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黒髪に秘めたスクレ=ヴェリッタ  作者: 望月 幸
第四章【祝福の国】
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七話【スクレの勇気】

挿絵(By みてみん)

***スクレ視点***




 ボートで祭壇に近づくにつれ、スクレは人知れず嫌な予感を覚えていた。予感の正体は、二人が潜っていった直後に姿を現した。


「あれが……悪魔ディーモン……?」


 ピラミッド状の祭壇の裏側から、地を這うように巨大な細長い生き物が現れた。黒く細長い体に、コウモリの翼のような無数のひれ。

 そして体の一か所だけ、鱗が剥がれて傷跡が見える。マハドが初めて襲われたとき、咄嗟に銛で突き刺した傷に違いない。


「いけない、早く二人に知らせないと!」


 非常時には鐘を鳴らして知らせる。その取り決め通り鐘楼の鐘を鳴らそうとして、彼女の動きが止まった。


「……もう一匹いる?」


 人の目を気にしてひっそり生きてきたスクレは、いつの間にか生き物の気配を察知する術に長けていた。その感覚が、目の前のディーモンと酷似した気配を察知した。まず間違いなく、もう一体は保管庫に潜んでいる。

 ボートの上でスクレは立ち尽くした。あの二人では一匹だけでも勝ち目が無さそうなのに、二匹も現れたのでは絶望的だ。鐘を鳴らす鳴らさないの問題ではない。


「逃げ…………」


 自分一人だけ逃げ出すのは簡単だ。髪に結び付けたスピンを燃やせば、たちどころにビブリアに帰ることができる。


 バシャン!


 しかし、スクレは飛び込んだ。

 傷のついたディーモンが視線を向ける。水中で鈍く煌めく眼光に射竦められ、お守り程度に持ってきた手銛をぐっと握る。

 体の半分が紙でできている白本の彼女にとって、大量の水は毒に等しい。体に染み込めば肌は醜く爛れ、さらに深く染み込めばバラバラに分解されてしまうこともある。手足を失ったところで白本は死なないが、全身に水が染み込めば正気を保つことはできない。

 それを重々承知したうえで、彼女は飛び込んだ。


「あたしは、ロズさんを助けるためにまだ何もやっていない。そんなあたしでも、囮になるくらいなら……!」


 ディーモンを倒すことはできないが、二人が聖水を持ち帰れば勝ちだ。それまでのせいぜい二分、相手の気を逸らすことができればいい。


 ディーモンは五メートルほどの長い体をくねらせながら、保管庫の入り口を見張るように悠々と泳いでいた。接近するスクレを時々威嚇するように睨むが、全く脅威と感じないのかそれ以上のアクションを起こさない。

 チャンスだ。右手に握った手銛を前方に構える。非力な自分では手銛の威力を百パーセント発揮できないが、十分に接近し、あの傷跡を狙えば致命的な傷になるはずだ。

 ついに距離は二メートルほど。ディーモンの首の下、傷跡に銛の穂先を向ける。


 ゴウン!


 突如ディーモンが大きく体をくねらせた。それに巻き込まれる形で周囲に複雑な水流が発生し、水に揉まれてバランスを崩す。たまらず手を離したことで銛が発射され、手からすっぽ抜けてしまった銛は水底に沈んでいく。

 唯一の武器を失ったスクレに、彼女を敵と認識したディーモンが迫る。瞬く間に彼女の体は鞭のような体に締め上げられ、手足はピクリとも動かせない。声にならない悲鳴を上げ、口から大量の空気が絞り出される。


 痛い! 怖い! 苦しいっ!!


 一瞬で恐怖に支配される。自分の蛮勇を後悔した。

 それでもスクレは構わないと思った。自分にできるのは、こうして時間を稼ぐこと。どれだけ泣こうが、どれだけ後悔しようが、時間は無関係に過ぎていく。これがスクレの戦い方だった。

 彼女の目の前でディーモンが大きく口を開く。頭から飲み込まれれば、自分の命も時間稼ぎも終わってしまう。


「もう少し……あともう少しだけ時間を……!」


 鋭い牙をむき出しに迫るディーモンの首を前に、スクレはどうにか拘束を抜け出そうと渾身の力を振り絞った。


 ズルン


 スクレの左腕が肩から抜け、間一髪回避した。体に水が染み込んだことで間接が脆くなったのが幸いした。さらに幸運なことに、ディーモンは自分で自分の体に牙を突き立ててしまい、悶絶している間に拘束がほどけた。


「苦しい……もう、限界……」


 これ以上息が続かない。千切れた片腕は放棄し、必死でボートに戻ろうとする。

 しかしディーモンは逃がさない。体から赤い血を噴き出しながら、自分を翻弄した小娘を飲み込まんと迫る。その速さはスクレの約三倍。


「神様……どうか……助けて……!」


 この世界の神様でも、ビブリアの神様でも何でもいい。不格好に手足をバタつかせながら祈った。

 そして、祈りは通じた。


 ズドン!


