【その頃のネイサ】
「――サ様。ネイサ様!」
「――ハッ!?」
穏やかな日の光が差し込む窓から外を眺めること一時間。ビブリアの主であるネイサは、彼女の身の回りの世話をする使用人に声を掛けられ、ようやく正気に戻った。
「どうされたのですか、ぼんやり外を眺めて?」
「決まっておるじゃろう。あの二人のことだ」
「ああ、やっぱり……」
“あの二人”とは、言うまでもなく、ロズとスクレのことだった。
「ロズとスクレが異世界に旅立った」という報告を、彼女の家に送った密偵から受けたのは昼間のことだった。
ネイサは「あの二人が組むことなど絶対に無いだろう」と高をくくっていた反面、「しかしロズのことだから、思いもよらない行動に出るのかも……」という懸念もあった。だからこそ密偵を放っておいたのだが、思いのほか早くロズは行動に出たようだ。
「しかし、ネイサ様。差し出がましいですが、そこまで心配されるようでしたら、いっそ旅に出ることを禁止するべきだったのでは?」
「お前はわかっておらぬな」再び窓の外を見やってため息をつく。「旅に出ること、それ自体は何も問題は無い。いや、むしろ歓迎すべきじゃ。特にスクレは、旅を終えて、どんな本に成るのか非常に興味がある」
「ということは……」
「ロズのことじゃ。お前も、ロズがどんな子か知っておるだろう?」
「ええ、まあ……」使用人の表情が曇る。「でも、ロズに仕事を振ったのはネイサ様ご自身ですよね? それなら問題ないのでは」
「いや……マグテスにしばらく預けておいたから、もうすっかり分別をわきまえるようになったと思ったのじゃ。それが、聞いたところによれば、半ばスクレを誘拐するような強引な手で旅だったと言うではないか。時期尚早だったか……」
もう一度ため息をついて、窓ガラスが曇る。
翌朝、ネイサは使用人を一人だけ連れて、居城の裏手に回った。最も長くネイサに仕えている彼の両手にはいっぱいの花束が握られていた。
ネイサの居城の裏手、丘を下った先に三基の墓が立てられていることを知る者は少ない。さらに言えば、彼女が年老いた従者を伴って、定期的に墓参りに訪れることなど知る由もない。
「いつ来ても、ここの墓はきれいじゃな」
「ネイサ様がお創りになったこの世界は、大変居心地が良いですからな」
「そうじゃなあ。しかし、今のこの世界があるのは私の力だけではない。この世界を本気で憂い、反旗を翻した男。そして、この世界を守るために身を捧げた二人。あの戦いが無ければ、この世界は成熟しきって、腐っていたかもしれん」
ネイサは三基あるうちの中央の墓石の前にしゃがみ、服の袖で表面を拭いた。
“シックザール=ミリオン”と刻まれた文字が輝く。その左隣の墓には“アルメリア”と、右隣には“アンサラー”と刻まれている。
かつてビブリアでは、この国を揺るがす大きな事件が発生した。
首謀者は、かつてビブリアの守護者として生を受けたアンサラー。彼はネイサの「人間になりたい」という願望を知ってしまい、彼女からすべての国民を解放するため戦った。
一度目は遥か昔で、力及ばず別の小さな世界“繭”を作り、そこに逃げ込んだ。
二度目は数十年前、多くの仲間を引き連れてビブリアに侵攻し、ネイサを処刑する寸前まで追い込んだ。しかし当時のビブリアの守護者であるシックザールと、その従者のアルメリアの前に敗走し、繭の世界の中で息を引き取った。彼を追った二人を道連れにするような形で。
そのため、この墓の下に彼らの遺体は無い。おそらく、繭の中でとっくに朽ち果てているはずだ。
「私は身勝手じゃな」そう吐き捨てて口元を歪める。
「なぜ、そのようなことを」
「お前も知っておろう? アンサラーの言ったことは本当じゃ。私は人間になりたい。そして、その夢が叶うときは、この世界が終わるときじゃ。もはや全ての国民にとって周知の事実であるのに、それでも異を唱える者が現れないのは、結局私がこの世界全てを支配しているから。いわば、ビブリアそのものが人質と言ってもよい。
アンサラーのやり方は過激であったが、誰よりもこの国と、国民の未来を危惧していた。今でも時々思うのだよ。私はあの時処刑され、アンサラーたちに王の座を譲れば良かったのではないかと――」
「そのようなこと!」老いた従者は思わず大音声を上げ、慌てて口を手でふさいだ。「そ、そのようなことありませぬ。たとえこの世界がネイサ様の目的のために創られたとはいえ、あなたは国民を愛していらっしゃる。我々には、それで十分でございます」
「――そうか?」曇っていた彼女の表情がほころぶ。「お前は優しいな」
