九話【狼王の力】
狼王とスクレの姿はすぐに見えなくなってしまったが、二人の臭いはすでに覚えていたので、それを頼りに追跡することができた。
「――あそこに隠れたか」
しばらく走っていると、前方に巨大な岩場が見えてきた。ひび割れた岸壁は手足をかければ上れなくもないが、臭いは上から感じられない。
岸壁を観察しながら歩いていると、ちょうど人が入れそうなサイズの穴が開いている。間違いなくこの先だ。確信したロズは武器を構え、目を凝らしながら慎重に進む。
先に進むにつれ、道は縦に広がっていく。上から幾筋もの光が差し込むため、照明が無くても歩くのに苦労しない。
「適度に狭いし暗い。きっと狼王が事前に見つけていた隠れ家だったんだろうな」
この道幅では一度に何人も進入できない。襲撃した人間たちの人数がわからない狼王は、敵に囲まれないようにとこの場所を選んだのだろう。ここなら一対多の戦いにもつれ込むのを防げるし、いざとなったら洞窟の天井を崩して進入を拒むこともできる。
「それにしても、ただ逃げるではなくこんなところに隠れて、一体何をするつもりなんだ?」
疑問に思いながら進んでいると、急に開けた場所に出た。
四十から五十人は余裕で入れそうな空間の中央に狼王が、端の方に狼王の側近とスクレがいた。スクレは手足を縛られ、すがるような目でロズを見ている。
傍から見れば、狼人を滅ぼそうとした報いだと捉えられるかもしれない。しかし彼女の従者として守ると誓いを立てたロズからすれば、一瞬で頭を沸騰させるのには十分な光景だった。
「スクレを解放しろ!」
思わず叫ぶが、当然その願いは却下される。
「そういうわけにはいかん。狼人の再起、そして隆盛のためには、この娘に犠牲になってもらわねばならん」
「どういうことだ? ただ仕返しをしたいだけじゃないのか?」
「そんなもったいないことをするわけがないだろう。人間は敵ではあるが、同時に我々に力を与える恵みでもある」
人間が恵み。その言葉を聞いて、ふと一昨日の光景が思いだされた。
「食べるのか? 人間も」
尋ねると、狼王はさも当然というようにうなずいた。
「人間たちから聞いたんだろう? 俺は元々ただの狼だったが、人間の労働力の代わりにと体をいじくりまわされ、この体になった。連中は“狼王”などという大層な名前を付けたが、俺にとっては“人間の所有物”という首輪を着けられた気分だった。
だから、他の実験動物らと結託して逃げ出し、ようやく自由を手に入れた。その代わりに、今度は野生動物としての生存競争と、人間たちとの長い戦いに突入したわけだがね。自分のため、一族のため、俺は負けるわけにはいかなかった」
狼王が隅の暗がりを指差す。数人分の骸骨が転がっていた。
「だから、俺は人間を食うことにした。復讐の面もあるが、人間の力を少しでも手に入れたいというのが最大の目的だった。時には仲間たちにも食べさせた。すると不思議なもので、だんだん人間らしい知恵がつくようになってな。この時ばかりは、こんな特異な体に変えた人間に少しだけ感謝したものだ」
「だから、スクレも食べようというのか?」
「そうだ。初めて見た時からわかっていたが、お前たちは普通の人間とは違う。食べればきっと、俺は新たな力を手に入れられる。この国の新たな王として君臨するのも夢物語ではなくなるだろう。
もちろんロズ、お前の肉も残さず食わせてもらう。ここがお前の墓場であり、屠殺場となるのだ!」
ロズは自分の認識が若干甘かったことを後悔した。狼王は身を守るためではなく、戦うためにこの場所を選んだのだ。
狼王が、ずっと身に纏っていた似合わないワイシャツを脱ぎ捨てる。きっと、あれが彼の理性を象徴する衣服だったのだろう。脱いだ瞬間に筋肉が隆起し、目に映りそうなほどの殺気を放ち始める。
ロズは周囲の状況を確認した。天井は低く、空間の端から端までの距離は最長でも二十メートル程度。ヌエを弓に変形させる第二の型“蛇の道”は、この狭さでは隙が大きすぎる。そうなると、選択肢は棒術で戦う第一の型“猿の顎”か、もしくは――。
「行くぞ! 我が血肉になれ!」
狼王の叫びで意識を戻す。
