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黒髪に秘めたスクレ=ヴェリッタ  作者: 望月 幸
第四章【祝福の国】
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四話【聖水を求めて】

挿絵(By みてみん)

 しばらく屋上でぼうっとしていると、どこからか小さなボートが流れてきた。ところどころ破損しているが、水漏れも無く二人が乗る分には問題なさそうだ。同じく流れ着いてきた板をオールに、二人はとりあえず祭壇に向かってみた。




「どうですか?」

「無いな。空っぽだ」


 ヘルティク夫妻の話のとおり、祭壇には巨大なかめが鎮座していた。梯子をかけ、ネグロが昇って小石を落としてみるが、カランと水の音は聞こえない。


「この暑さだ。全て蒸発してしまったのかもな」

「そんな……」


 こんなに早く望みが絶たれるとは。スクレはくずおれた。聖水は無い、人もいないのであれば、この世界にいる意味も無い。

 暑さと絶望にめまいを覚えるが、甕の上でネグロが何かを見ていた。


「スクレ。希望を捨てるのは早いかもしれないぞ」

「どういうことです?」

「聖水は無いが、人はいた」


 ネグロが指差す方向に目を凝らせば、一艘のボートがこちらに向かっていた。スクレが手を大きく振ると、ボートを操る人間も手を振って応えた。




 小型のモーターボートに乗っていた人間はマハドという名前の男だった。ネグロよりも濃い褐色の肌に、黒々とした豊富な髪と髭が特徴的で、年齢はおそらく三十歳ほど。スクレとネグロに接近したのは、この街に取り残された者だと勘違いして救助するためだった。

 二人は即興で偽りの設定を語った。ネグロは様々な国を渡り歩く流浪人、スクレはネグロに拾われた孤児。安住の地を求めてこの国を訪れたが、ご覧の有様になって途方に暮れていると。

 か弱そうな老人と少女の話だったからか、マハドの性格からか、二人の嘘はすんなり信じてもらえた。


「――そうでしたか。それはお気の毒に」


 そう言って彼は両手を合わせ、額の上に掲げる。その後胸の前に降ろし、再び上げたりを何度も繰り返した。


「それは?」

「マーウィア教の祈りのポーズです。私たち信者の間では、集会で祈りを捧げるときはもちろん、日々のあいさつや食事、別れの際にも行います。今のは『あなた方に今後の幸があらんことを』と願いを込めて祈りを捧げました」


 説明の後に再び繰り返すものだから、スクレとネグロも見よう見まねで手を合わせてみた。その姿をマハドはにこやかにみつめていた。


「ともかく、こんな場所で長話は危険です。近くに私の拠点があるので、まずはそこに向かいましょう」




 三人でモーターボートに乗り込み、操舵をマハドに任せて約十分。祭壇ほどではないが、この街の中ではかなりの豪邸が見えてきた。他の建物がほぼ全て水没している中、その建物は二階から三階部分が水没を免れている。水面から下を除けば、家数軒が入る広い庭を高い塀が囲んでいる。


「ここは、元々マーウィア教の上位司祭様の邸宅でした。此度の神罰の直後、いやしい盗人たちに荒らされてしまいましたが、それ以降は誰も訪れることはありません。なので、私の拠点として使わせていただいています。

 さあ、こちらにどうぞ。足元にお気を付けください」


 マハドがボートを係留すると、先に家の中に入り、スクレとネグロに手を貸す。

 盗人の仕業か、二階リビングは豪邸に関わらず殺風景だった。マハドが持参したのか、端には薄い絨毯と寝袋が。反対側には携帯式のコンロと簡単な調理道具。缶詰と瓶詰の食料も数日分は積まれている。


「お腹は空いていませんか? 余裕はありますし、味気ないなら魚も釣ってきますが」

「い、いえ。大丈夫です。そこまでお世話になるわけには……」

「そうですか? 遠慮はいりませんから、何か足りないものがあれば言ってください」


 三人はマーウィア教の祈りを捧げると、缶詰で腹を満たした。量は少ないが、香辛料が強く効いているうえに味が濃いので、量以上に満足感がある。

 ぬるい水を飲みながら、マハドはこの国の顛末を語ってくれた。




“祝福の国”こと宗教国家“マーウィア国”は、空におわす唯一神を崇拝し、空から降り注ぐ雨を神のもたらす恵みと定めている。


 しかし半年ほど前、この国全土に類を見ない豪雨が降り注いだ。雨が少ないこの国では、はじめのうちこそ潤いをもたらす雨をありがたがった。ところが雨は三日三晩降り注ぎ、潤いどころが被害をもたらした。

 不運だったのは、これほどの豪雨が断続的に、約一か月にわたって続いたことだ。近くを流れる大河は氾濫し、堤防の存在すら知らなかったマーウィア国にあふれた。乾いた土地には水もほとんど染み込まず、鉄砲水となって国中を襲った。


 国が興って初めての水害により、人口の三割は溺死。当然備えも無かったため、二次被害によりさらに三割が死亡。生き残った四割の人間は命がけで隣国に助けを求めたが、実際に生き残ったのはどれほどかマハドにもわからない。