 空から何かが降ってきた。

 ほぼ垂直に落ちてきた“何か“は激しい水しぶきを上げながら水中に突っ込み、ディーモンの体を中心から真っ二つに切り裂いた。赤い血を水中にまき散らしながらもがき続け、やがて完全に動かなくなってしまった。


「あれは……!」


 こと切れたディーモンの真下で、ネグロが身の丈もある大剣を水底に突き立てていた。彼が現役時代に愛用していた、多くの敵を葬り、多くの白本たちを守った大剣だ。

 ネグロは刺青に大剣を収納すると、魚のように軽やかな泳ぎでスクレの腕を回収し、次いで彼女の手を引いて浮上した。


「ぷはっ! はあっ――はあっ――」


 潜水時間は一分にも満たなかったというのに、数日振りに呼吸をした気分だ。

 酸素を取り込み、ぼやけていた視界が鮮明になっていく。ボートのへりにつかまる自分の手はボロボロにふやけており、醜い怪物のようであった。きっと顔も二目と見られないほど醜くなっているだろうから、怖くて水面も見られない。


「祈るなら、神様ではなく儂に祈ってほしかったな」


 先にボートに上がっていたネグロに手を借り引き上げてもらう。

 ボートの上には気絶したマハドと、聖水が入っているであろう瓶が何本も置いてあった。お互い酷い目に遭ったようだが、目的は達成したのだ。


「聖水、手に入ったんですね。良かった……」

「儂も感謝している。もしもお前さんがもう一匹のディーモンを引き付けてくれなかったら、不意打ちを食らってやられていたかもしれん。こんな老いた体では、水中で剣を振ることもできんからな」


 逆に言えば、若い頃はできたということか。つくづく規格外の装者だと苦笑いが漏れた。


「それにしても、見直したぞ――スクレ。儂はついさっきまで、お前さんは世間知らずの無力な小娘だと思っていた。しかし今のお前さんの姿は、昨日までの姿よりも輝いて見えるぞ」


 優しい言葉と共にスクレの頭を撫でた。わしゃわしゃと骨ばった手で乱暴に撫でられるたび、彼女に目に熱いものが込み上げてきた。ロズとは別種の、大きく温かい光に包まれている気分だった。


「さて、まだ時間はある。とりあえず日向ぼっこでもしながら体を乾かして、その間にお前さんの腕を縫い合わせるか」

「はい、お願いします―――あっ!」


 突如、スクレの体が激しく発光し始める。見る見るうちに爛れた肌が滑らかになり、髪も服も瞬く間に乾いていく。


「これはまさか――そうか。儂も久しぶりに見たな」


 ネグロが手にしていたスクレの片腕がふわりと浮き上がり、彼女の肩にすっぽりとはまる。すぐに傷口は見えなくなってしまった。


「ネグロさん! あたし、一体どうなって――?」

「大丈夫だ。君自身、何が起きているのかわかっているはずだ。そうだろう?」


 スクレの体の中から文字があふれ出す。文字は肌を滑走路にして宙に飛び出し、魚群のように彼女の周りを縦横無尽に飛び回る。動揺する彼女の前で文字たちはくるりと反転して肌の内側に戻っていく。

 やがて体の発光も収まり、元の綺麗な体に戻ったスクレはネグロに答えを確認した。


「あたし……成っちゃったんですか? 本に……」

「いや、まだだ。今の君は、本に成れるだけの経験を積み重ね、その資格を得た状態だ。実際に本の形になるためには、まずネイサ様にお会いしなければならない」


 白本は経験を文字という形で自分の体に刻んでいく。それがいっぱいになる――つまりノルマをこなすと、念願の“本”に成れるのだ。


「しかし、君はおかしなことを言うな。『成っちゃった』とは、まるで本に成るのが嫌だったみたいだ」

「そ、それは……もう少しいろんな世界を見て回りたかったので……」

「そうか。すぐに本に成る必要はないが、あまり時間が経つと本のヴルムに成ってしまうぞ。

 それに、本に成る資格を得た事実はネイサ姫も感じ取っている。悠長にしていると強制的に連れていかれるかもしれないから、自分から城に行くことを勧めるが」

「は、はい……わかっています」


 本に成る――それは全ての白本にとって至高の目的だったが、スクレは例外だった。

 なぜなら、自分が本に成ることはビブリアの消滅を意味するからだ。


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