狼王の初手は、右腕を大きく振りかぶっての突進。狼人のボスとしては平凡な攻撃だなと感じるも、目の前の巨体から繰り出されるパワーは身をもって味わったばかりだ。ヌエを構えながら距離を取る。
「つっ!?」
顔面に何かが当たる。小石だ。振り上げた腕に気を取られている隙に、狼王は足元の小石を蹴り上げていた。
まずい! 咄嗟にヌエを掲げて本命の振り下ろしを防ぐが、森で受けた攻撃とは重みが違う。意表を突かれたロズは攻撃を受けきれず、肩から腰に掛けて深い爪痕が刻まれる。
「あっぐ!」
熱い痛みに体が痺れる。
苦しむ間もなく狼王の猛攻が続く。ほんの少し手を伸ばせば触れ合う距離で、刃物のような鋭さを持つ爪が左右から襲い掛かる。森でぶつかった時とはまるで違う。本当の力を隠していた。
師匠との修行で懐に入られた場合の対処法も身に着けたが、それらが全く通用しないほどに速く、強い。
「フンッ!」ヌエをつかまれ防御が遅れる。相手は片手、こちらは両手だというのに力が拮抗している。
ほんの一秒程度の隙に顔面を三発殴られる。それでもヌエを離さないでいると、次は腹に膝蹴りを入れられる。血反吐を吐いてでも唯一の武器を手放すわけにはいかなかった――が、このままでは体のいいサンドバッグだ。
仮に武器を取り戻せたとしても、相手は自分より体が強く、おまけに知恵もある。自分より強い敵に出会ったことが無いロズの胸に焦りが広がる。
「彼を放せ、ケダモノ!!」
意識が朦朧とし始めたロズの耳に誰かの声が届いた。次に銃の発砲音が鳴り響き、狼王は大きく飛び退く。
「大丈夫か!?」声の主の姿をよく見れば、劉だった。おそらく向こう側が片付いたので、援護に来てくれたのだろう。
狼王は予想以上に手強いが、銃火器を装備した劉と連携すれば倒せないことは無い。ヌエを構え直し、勝機を見逃さないようにと狼王を睨む。
パァン! パァン!
発砲音。先に劉が攻撃を仕掛けたのかと思ったが、それは間違いだった。銃声が違う。
銃を撃ったのは狼王だった。ズボンの後ろにでも隠していたのか、小型の拳銃を抜いていた。決して良好ではない視界にもかかわらず、正確かつスピーディーに二人を撃ち抜いた。たまらずロズと劉は血を流しながらその場にくずおれる。
「人間から奪ったのは知恵だけではない。武器もだ。もっとも、お前たちのような死にかけには銃弾がもったいないので、これ以上は使ってやらんがな」
遠くから勝ち誇る声が聞こえるが、おぼろげな視界で姿がよく見えない。横を見れば劉が同じように倒れており、その顔からは血の気が引き始めている。彼は腹を撃たれたようだが、このまま手当てしなければ命が危ない。
「まだ死なぬか。フフ……頑丈な体をしておるわ。これは食うのに苦労しそうだ」
嘲笑混じりの声が降ってくる。
「う……あぁ…………」その声に向かって這いずるが、腕に力が入らない。
「大人しくそのまま眠っていたほうがいいぞ。俺はお前たちを恨んではいるが、見下すことも油断もしない。わずかな力を振り絞ったところで、お前が勝つということはもうありえない」
それでも這いずり続けるロズに、狼王はため息をつく。
「仮に俺を倒せたとしてもだ。俺の側近であり最初の妻が、食料の身柄を確保している。彼女には戦う術を叩きこんであり、その実力は群れの中でも俺に次ぐ。お前がその棒切れを振り回したところで、俺たちの大事な食い物を奪い返すことなどできないぞ」
その言葉を聞いて、ロズの腕が止まる。
「……そうか。その狼人まで強いのか」
「そういうわけだ。そのまま大人しくしていれば、俺が楽にしてやる。諦め――」
ロズが諦めたと思った狼王が歩み寄ろうとして、動きを止めた。ロズがヌエを杖にして起き上がったからだ。
「俺は、ずっと迷ってたんだ。これをやると正気を保つのが難しいから」
「何?」
「そこの狼人。スクレが大事な餌になるなら、きちんと守ってくれ」
「何だと訊いているんだ!」
「なあ、スクレ」狼王の怒号を無視して話しかける。「お前が見たがっていたもの、見せてやるよ」
主人のためにも、師匠のためにも、こんなところで負けるわけにはいかない。
覚悟を決め、ヌエを握る両手に力をこめる。
「ヌエ第三の型“虎の爪”」




