三話【祝福の国】
全ての準備を終えたネグロを連れ、スクレは再びヘルティク夫妻の函を訪れた。
しかし依然として、スクレの胸には「引退した装者を連れてきて意味があるのだろうか?」という不安が渦巻いていた。二度断られれば、もう二度と話を聞いてもらえないかもしれない。
結果的に、それは杞憂だった。
まず、窓から覗いていた夫がネグロの姿を認めると、彼の姿が消えてドタバタと騒がしくなった。騒音が五分ほど続いたのち、今度は妻が恭しく出迎えてくれた。オジーを外に残し、二人が函の中に入ると、先ほどまでとは打って変わって函の中の埃っぽさは無くなっていた。どことなく、夫妻の身なりも小ぎれいになっている。
「よ、ようこそ……! まさかあなたが、こんな辺鄙な場所に来てくださるとは……!」
「なに、儂はこういう場所のほうが性に合っている。なかなか個性的で、悪くない函じゃないか」
「そ、そんな! 滅相もない!」
オジーもそうだったが、誰もかれもネグロを前にすると途端に委縮してしまう。若いスクレの目にも、徐々に彼の威光が目に見えるようだった。
「そ、それで……栞は譲ってもらえるんでしょうか?」
「ああ、わかったわかった! 何でも好きな栞を持っていきやがれ、この野郎!!」
「あ……ありがとうございます」
その後はとんとん拍子に話が進んだ。
まず、外で待機していたオジーが東の街に赴き、ロズを診ているマグテスに話をつけた。彼らも知り合いのようで、納得したマグテスはすぐにロズをヘルティク夫妻の函に運び出した。
ベッドに横たえられるロズの肌は白くなりつつあり、体温も低い。もはや死人のようだった。彼の類まれな生命力が無ければ、実際にそうなっていたかもしれない。
妻がロズのシャツを脱がせ、彼の右手の傷から腕を丹念に調べる。
「外傷は右手のみ。傷は深いけど、問題はもっと別の所……毒か、もっと別のものかしらね」
血液を抜き取り、顕微鏡で血を調べる。その際、複雑な装飾が施された眼鏡を何度も付け替えているのが印象的だった。
「……やっぱり呪いね。スクレさん、あなたも見てみる?」
そう言って紫紺の眼鏡を渡されたので、それをかけて顕微鏡を覗いてみる。
「これは!?」
「彼にかけられた呪いの正体よ」
驚くべきことに、彼の血の中ではいくつもの文字がうごめいていた。白本の能力のおかげで読めないことはないが、読めば自分まで侵されてしまいそうな呪いの言葉だった。すぐに目を逸らしても、頭の中にあの文字が浮かびそうになる。
「こ、こんなものが治せるんですか!?」
その質問に、彼女は首を縦に振って答えた。
「若い白本に多いんだけど、好奇心に任せて行動した結果、どこかで呪いをもらってしまうことはあるの。幸か不幸か、この呪いは強力だけどかなり劣化が進んでるみたいで、解呪自体は簡単に済むわね。体力もすぐに回復するはずよ」
「解呪か……。すると、行き先は“祝福の国“ってところか。あの国なら、栞がギリギリ一本残ってたな」
夫は薬品棚のような引き出しの細かい棚から、目的の栞を取り出した。カサカサに乾ききった、枯れ草のような栞だ。
「“祝福の国“というのは?」
「この栞の行き先は、とある宗教国家でな。まあ、その宗教の教え自体は儂らにはどうでもいいんだが、重要なのは“聖水“の存在よ」
重要な話らしく、顔に刻まれた皺が一層深くなる。
その国の宗教では、空には唯一絶対の神が君臨しており、雨は文字通り神の恵みとして大切にされていた。
首都には巨大な祭壇が建てられ、その中央には雨水を貯める巨大な甕が置かれている。百名に達する巫女が毎晩祈りを捧げ、その際甕に数十種の薬草を入れる。こうして作られた“聖水”は敬虔な信者や大病を患った信者などに配られる。
