四話【日和国の守護霊】
しばらくして、この国の警察が現場に駆けつけてきた。イノシシの衝突により倒壊の危険がある場所は立ち入り禁止になり、動揺と興奮にまみれた歩行者たちを誘導する。このような事件に慣れているのか、彼らは大きな混乱を見せることなく日常に戻っていく。いつの間にかスクレもロズのそばに歩み寄っていた。
驚いたのは、時間が経つとともにイノシシの姿が薄れていき、数分後には完全に消え失せていたことだ。ゴリラの方は気づかないうちに消えていた。
どういうことかと道路の真ん中で立ちすくんでいると、警官の一人がこちらに駆け寄ってきた。警官と老人は知り合いなのか、二人は会話の最中に何度か笑みを浮かべる。
そして当然というべきか、次に警官はこちらに話を聞きに来た。まずいことになったと思った。別に後ろめたいことはないが、自分たちが異世界からやってきた存在だと知れたら更なる騒動を招くかもしれない。
どうするべきかと脂汗をにじませていると、その危機を救ってくれたのは老人だった。
「おう、タナカ。この兄ちゃんたちに話を訊く必要はねえよ。儂がさっきお前に話したこと以上のことは何も知らねえからな」
「イガラシさん、そういうわけには……」
「それによ、見りゃわかるけど外人さんよ。言葉の問題もあるが、守護霊のことなんて知りやしないさ。それとも何か、自分の国の言葉もロクに扱えないお前が、この二人の相手をきちんとできるのかね?」
「それはぁ……」
決着がついたのか、警官はロズたちを一瞥しただけで仲間の元へ戻っていった。
「――さてと、兄ちゃんに嬢ちゃんよ」振り返って見上げる老人の目つきは、先ほどの警官以上に鋭い。「お前さんたち、本当に何者だい? 特に兄ちゃんの方よ。あの人間離れした怪力は何だね?」
上手い答えが見つからず無言になる。スクレも委縮し、ロズの後ろで彼のシャツの裾を握っている。
その姿を見て、イガラシはハッと気の抜けた表情を見せると、照れくさそうに白髪まみれの頭を掻いた。
「いけねえや、ついつい昔の癖が出ちまう。街の平和に貢献してくれた恩人をにらみつけるなんてするもんじゃねえや。いや、悪かった!」
そう言って深々と頭を下げる。初対面だが、悪い人間ではなさそうだ。
「いえ、謝るのは結構ですが。俺たち、このせか……国に来たのは初めてで、よくわからないことばかりなんです。さっきのイノシシやゴリラのことも含めて、いろいろ教えてもらえませんかね?」
「なんだ、やっぱり外人さんだから何もわかっちゃいなかったんだな。そんなことでよけりゃ、まずは儂の家に来ないか? 兄ちゃんたちは悪い奴じゃなさそうだし、老人の一人暮らしは何かと寂しいもんでねぇ」
イガラシはそれだけ言うと、返事も聞かずにズンズンと前を歩いていく。ロズは逃げ出そうとするスクレの手を握りながら、半ば引きずる形でイガラシの後を追った。
十分ほど歩いたところに二階建ての小ぢんまりとしたアパートがあった。104という部屋番号の下に「五十嵐正蔵」という表札が貼られていて、これが老人の名前らしい。
五十嵐はポケットから鍵を取り出すと、しばらくガチャガチャいじってようやく鍵を開けた。
「汚ねえところだけど、入んな」
「お、お邪魔します」
狭い三和土で靴を脱ぎ、ギシギシきしむ廊下を数歩歩けば、そこは六畳ほどの居間だった。五十嵐の言葉のとおりお世辞にもきれいではないが、それはアパートそのものの老朽化によるもので、埃やゴミが積もっているというわけではない。むしろよく整理整頓されたほうだといえる。
「とりあえず、茶でも飲んでくれや」居間の中央にあるちゃぶ台に麦茶の入ったグラスが三つ並ぶ。ロズにとっては異世界で初めて口にするものだったが、ビブリアで飲む茶と似たような味でホッとした。
「兄ちゃんたち、外人さんは外人さんでも、何か訳ありなんだろ? 住むところも何も決まってないんじゃないかね?」
だしぬけに五十嵐はそう断言した。
