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【ニーニャの国】

 目を覚ましたシゾーの目に飛び込んできたのは、ずっと横で彼の寝顔を観察していた母体だった。


「…………」

「…………?」


 無言で睨むシゾーと、何もわからず見つめ返す母体。恨み言の一つでも言ってやりたい気分だったが、彼女を無視して部屋から出る。その後ろをペタペタと小さな足音が追いかけてくるが振り向かない。いくら人間の姿をしていたって、彼女は何もわからない機械に過ぎなかった。




 とてもとても小さな世界である“繭の国”で、シゾーは定期的にやらなければならないことがあった。

 それは混沌カオスの炎の維持だった。

 混沌の炎は異世界との扉で、これが消えれば白本たちへの復讐が叶わなくなる。しかしその火を燃やすためには、薪として白本と装者の遺体が必要だった。

 この国の墓地には、かつてビブリアに反旗を翻した者たちの遺体が眠っている。たとえ面識が無くても、彼らはシゾーにとって同志に近い存在であり、その墓を暴くのは彼にとってこれ以上なく心苦しいことだった。

 もう一つの問題は、いつかは遺体が無くなってしまうということだ。最悪の場合、自分で葬った白本たちをこの世界に連れてきて燃やす手もあるが、あまり気が乗らなかった。この地に憎い連中を、死体とはいえ連れてくるのは単純に嫌だったからだ。


「……やっぱり、だいぶ小さくなってきたな」


 ロズにちぎられた腕はどうにか自力で縫い付けたが、その間に混沌の炎は自分の胸辺りの高さにまで小さくなっていた。この大きさでは異世界に行けない。

 また薪を追加しないとな。物置からスコップを引っ張り出してこようと思ったとき、いつの間にか隣に立っていた母体が炎に向かって手を伸ばした。


「白い――きれい――」

「馬鹿! やめろ!」


 栞を着けた白本が一緒でなければ、異世界には行けず体が燃やされるだけだ。シゾーは慌てて母体を炎から引き離すが、彼女の指が微かに触れてしまったのを見た。


 ゴ――ゴオォォ!