「――先ほど言っていた『神罰』というのが、その大雨ですか」

「そのとおりです。私たちの信仰が届かなかったのか、神の至上の恵みである聖水を一部の人間が商用利用してしまったためか……原因はわかりませんが」


 マハドは目に涙を溜めながら、許しを請うように両手を合わせて掲げた。


「……ここからは私個人の話になります。私がいたグループは南西の隣国に避難しました。その国も被害を受けてはいましたが、共に復興のため力を合わせることで市民権を得ることができました。幸運なことです。

 ようやく生活が落ち着いてきたところで、私はご覧のように故郷に帰ってきました。まさか、いまだに国中が水浸しになっているとは思いませんでしたが」

「なぜ、わざわざ戻ってきたんですか?」


 それを訊かれると、マハドは目を伏せて口元だけ笑顔を作った。


「遺品を取りに来たんです、妻の。私と妻は濁流に飲み込まれ、離れ離れになってしまいました。彼女の死を耳にしたのは、命からがら国を脱出した後でした。

 それで決心したんです。妻の亡骸はもはやどうにもできませんが、せめて彼女との思い出の品だけは持ち帰ろうと」

「そういうこと……でしたか。申し訳ありません」


 朗らかなマハドの表情の裏には、思いがけない悲しい事情が隠れていた。

 スクレはすぐに謝ったが、彼は首を横に振った。


「気にしないでください。ここに戻ってきたのは三度目ですが、もうこれを最後にしようと思っています。大切なものはほぼ回収できましたし、心の整理もつきました。ようやく私も、新たな人生を歩んでいけそうです」




 場の雰囲気が和んできたところで、ようやくネグロが口を開いた。


「ここに来る前、あんたは『長居は危険だ』と言った。あの場所には盗人も何もいなかったと見えたが、一体何が危険だったんだ?」


 マハドの顔が曇る。日陰でも暑いというのに、彼の体は小刻みに震え始めた。


「神罰は、あの豪雨のこと。それは間違いありません。しかし神の御業に紛れ込み、悪魔がこの国に住み着いてしまったのです。これをご覧ください」


 マハドは日除けの上着を脱ぎ、自分の左袖をまくった。そこから現れたのは、無数の傷跡が刻まれた細い腕だった。スクレは思わずヒッと声を上げた。


「奴に遭遇したのは二度目の帰郷の際です。私と妻の家はここから離れたところにあり、一度目はそこに向かいました。二度目は、共に難を逃れた仲間たちに依頼されて、彼らの親族の遺品を拾い集めていたのです。

 そして中央の祭壇にほど近い場所までボートを進めると、水中を何かが泳いでいることに気付きました。川魚でも紛れ込んだかと思いましたが、それにしては影が大きい……。意を決して乗り出して見下ろしたとき、奴が跳び上がってきたのです」

「奴……とは?」


 マハドの髭から汗がしたたり落ちる。


「見えたのはほんの一瞬でしたが……あれは紛れもない悪魔です。蛇のような細長い体に、コウモリの翼のような無数のひれ。黒い体は空中でしなやかにうねり、あの巨体を感じさせないほど静かに着水しました。

 私はアレを“ディーモン”と呼んでいます。ディーモンは何度も跳び上がり、ボートの上の私を食い殺そうとしてきました。一度は左腕にかみつかれましたが、魚を獲るために持ってきた銛で突き刺し、どうにか逃げることができました」

「なるほど。そいつは今どこにいるかわかるか?」

「さあ、わかりません。確かなのは、ディーモンは祭壇の周辺にいることが多いということです。あなた方に離れるよう言ったのも、奴を恐れてのことでした」


 ただ聖水をもらってくるだけのはずが、大洪水に悪魔ディーモンと話が大きくなってきた。

 ディーモンの存在も気になるが、何にせよ目的は一つ。スクレは肝心なことを訊いた。


「実はあたしたち、聖水を求めてはるばるこの国に来たんです。どうしても治したい人がいて、彼を治すには聖水が必要なんです。もう聖水はどこにも無いんですか?」


 泣きそうな表情で詰め寄るスクレを前に、マハドは目を見張っていた。


「なんだ、あなた方も聖水を取りに来たのですか!」

「あなた方も……ということは、マハドさんも?」

「そうです。私たちはマーウィア教の復活を目指していますが、そのためには神の施しである聖水が必要なんです。別の宗教では神の姿を絵画や彫像に求めたりしますが、私たちは水に求めるのです」

「でも、祭壇の甕の中を確かめましたが、聖水は一滴も残っていませんでしたよ」


 マハドは落胆するかと思ったが、それは仕方がありませんと頷いた。


「実は私の妻も巫女だったのですが、彼女が言うには祭壇の内部に祭器の保管庫があるんです。その中には、万が一の事態に備えて聖水が保管されているのだと。私はそれを取りに来たのです」


 スクレの胸の中、すっかり消えてしまった希望の火が再び灯った。絶望に染まりつつあった心と体に熱が戻っていく。


「それなら、協力して聖水を取りに行きましょう! あたしはあまり力になれないかもしれませんが、ネグロさんは名の知れた戦士なんです。ディーモンが来てもへっちゃらですよ!」


 期待を込めた眼差しを向けると、ネグロはぺしぺしと義足を叩いた。


「まあ、こんな老いぼれで良ければ力になりましょう」

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