「……実はそうなんです」しばし考えた後、正直に答えることにした。「それにしても鋭いですね。俺の師匠みたいだ」
「ふうん。あんたの師匠とやらは知らねえが、儂は元警官だからな。怪しい奴とか、何か事情を抱えてる奴には鼻が利くのよ。
だが安心してくれや。さっきも言った通り、あんたと、ついでに嬢ちゃんは恩人だからな。これ以上の詮索はやめておくよ」
「そうしていただけると助かります」
「――それはそうと、あの動物たちは何だったんですか? “守護霊”とか聞こえましたけど」
おずおずと口を開いたのはスクレだった。彼女の好奇心は、この疑問を早く解決したいようだ。
「やっぱりそれが気になるかい。そうだな、こればっかりは目にしただけじゃわからんだろうなあ」
「――なっ!?」
ロズは身構えた。いつの間にか、老人の背後にあのゴリラが立っていたのだ。天井が低いせいか、窮屈そうに身をかがめている。
「こいつは儂の守護霊で、『ゴリさん』と呼んでる。見かけはちょいと怖いし馬鹿力だが、繊細で人見知りな奴よ。よかったら、ちょっと触ってみるかい?」
ロズとスクレは顔を見合わせると、言われたとおりに触ってみることにした。ふさふさとした体毛は紛れもなく動物のものだが、体温が感じられないのが不思議だった。
しばらく二人が触っていると、ゴリさんは一度身震いし、フッとその場から消滅してしまった。
「あちゃ、ゴリさんめ。恥ずかしがって消えちまいやがった。こうなると儂が呼び出そうとしても出てこないんだよなあ」
「それで、結局守護霊というのは何なんですか? 普通の動物とは違うみたいですが」元の場所に座ったスクレが尋ねる。
「守護霊っていうのはな、嬢ちゃん。その名のとおり、俺たち人間を守ってくれる幽霊のことよ。
この国で暮らしている人間には、例外なく一人につき一体の守護霊が憑いている。ゴリさんみたいに強い力を持つ守護霊は稀だが、その人間の運勢や気質なんかに影響を与えているのさ」
「あの巨大イノシシも誰かの守護霊ということですか」
「そういうこった。中には強力な守護霊を犯罪に使う悪党もいるが、今日のイノシシに関しては、あの暴走の感じからして“野良”だろうな」
「“野良”?」
「普通、守護霊は取り憑いている人間のそばを離れることはできない。産まれてから死ぬまで、ずっと一緒なのさ。
ただし例外がある。それは、外国から人がやってきたときだ」
五十嵐の話によるとこうだ。
守護霊が生まれるのは、世界広しといえどこの国――日和国という――だけらしい。つまり、外国人には守護霊が憑いていない。
しかし日和国に滞在していると、その外国人に取り憑く守護霊が新たに誕生する。たいていは問題なく憑いてくれるのだが、たまに取り憑く相手に出会えず暴走する守護霊《野良》も存在するというのだ。
「実は日和国はな、ほんの五十年前まで鎖国していたんだ。だから、野良が問題になり始めたのはその頃からさ。野良が発生した時は、力づくで大人しくさせなきゃならん。儂は新米警官の頃から、ゴリさんと一緒に戦ってきたもんだ――」
話し疲れたのか、五十嵐はグラスの中のお茶を一気に飲み干し、窓の外を見た。いつの間にか日が落ちていたのか、周囲の家々の窓から白い光が漏れている。
「おっと、久しぶりに話し込んじまいやがった。儂の料理なんて人に食わせるもんじゃないから、今夜は出前でも取ろうかね」
「いいんですか? そこまでお世話になって」
「今更お前さんたちを外に放り出せるかってんだ。なんなら、しばらく泊めてやってもいいぞ。現役時代に貯め込んだ金も、使い道がわからんままジジイになっちまったからな。寄付するくらいなら、目の前の人助けに使ったほうが気分がいいってもんよ」
「――それでは、お世話になります」
まさに渡りに船だった。白本と装者が異世界でまず確保しなければならないのは寝床だからだ。
ロズは土下座に近い格好で頭を下げる。スクレも隣で軽く頭を下げた。