 地面に倒れ込んだ二人の目の前で、焚火程度の大きさだった炎が、瞬く間に十倍以上の大きさに膨れ上がった。ゴオゴオと激しい唸りを上げながら白く輝いている。


「これ、お前がやったのか……?」


 母体はきょとんとしている。自覚は無いらしいが、彼女の“空間を維持する能力”は未だに健在らしい。

 たとえるなら、立て付けの悪い扉が職人の手でリフォームされたようなものか。燃え盛る炎は弱まる気配が無い。


「……お前も異世界に行ってみたいか?」


 そんな言葉が口を衝いて出た。


「……!」


 彼の誘いに、母体はぎゅっと目を閉じて答えた。


「馬鹿。そこはうなずくとか、『うん』って返事をすればいいんだよ」




 今回は銀色のスピンを噛みに結んだ。いつもは標的の白本が使う栞の一部を一緒に結び付けるが、今回は単なる旅行のようなものなので不要だった。

 母体には動きやすい自分の服を着せると、彼女は鏡の前でくるくる回りながら自分の姿を検める。


「じゃあ行くぞ。僕の手を離すなよ」

「うん」


 彼女の手を引きながら居城を出て、燃え盛る混沌の炎に足を踏み入れる。たとえ機械の体でも炎は構わず燃やしてくれる。後はただ、真っ白な空間の流れに身を任せるだけだ。


「わっ。わあっ!」

「おいこら! あまり動くな!」


 母体があちこちに手を伸ばしたりするので、シゾーは放さないように力いっぱい手を握っていた。そんな状態だから、出口が見えた頃にはへとへとになっていた。


「ほら。あれが出口だから着地だけは気をつけろよ」

「うん」


 素直に返事をするが、シゾーは着地の仕方など教えていないことに気付いた。案の定母体は着地に失敗し、自分の数倍ある彼女の体重に引っ張られて自分も転げ落ちた。


「くっそ……口の中が砂だらけだ! まだ岩とかコンクリートに落ちたほうがマシだ」

「うー、ぺっぺっ」


 持ってきた水で口をすすぎ、改めて周りを見回した。


「ここは……島か」


 二人が降り立ったのは小さな島だった。

 白い砂浜に、彼方まで続く透き通った海。紺碧の空には雲一つ浮かんでいない。

 陸地に目を向ければ、青々とした草木が生い茂り、それらを彩るように色彩豊かな花々が咲き乱れている。

 数々の世界を巡ってきたシゾーだったが、これほど風光明媚な景色は久々だった。島には誰も住んでいないのか、潮騒と木々のさざめきしか聞こえないのが心地いい。


「ついてるな、お前。こんないい景色はめったにないぞ」


 降り注ぐ日差しをしっかり味わってから声をかけたが、返事が聞こえない。


「お、おい! どこ行った!?」


 砂浜を駆けると、母体はすぐに見つかった。大きな岩の陰でしゃがみこんでいたのだ。


「こんなところにいたのか……。どこか行くなら一声かけろよ」


 悪態をつきながら覗き込むと、彼女の目の前で何かがもぞもぞ動いていた。


 ニャーオ


 それは、砂浜から生まれたかのような真っ白な毛並みの猫だった。母体の前でちょこんと座り、彼女にされるがままになっている。


「なに、これ?」猫の頭を撫でながら訊いてくる。

「それは猫っていう動物だ」

「ね――こ――?」

「そうだ。どこの世界にもいるし、その多くはペットとして人気が高い。ほら、こっち来な」


 しゃがんでくいくいと指で招いてみるが、白猫はシゾーから離れて母体の陰に隠れてしまった。


「――なんで機械の女のほうに懐くんだよ」


 舌打ちすると一層猫は怯え始めた。

 そんな猫の背中を撫でながら、母体は思わぬ一言をつぶやいた。


「ねえ――この猫、欲しい」

「えっ?」一瞬言葉に詰まったが、すぐに首を横に振った。「それは不可能だ」

「どうして?」

「ビブリアやコクーンには異世界の生き物を連れていくことはできない。お前を繭に連れていけたのは機械だったからだ。諦めるんだな」


 きっぱり否定されると、母体はうつむき、猫を撫でる手が止まった。


「――だからさ」岩にもたれかかり、空を眺めながら提案した。「気が済むまで遊んでこいよ。あんな無機質な世界じゃ、こんな自然はお目にかかったことないだろ? 僕も適当に日向ぼっこして待っててやる」


 それだけ告げると、岩の上に飛び乗って仰向けになった。常に薄曇りのような繭では味わえない日差しに、彼自身悪い気分ではなかった。


「え――えっと。あり――ありう――」

「『ありがとう』って言いたいのか? 戻ったらちゃんと勉強しておけよ」

「あ――ありがとう――!」


 声を弾ませながら、母体は猫を抱きしめて駆け出した。されるがままになった白猫を胸に、サクサクと砂浜を蹴りながら走り回る。


「花! お花! 草! 木!」


 半ば暴走状態の母体は茂みに突っ込み、木の根につまずいて太い幹に正面衝突した。ふらふらによろけながら砂浜に戻り、足をとられて豪快に転んだ。日差しで容赦なく熱せられた砂浜に寝転がり、猫をまっすぐ天に掲げる。


「猫! 空! 雲! 熱い! あっつい!」


 母体は笑っていた。笑い声の上げ方を知らないのか、ただ表情が変わるだけだったが、その笑顔はあどけない少女のように朗らかだった。

 その後も母体は、砂浜を駆けまわり、草むらに転がり、花を摘みまくり、恐れを知らない幼児のように遊びまわった。


「あいつ、あんな顔できたんだな」


 いつの間にか、岩の上から彼女をじっと見ていた。見ていて飽きない――というのもあるが、彼女の姿を見ると心の奥に閉じ込めた何かがほどけていく感じがした。

 その感情はなんだったか――思い出そうとしていると、いつの間にか母体が目の前に立っていた。


「はい!」


 ずいと猫を差し出してくる。猫はふてぶてしい顔をしていたが、「この子に免じて撫でさせてやるよ」と言っているようにも思えた。その丸い頭に手を乗せると、猫は「ニャン」と短く鳴いた。


「……ニーニャ」


 自然と言葉が漏れた。


「にーにゃ?」母体が首をかしげる。

「あ、ああ。残念ながら猫は連れていってやれないが、代わりに猫の鳴き声をお前の名前にしてやるよ。それで満足か?」


 母体は猫と向き合うと、猫は「いいんじゃねえの」という感じでニャーと鳴いた。


「にーにゃ? ニーニャ……ニーニャ!」


 母体ニーニャは片手で猫を抱きながら、空いた手で自分を指差しながら顔を近づける。


「ニーニャ! ニーニャ!! ニーニャ!!!」


 新たな自分の名をかみしめるように何度も繰り返す。


「わかった! わかったから静かにしろ! っていうか僕が考えたんだから!」

「ニーニャはニーニャ! ニーニャはニーニャ!」

「だからわかったっての! いいからさっさと遊んでこい! もう二度とこの世界には来れないからな!」

「わかった! ニーニャ、猫と遊んでくる!」


 その後も絶えず自分の名を繰り返しながら、日が暮れるまで彼女は遊び続けた。結局シゾーも、眠ることなく彼女をずっと見ていた。




 ニーニャの名前の由来が猫の鳴き声というのは嘘ではないが、実は別の意味もあった。

 ニーニャには「少女」という意味もある。シゾーにとって彼女は人間の姿をした機械でしかなかったが、屈託なく笑い、遊びまわる姿に「少女」を見た。それがつい口を衝いて出てしまった。


「まあ、本人も喜んでるし、僕も呼びやすいからいいか」


 ニーニャ……ニーニャね。知らず知らずのうちに自分も彼女の名を口にしていた。


「シゾー! シゾー!」


 ニーニャが手招きしている。一緒に遊びたいようだ。ここまで遊び相手をしてくれた猫は既にぐったりしてぬいぐるみのようになっている。


「――うっさいな! その呼び方はやめろ!」


 岩から飛び降り、彼女に歩み寄るとげんこつした。

 シゾーはビブリアの住民たちが勝手に名付けた通称だ。恐怖の象徴であるその名は嫌いではなかったが、もちろん本当の名前がある。どうせならそちらで呼んでもらいたかった。


「お前の小っさいメモリーに保存しとけよ! 僕の本当の名前は――」

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