三話【イノシシとゴリラ】
混沌の炎に焼かれるのはなかなか辛い。見た目に反して熱くはないが、チリチリと体が焼かれて分解されていく感覚は正直に言えば不快だ。ロズにとっては初めての経験なので、何度か気が遠くなりそうだった。
しかし、完全に焼き尽くされれば一変する。白い炎を抜ければ、そこに広がるのはミルクのように白く滑らかな空間。穏やかな海の中をたゆたうように、ふわりふわりと浮かんでいる。それでも前に進んでいる感覚があるので、異世界に向けて移動していることだけはわかる。
手をつないでいるスクレの横顔を見れば、やはりその目は虚ろで光が無いように見える。目を開けたまま眠っているみたいだ。
「やっぱり、無理やり連れだしたのは失敗だったかな?」気まずさから顔を逸らし、どこまでも白い空間に視線を泳がせる。
「――あっ、あれは」
正面からぼんやりと光が差し込んでくる。さらに目を凝らせば、うっすらと建造物や人の姿が見えている。いよいよ異世界に到着するのだ。
「さあ、到着だ。着地に気を付けろよ」
「大丈夫ですから。あたしの方が経験豊富ですし」
「……やっぱり可愛くないな」
「何か言いましたか?」
「別に」
そんなやり取りをするうちに地面が近づく。二人は姿勢を変え、足を前に出して着地に備えた。白い空間が薄らいでいき、徐々に異世界の光景がくっきりと露わになっていく。
トンッ。
軽やかに着地。ロズは密かに、初めて異世界に降り立った感動に打ち震えていた。
「ほら、何ボサッとしてるんですか。あたしを守るのがあなたの仕事でしょう?」
「あ……おう。もちろんだ!」
軽く体を動かし、自分の体のどこにも異常がないことを確認する。左腕に施された“ヌエ”の刺青も問題なさそうだ。
次に周囲を見渡す。
どうやらそこは、背の高い建物に挟まれた路地のようだ。薄暗い路地から空を見上げれば、細長く切り取られた、若干くすんだ青空が広がっている。
人々の喧騒は周囲から聞こえるが、幸いにもこの世界に降り立った姿を見られてはいない。師匠によれば、基本的に人目に付かない場所に出るようになっているらしい。異世界から来たということが公になれば、何かと面倒なことに巻き込まれやすいのだ。
「とりあえず、この場所に危険はないみたいだな」
「そんなの見ればわかるじゃない。神経質なんだから」
「従者として主人の身の安全を確保するのは当然だろ?」
「それはそうよ。でも、あなたが異世界をどう思ってるのか知りませんけど、実際は危険なことのほうが少ないんですから」
「ん~、そういうものか?」
「そういうものです。とりあえず、こんな辛気臭い場所から出ましょう」
「あ、こら! 先に出ていくなってば!」
先に歩いていってしまうスクレを追いかけ、ロズも一緒に路地から出る。
「おおっ!?」
「わあっ――!?」
二人はその光景に圧倒された。
――ガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤ――
そこにいたのは人、人、人――! 人の海だった。
立ち尽くす二人を尻目に、右に左に人々が行き交う。ピシッとスーツを着こなすビジネスマン、蛍光色のカラフルな服がまぶしい若者たち、杖を頼りに歩く老夫婦。老若男女問わず、数えきれないほどの人たちが闊歩するその光景は、人口が少なくのどかで平和なビブリアに暮らす二人には新鮮な光景だった。
目を引くのは人だけではない。建物もだ。ビブリアの建物は高くてもせいぜい五階建てだが、この街にはその十倍以上という高さのビルが何本も立ち並んでいる。それほどでなくても、直方体の大きな建物が道路に沿って延々と続いている。ショッピングでも楽しんできたのだろうか、中からは両手に買い物袋を提げた女性たちがぞろぞろと出てくる。
「こいつはすごいな……。ビブリアの住民が全員集まっても、これだけの人数になるかどうか。あのでかくて頑丈そうな建物も、一体どうやって建てたんだ? これが異世界ってやつかぁ……」
ロズは子供のように目を輝かせながら、しばしその光景を目に焼き付けていた。あまりにキョロキョロしているものだから、彼のそばを通り過ぎる人たちがクスクス笑い合っている。それに気づくと、ロズは顔を赤くしながらすまし顔で取り繕った。
「いや、違うんだぞスクレ。俺は初めての旅だからちょっと興奮してだな……」そんなことをぶつぶつつぶやきながら隣を見ると、
「わぁ~。はぁ~~」
スクレはロズ以上に目を輝かせていた。
「……おい、スクレ?」
呼びかけても返事が無い。何度か呼びかけ、肩を揺らしたところでようやく正気に戻ったようだ。
「……おい?」
「な、なんですか!? こんな光景、あたしも今までの旅で何度も見てるんですから!」
「それにしては、さあ?」
「ちょ、ちょっと珍しい鳥が飛んでたから見ていただけです! ほら、あそこにいるのはカラスといって、もっと高くで飛んでいるのは鳥ではなくジェット機というものなんですよ!」
「あ、ああ……それは俺も知ってるけれど。そういうことじゃなくて……まあいいや。ここで突っ立ってるのもあれだし、ちょっと歩きながら街を見て回ろうか。ついでに、今日泊まれるところも探したいし」
「そ、そうですね! あたしも同じことを考えていました!」
スクレは自分の頬をパンパンとはたくと、勝手に人の流れに混ざって歩きだした。ロズもすれ違う人とぶつからないよう避けながら、すぐに彼女の横を並んで歩く。