「めっ、滅相もございません。私はただ、国民を代表して申し上げただけであり……」そういう彼の皺だらけの顔が少し赤く染まる。
「ああ、わかっておる」ネイサは花束を受け取ると、それぞれの墓石の前に供えた。「この三人だけではない。私が生み出した全ての子供たちに誓って、より良い国づくりをしなければな」
二人は簡単に墓石を磨いてきれいにすると、他の使用人たちが目を覚ます前に居城の中へと戻った。
「それにしても」従者がだしぬけに尋ねる。「以前お墓参りをしてから、随分期間が短かったですが」
「ああ、それはだな」ネイサは少し逡巡して答えた。「やはり、ロズの影響じゃろうな」
「……なるほど。そういうことで」得心したとうなずいた。
さらに翌日。つまり、ロズとスクレが異世界に旅立って三日目。
ネイサが目を覚ましたのは昼前だった。それも、心配になって様子を見に来た装者に起こされて、ようやくといったところだ。
「珍しいですね。ネイサ様が寝坊されるだなんて」
ネイサはひどく寝不足だった。前日の墓参りによってロズのことを強く意識してしまった影響か、夜になると初日以上の不安に駆られてしまったのが原因だ。
「ほらほら、髪もボサボサで! 女王として示しが付きませんよ!」
「う~……わかっておる」
食事から着替え、身だしなみを整えるまで、使用人たちの手によってサッサと済まされる。ネイサはされるがままの人形の気分になっていた。もっとも、自業自得なので文句も言いづらい。
居城の一角を図書室として開放した結果、多くの国民が訪れるようになった。アンサラーによってネイサの目的が暴露され、国民との関係修復の一環が主な目的である。国民との触れ合いが増えた点はいいとして、女王としての振る舞いがそれまで以上に問われるようになったのは、本来堅苦しいことが苦手なネイサには面倒ごとでもあった。
この日もシンプルだが上質なドレスに着替えさせられ、訪れた客たちの前に姿を見せる。普段はマナー良く、静かに本を読む客たちも、この時ばかりは色めき立つ。ネイサとしては早く自室に戻って自分の本を読みたいところだったが、この日は珍しい顔を見つけた。
「マグテスではないか!」
「あら、見つかってしまいましたか」
図書室の奥の席に座るマグテスは、大判の本で自分の顔を隠していた。
「何もこそこそする必要はなかろう。失礼ではないか」
「あ、いやあ……ネイサ様には何かとご迷惑をかけていますし、それに……」
「ほう、料理の本か。食べ物にはどちらかといえば無頓着ではなかったか? その腕ではなおさらであろうし、何ならロズに作らせればよかろう?」
「はは……ごもっともですが、たまには、私の手で作りたいのです。それに、そろそろ彼らが帰ってくる予感がするので」
「まだ三日目ではないか。気が早いな。確かに、早く帰ってきてほしいという気持ちもわからんでもないが……」
これ以上寝不足になっても困るしなという気持ちが言葉の裏に隠れていたのだが、マグテスのほうは、自分が弟子離れできていないのだと指摘されたのだと勘違いしたようだ。恥ずかし気に顔を隠そうとする。
「まあよい、邪魔したな。貸し出しは向こうのカウンターじゃ」
「ありがとうございます。このことは、ロズ君には内密に……」
その後はさっさと自室に戻り、途中読みになっていた本を開いた。その本を読み終えた頃には日が落ち始めており、図書室を利用していた客たちが帰路につく後ろ姿が窓の外から見える。その最後尾にはマグテスの姿もあった。
「……初仕事の祝いが、おじさんの手料理だけというのもつまらんだろうな」
ネイサはタンスの中から赤いラッピングの小さな箱を取り出すと、部屋を飛び出す。近くにいた使用人に抱っこしてもらい、胸に箱を抱き、マグテスの痕を追いかける。すぐに追いつき、振り返ったマグテスは目を丸くしていた。
「驚かせてすまんな。これ、私からのプレゼントと、ロズに渡しておいてくれ。じゃ、頼んだぞ」
「え、ええ……」
その言葉とプレゼントを押し付けるように渡し、さっさとその場を後にする。
喜んでくれるだろうか? それ以上に、役に立ってくれるだろうか?
ロズは紛れもなく、特別な問題児だ。
しかし、我が子がこうして、男として独り立ちしようというのに、知らんぷりというわけにもいくまい。あの子を手放した今、自分にできるのはこんなことくらいだ。
「……ネイサ様。その複雑な表情は、一体」
「勝手にのぞき込むな、馬鹿」
顎にパンチを食らった使用人がよろめき、ネイサもろとも花畑に倒れ込んだ。




