六話【悪魔襲来】
ネグロとマハドが保管庫の扉を開けようと奮闘していた頃、スクレは周囲に視線を巡らせつつ、自分の過去の経験を反芻していた。あの国ではあんな楽しいことが――あの国ではとても辛いことが――記憶力に優れる白本ゆえ、つい先日のことのように鮮明に思い出すことができた。
“あの世界での出来事”を理由に引きこもり、しばらく異世界への旅を中断していたが、ロズに引きずり出されたことをきっかけに再開してしまった。
本能で感じる。もうすぐ自分の旅は終わるのだと。そうなったら、自分は、ロズはどうなるのか? もはやスクレには予想もできなかった。
「……い……レ。スクレ!」
ハッとして見下ろすと、ボートの縁に骨ばった褐色の指をかけ、ネグロが何度も声をかけていた。
すぐに二人に手を貸すと、彼らから今日の成果を聞いた。どうやら聖水まであと一歩らしい。
帰りのボートの上で、スクレは「これが最後の旅になるかもしれない」と思っていた。
祝福の国に着いて四日目の朝。聖水回収の目途が立ったため、この日は今までに蓄積した疲れを落とすようにゆっくり休み、三人は昼前に出発した。モーターボートの上から眺める水浸しの国も、もうすっかり見慣れた光景だった。
「さあ、最終日だ。最後まで油断せずに行くぞ」
「はい!」
「任せてください」
いつの間にかリーダーを務めていたネグロが士気を上げる。マハドはボートを祭壇近くの鐘楼に係留し、ネグロと共に服を脱ぐ。スクレは保管庫が見下ろせる位置で周囲を警戒する。
「スクレ、行ってくる。順調に行けばすぐにでも聖水を持ってこよう」
「はい。よろしくお願いします!」
水に飛び込む二人を見下ろしながら、スクレは心の底から安堵していた。
***ネグロ視点***
ネグロとマハドは手銛を片手に水に沈んだ街を潜り、昨日開けておいた保管庫の岩の扉に滑り込む。
光がほとんど届かない室内を懐中電灯で照らす。ひょっとしたら身を潜めていた盗人が荒らしているかもしれないという危惧もあったが、昨日と変わった様子は見受けられなかった。
二人は保管庫の隅に置いてある箱の前に移動する。ネグロは南京錠をつかむと、その鍵穴に一本の針金を挿入した。鍵が見つからない以上、この方法で解錠するしかない。
隣のマハドは不安そうに見守っているが、ネグロには自信があった。運次第だが、鍵が錆び付いていなければ一分も経たずに開けられると。
カチャ
確かな手ごたえが伝わってくる。
錠を抜き取って蓋を開けると、中には陶器のような円柱型の瓶が隙間なく詰まっていた。一本抜き取って振ると、中からちゃぷちゃぷと水の感触が伝わる。マハドに手渡すと、「確かにこれです」と言いたげに首肯している。
たった一回の潜水で聖水が手に入った。その安堵感か、老化による衰えからか、ネグロはその存在に気付くのが一瞬遅れた。
ドンッ!
音もなく忍び寄った何かがネグロを壁に叩きつけた。苦痛と共に口から大量の空気が漏れ出す。
「これが……悪魔か!?」
蛇のような細長い体に、コウモリの翼のような無数のひれ――マハドの話と違わぬ不気味な生物が、目の前を優雅に体をくねらせながら泳いでいた。
相手の出方をうかがっていると、ディーモンは二人の間をすり抜け、聖水の箱の前に躍り出た。切れ長の鋭い目が二人を近づけまいと牽制している。
「……そうか。そういうことだったか」ネグロの顔が歪む。
マハドは「ディーモンは祭壇の近くに現れる」と言っていた。それはなぜか? 聖水が目的だったのだ。
おそらくディーモンは嗅覚か何かで、聖水が収められている場所を知った。聖水の高い治癒効果は人間以外にとっても効果的な薬なのかもしれない。しかし保管庫の扉は厚く重い。通り抜けられる隙間もない。
だからディーモンは待っていたのだ。誰かが扉を開けるのを。
そしてついに、昨日ネグロとマハドは扉を開けた。人間たちが去っていったのを見計らい、中に潜り込む。しかし再び困ったことに、今度は錠付きの箱が立ちふさがる。だからディーモンは暗闇に潜み、誰かが鍵を開けてくれるのを待っていたのだ。
「……儂も鈍ったな。体の衰えより、頭の衰えのほうがショックを受けるものだ」
ネグロが呑気に顔の皺を伸ばしていると、ディーモンが動き出した。
「ひっ、ひいっ!?」
用済みになった人間を始末せんと、鞭のようにしならせた体をマハドに巻き付ける。マハドも決して貧弱な体ではないが、どれだけもがこうと拘束は緩まない。ギチギチという音が水を通して伝わってくる。
持ち上げた鎌首が真正面から彼を睨む。マハドは恐怖と痛みで失神し、開いた口から吐き出す泡も小さい。
「お前さんの知能には少し驚いたが、所詮は本能の獣だな。儂のような骨と皮と義足の老人より、食べ応えのありそうなそいつを先に選んじまった」
ディーモンが口を開く。恵まれた体格のマハドですら易々と飲み込む、赤黒い穴が迫る。
バシュッ!
開いた口に過たず手銛を放つ。ゴムの弾性で銃弾のように弾かれた銛はマハドの頬を掠め、ディーモンの上あごから脳天を貫く。懐中電灯の光の中で、水が瞬く間に赤く染まっていく。
「お互い、見た目で判断してはいかんということだな」
まだマハドの拘束は緩まない。とどめを刺すべく、彼が持ってきた手銛を握り、穂先を再び口内に向けた。
「じゃあな。悪魔の名は伊達じゃなかったぞ」
バシュッ!
口の中に二本の銛を食らい、さしもの悪魔もついに息絶えた。マハドを引っ張り出した頃には、ネグロも息が続かなくなっていた。片手に懐中電灯を、片手に自分より大きな男を抱え、ひとまず水上に戻ることにした。
「……?」
違和感を覚え、動かなくなったディーモンの死体を照らす。
「傷が無い……?」
マハドの話によれば、彼は初めて襲われた際に銛を突き刺し、難を逃れたという。しかしその時の傷が見当たらない。
「自分の体を治すために聖水を奪いに来た」というネグロの推測は外れていた。それでは、この悪魔はなぜ現れたのか?
「既に傷は完治していて、今後の備えとして確保しに来たのか。それとも――」
ハッとした。
懐中電灯を咥え、全速力で浮上する。
「他にもディーモンがいるということか――!?」




