎の男に跳ねのけられていた。外見は筋肉質な若い成人男性といった風だが、目を引くのは彼の体中に彫られたシンボリックな刺青だった。
「装者……!?」
驚いている暇もなく、突如現れた男はシゾーに向かって突進する。眼前に迫ると瞬く間に両手を捻り上げられ、地面に組み伏せられた。力の差は歴然で身動きが取れない。
「お前……装者だろ? 急に何をするんだ」
「悪いな、驚かせて。俺の要求を聞いてくれれば乱暴はしない」
言葉とは裏腹に謝罪の気持ちは感じられない。むしろシゾーには、自分と同じ雰囲気を男の声から感じていた。
「要求は一つ。『俺をビブリアに連れていけ』それだけだ。簡単だろ」
なるほど、そういうことか。シゾーには得心がいった。
この男は白本に置き去りにされた、もしくは白本をこの世界で失ったというわけだ。ビブリアと異世界の移動ができるのは白本だけ。きっと自分のような白本が現れるのを待っていたのだ。
「事情は察しましたよ。でも、それならこんな手荒なことをせずに、丁寧にお願いすればいいんじゃないですか?」
「俺もそうしたいところだが、白本を前にすると冷静になれないのでな」
どうやらこの男は前者で、置き去りにされたらしい。その怒りをシゾーにぶつけているのだ。
シゾーは「面倒だな」と思った。馬鹿正直に言いなりになれば、ビブリアに着いた瞬間に殺されるおそれがある。
「うあーっ!」
気の抜けた叫びと共にニーニャが突っ込んできた。しかし彼女が体当たりしても、ポカスカと叩いても男には通用しない。
「さっきから、この女の子は何だ? さっき触れた感じ機械っぽかったが」
彼女の攻撃は微塵も効かなかったが、男の気を一瞬逸らすことができた。
今だ。シゾーは捻られた右手の平を男に向けると、腕の中に収納されている呪剣を突き出した。
「つっ!?」
刃の切っ先が男の腕に小さな切り傷を付けた。それで十分だった。
グリジャグルは呪いの剣。たとえかすり傷でも、刃に施された呪いが傷口から侵入し、対象の体の自由を瞬く間に奪ってしまう。
「な……何だ……? お前の体は……」
強制的に脱力された男は崩れ落ち、シゾーの拘束も容易く解けた。地面に突っ伏してしまった男を、なおもニーニャがポカスカと叩き続けている。
「形勢逆転だな。僕は誰かに指図されるのが嫌いなんだよ」グリジャグルの刃を仕舞い、続いて左手から炎剣の刃を突き出す。「運が悪かったね。僕は装者が大嫌いだし、お前のことはもっと嫌いになってしまった」
「ま、待て! 待ってくれ! 俺は本当にビブリアに帰りたいだけなんだ!」
男の嘆願を気にせず刃を近づける。
「お前……何となくわかるぞ! 俺と同じ、誰かを憎んでるんだろ? 実は俺も、どうしても殺してやりたい奴がいるんだ!」
シゾーの動きが止まる。彼の言葉に耳を傾けたくなった。
「やっぱり図星なんだな? お前の目を見たときから感じてたんだ」
「無駄話はいいからさ、お前の話を聞かせろよ。すぐに口も動かなくなるぞ」
「あ、ああ……わかった」
自分より一回り小さいシゾーに怯えながら、男は事情を話し始めた。
「俺の名前はモーブ。新人の装者だ。お前も察してるだろうが、俺はこの世界に置き去りにされちまったんだ。よりにもよって初任務で、こんな湿気た世界によぉ……」
「それじゃあ、殺したいってのは主人の白本のこと?」
「ああ、そうだ! 早くしねえと、あの女は本に成っちまうか、どこか別の世界でくたばっちまう。そうなる前に、俺の手で八つ裂きにしてやりてえんだ!」
男は唯一動く顔を真っ赤にして怒りをあらわにする。
この男の怒りは本物だ。そして利用できそうだ。シゾーはそう考えた。
「ちなみに、その白本っていうのはどんな女なの?」
その質問の答えは意外なものだった。
「スクレ=ヴェリッタって地味な女だ! って言っても、お前は知らないだろうが」
「スクレ……だって……?」
シゾーはすぐに思い出した。少し前に訪れた世界でロズという装者に腕をちぎられたが、その男の主人の白本がスクレだったのではないか。
「ねえ、モーブ」
「な、なんだ?」
「実は僕も、その女と従者にはちょっと用事があるんだ。僕に全面的に協力するというのなら、呪いを解除してビブリアにも返してあげるよ。どう?」
「わかった。手を組む」
「即答だね。裏切ったりしない?」
「ほ、本当だ! よっぽど無茶な命令じゃなきゃ従う!」
「オッケー。今度僕を襲ったら燃やすからね」
シゾーは右手の刃を出し、バツ印を描くように小さな切り傷にもう一筋の傷を増やした。これがグリジャグルの解呪方法で、体の感覚が戻ってきたモーブがゆっくり起き上がる。
「それじゃあ、ビブリアの前に僕の国に寄りましょうか。ニーニャ、帰るぞ」
「う、うん……」
ニーニャはすぐさまモーブから距離を取り、シゾーの背後に隠れてしまった。
「嬢ちゃん、悪かったな。許してくれ」
「…………」
頭を下げて謝るが、彼女はそっぽをむいて膨れるだけだった。
「やれやれ。俺は女の子に嫌われる運命らしい」
「どうでもいいから、さっさと僕の体に触れて」
二人が肩に手を乗せたのを確認して、栞を燃やして繭の国に帰還する。
ビブリアを中心に役者がそろいつつあった。