内心、ロズはホッとしていた。
ロズは心ここにあらずという状態だった。そうでなくても、ここに来たのは力づくだ。理由はまだわからないが、彼女が異世界に行きたくないというのは噂通りのようだ。
しかし、そこは白本。やはり、世界を回って物語を刻みたいという本能は残っているようだ。その本能に賭けたのは正解だった。
この調子なら“コレ”は不要だったかもな。そう思いながら自分の胸をなでおろした。
「ロズさん。ぼうっとしてどうしたんです?」
「いや、何でもない。とりあえず、何をするにしても金が必要だからな。物々交換は難しそうだし、どこかこっそり露店でも開けそうな場所があれば――っと?」
周囲をキョロキョロ見回すロズが急に足を止めた。彼の後ろを歩いていた男がその背中にぶつかり尻餅をついていた。
「どうしたんですか?」
「――何か聞こえる。しかも近づいてくる」
「何も聞こえませんけれど?」
「装者は耳もいいんだよ――これは、悲鳴か?」
獣の聴力を持つ耳をそばだてる。間違いない。人間の悲鳴。そして、この無機質な町並みには不釣り合いに思える野獣の咆哮。今いる場所から百メートルほど先の交差点、その左側から近づいてくるようだ。
「――何か聞こえない?」「騒がしいわよね?」周りの人たちもその音に気付き始めたようだ。スクレも嫌な予感が膨らんできたのか、ロズの背後に回って彼の服をつかんでいる。
「スクレ。少し離れて、俺の後ろに隠れてろ。そのほうが守りやすい」
「は、はい。わかりました」
横道に入ってやり過ごすという選択肢もあるが、この異変の正体を正面から確かめてみたい。それに、当事者になることで主人の物語集めにも有利に働くはず。そんな考えがこの選択肢を生んだ。
「さあ、鬼が出るか蛇が出るか」
指の関節を鳴らしながら仁王立ちで待ち構える。
五秒ほど待ち、遂に現れたのは
「ブビイィィィィーーーーーーーーッ!!」
それはイノシシだった。
それも、ただのイノシシではない。大人のゾウほどの巨体を持つ、本来ならあり得ないであろう巨大なイノシシだ。それが人間を蹴散らしながら暴走している。
左から現れた巨大イノシシの正面には三階建ての頑丈そうな灰色の建物。右か左に曲がらなければならない状態で、巨大イノシシは右に、つまりこちらに進路を変更した。体を建物の外壁にこすりつけながらも走るその姿は、アクション映画で主人公が乗りこなす大型トラックのようでもある。
百メートル――八十メートル――五十メートル――加速しながら距離を詰めてくる。
「ほ、本当に大丈夫なんですか!?」
「大丈夫だって。俺の心配はいいから、この経験をしっかり刻んでおいてくれよ?」
心配そうなスクレを背に、ロズは地面を踏みしめ、両腕を前に突き出す。
「さあ来い! 俺の力、お前で試してやる!」
「ブヒィッ!!」
答えるように鼻息を荒くする。その鼻息が顔にかかる。
「そこっ!」伸ばした両手で、イノシシの口の端から覗く牙をつかむ。
「ブオォォーーーーッ!!」
「ぬおぉぉーーーーッ!!」
自分の十倍はある巨体の衝撃を受け、ロズの体は道路の上を後方に滑っていく。
しかし決して弾き飛ばされない。それどころか、イノシシのスピードは急激に落ちていく。三メートルほど後ずさりし、いよいよスクレの目前に迫った時には、その前進を完全に止めていた。
しかしロズは、全身の筋肉に力をみなぎらせながら考えていた。
「やっべえ。この後どうしよう……」
実際に相対してみてわかったが、イノシシの力は自分とほぼ互角。少しでも力を抜いたり逸らしたりすれば、その瞬間に轢かれるおそれがある。かといって、ずっとこのままでは先にスタミナ切れを起こすおそれもある。相手が相手だけに、周囲からの助けもあまり期待できない。
「お、おいスクレ……。とりあえずお前は逃げ……」
せめて後ろにいるスクレだけは守らなければ。
そう考えて振り返って告げると、彼女はとっくに逃げ出していたようだ。離れた場所にある電柱の陰からこちらを見ている。
ちくしょう、仕方ないけど薄情者め!
心の中で泣きたくなったとき、一瞬視界が暗くなる。何かの影が落ちてきたのだ。そして影の主は、イノシシの背に着地すると同時に、手にしている赤と金の巨大な棒をイノシシの頭部に打ち据えていた。
「なっ、なんだこいつは……?」
それは少々奇妙なゴリラだった。
筋骨隆々の肉体を、黒ではなく黄金色の体毛が覆っている。さらにその体の上に、陣羽織のごとくきらびやかな文様の羽織。精悍な目つきからは獣には無い知性まで感じられる。
その姿に目を奪われている間に、黄金色のゴリラは両手で握った棒を振り上げ、もう一度イノシシの頭を殴りつけた。その一撃が決め手となったのか、イノシシはグヒィと悲鳴を上げると、白目をむいて倒れこんだ。ズンと地面が揺れる。
「ずいぶんな無茶をするじゃねえか、兄ちゃん」
しわがれた、しかしどこか迫力のある男の声。目の前でたたずむゴリラが発したのかと思ったが、声の主はその背後から現れた老人だったようだ。ロズと比べて頭一つ分ほど小柄だが、がっしりとした体つきが目を引く。頭髪はほぼ真っ白で顔に刻まれたしわの数は多く深いが、褐色の肌には張りがあり若々しさもある。
「しっかし、たまげたぜ。“守護霊”を使わず、人力でこんなデカブツを止めるんだからな」
そう言って、老人はゴリラの肩をポンポン叩いていた。