「驚きなのは、この聖水の効果だ! 儂も実際目の当たりにしたが、その聖水を飲むと死にかけていた奴も、翌日にはすっかり快復してやがる! 怪我や病気はもちろん呪いにも効果があるときたもんだ! おかげでロクな医療も無いくせに、信者たちはどいつもこいつも百年以上生きてやがった!」
興奮気味に語られるが、それほどの効果ということか。スクレは自分の視界が明るくなっていくのを感じた。
「つまり、儂らはその国に行って聖水をもらってくればいいんだな?」ネグロが尋ねる。
「そうですな! お二人は信者でない以上力づくということになるかもしれませんが、とても穏やかな国民性です。事情を正直に話せば、快く譲ってもらえるかもしれませんぞ!」
ヘルティク夫妻から渡された“祝福の国”の資料に目を通す。犯罪は少なく、猛獣や魔物の類は街にはいない。日差しが強いので全身を布で覆うと活動しやすく、異世界の存在であることも隠しやすい。
「よほどのことでもなきゃ、暑いってこと以外危険のない国だ。可能なら、聖水のついでに栞の材料も採ってきてくれ」
その国の民族衣装を受け取って着替えると、ついでにメモも渡される。これくらいのお使いならお安い御用だと快く引き受けた。
「それじゃあ、ネグロさん。それと嬢ちゃん! 気をつけてな!」
「どうか、無事に帰ってきてね」
二人に見送られながら、ネグロと並んでビブリアの北側――混沌の炎に向かう。
仮にも、隣にいるのは伝説の装者。加えて無愛想だから、自分から話しづらい。かといって足早に向かえば、高齢かつ義足のネグロは追いつけないかもしれない。早くしなければならないのに、こんなに足が重いのは初めてだった。
時折、別の白本と装者のペアとすれ違うこともあった。彼らはスクレを見て顔をしかめ、次にネグロを見て驚愕した。十分に道幅があるにも関わらず、彼らは草むらに足を突っ込んですれ違った。
結局、混沌の炎に着くまで一言も会話は無かった。
「準備は良いな?」
「は、はい!」
譲り受けた最後の栞を髪に結び付け、ネグロの手を引いて炎に身を投じる。あっという間に二人の体は燃え尽き、白い炎に溶けていった。
「あ……なんだか変な感じ」
混沌の炎に飛び込むと、真っ白な空間の中をゆっくり漂いながら異世界に流れ着く。
しかし今回は、川に流されるような感覚を味わっていた。これが特製の栞ということか。確かに「特定のどこかに向かっている」と感じさせる。
「もう少しだけ待っててください。ロズさん……」
彼の無事を祈っていると、進行方向にぼんやりと異世界の景色が浮かんできた。きっとあれが祝福の国なのだろう。
「ネグロさん、足元に気を付けてくださいね」
「ああ、大丈夫。心配無用だ」
「そ、そうですか。失礼しました……」
やっぱりやりにくい。すぐに聖水をもらって帰ったほうが良さそうだ。そう思いながら祝福の国に着地した。
「……えっ?」
「……ふむ」
同時に驚きの声を上げていた。
二人はネグロの家のような、白く四角い家の屋根に立っていた。
その足元に水が迫っていた。遥か水平線まで街が水没しており、二階以上の比較的高い建物だけが頭を覗かせている。
街――いや、おそらく国全体が水没していた。
「あの四角錘の、ピラミッドみたいな建物のてっぺんが祭壇みたいですね」
「ほう。ピラミッドを知ってるのか」
「昔行った世界で見たことがあります。あれは王族のお墓でしたが」
街の中心部らしき方向に目を向ければ、ヘルティク夫妻の話に出てきた祭壇を確認できる。しかし当然ながら、そこに信者たちの姿は無い。
「ひどい惨状だな。到底人が住める環境ではない」
ネグロの言葉通りだった。




