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【その頃のマグテス】

挿絵(By みてみん)

「マグテス。今日はなんだか、妙に静かじゃないかい?」

「ああ。それはきっと、ロズ君がいないからじゃないですかね」

「なるほど。どうりで」


 マグテスと、彼とは旧知の仲である装者が、応接間で茶を飲んでいた。ロズがいないため、家事はすべて一人で行わなければならない。左腕を失ったマグテスには不便だったが、渡りに船といったタイミングでの来客だった。マグテスは、友人がただ茶を飲みに来たのではなく、ロズを送り出して一人きりになった自分を心配して来てくれたのだと理解していた。


「それで、どうなんだい? ロズ君の調子は。彼は生まれた時からの問題児だったからね。いくらお前さんでも手を焼いているだろう?」

「確かに手はかかりますが」マグテスは茶を口に含み、口元を緩めた。「その分可愛く感じるのですよ」

「そういうものかね? 儂にはよくわからん」

「なあ、チャット。君も弟子を取るのはどうですか? もう一線を退いてもいい年齢でしょう」

「馬鹿を言え! 儂はまだまだ現役だ! 自分の引き際くらい、自分で決めるわい」

「わかったわかった。謝りますよ。でも、無理をしても割を食うのは白本の皆さんですからね」

「言われんでもわかっとる。儂が仕えるのは、せいぜいあと一人だろうな。今更になって思うが、お前さんのように手に職を持つのも良かったな。両腕がそろっていれば、お前さんは死ぬまで刺青師として活躍できていただろうに。やはり、未練はあるのか?」

「そんなものはありませんよ。私はもう、立派に務めを果たしましたから」

「そうか……それもそうだったなあ」


 それからも二人は取り留めのない話をしながら時間を潰した。

 装者と言えど、老化には勝てない。マグテスの友人も最近は誰かの従者になる機会がめっきり減り、暇を持て余す日が増えていた。つまり、二人とも非常に暇だったのだ。

 話題が無くなれば、異世界から持ってきたボードゲームを遊んだり、庭で軽くチャンバラしたり、また茶を飲んだり。

 日が落ち、チャットが帰宅の途に就くころには、二人は五杯ずつ茶を飲んでいた。


「じゃあな。風邪ひくんじゃねえぞ」

「君こそ」


 たまにはロズ君のことを気にせず、友との時間を過ごすのもいいものだ。友人の後ろ姿を見送りながら、そんなことを思っていた。




「ああ……ロズ君は本当に大丈夫だろうか……」


 ロズがスクレと旅に出て二日目。早くもマグテスの心労はピークに達していた。


「病気にかかっていないだろうか……危険な目に遭っていないだろうか……スクレさんとは上手くやれているだろうか…………」


 いつもより早く目が覚め、朝食も取らず、特に意味もなく部屋を歩き回る。空腹に気づいて食パンをひと切れトースターに突っ込むが、ぼんやりしているうちに炭になってしまった。家の前を歩いていた人が火事かと勘違いして飛び込む寸前だった。


「そういえば、ロズ君を引き取ってから初めてだな。彼がこの家にいない日が来るのは」


 改めて焼き直したトーストをかじりながら気づいた。


「ロズ君がようやく一人前になったことを喜ぶべきですが、うーむ。師匠というのは複雑な立ち位置ですね。人間の親というのも、子のような気持ちなのでしょうか」


 いつの間にか一枚平らげ、自分の指に食いつこうとしていた。


「……とにかく、これでは師匠として不甲斐ない。ロズ君が帰ってくる前に、シャンとしておかなければ!」




「……その結果がこれかい? 気になって顔を出してみりゃ、こんな惨状になっていたとはなあ。お前さんのイメージが、儂の中ですっかり変わってしまったよ」

「……面目ない」


 ロズが異世界に旅立って三日目。ロズとマグテスの暮らす家は荒れつつあった。床には物が散乱し、戸棚は開きっぱなしになり、まるで空き巣にでも入られたような光景になっていた。


「いや、やっぱり片腕での生活というのは難しいものですね。ロズ君のありがたみがよーくわかりましたよ。あはは」

「『あはは』じゃねえだろ! お前、明らかに腑抜けてるぞ!」

「ん、そうですかね? 私はいつも通りのつもりですが」

「自覚なしか……。子離れというか、弟子離れのできてねえ師匠だな……。ほら、儂も手伝ってやるから、さっさと片付けんぞ!」


 チャットの手伝いもあり、片付けはあっという間に終わった。


「ありがとう、助かりましたよ。さすが現役の装者だ」

「いや、何も大したことはしてねえよ。それより、この家もそうだったが、お前さんもなかなかひどい顔をしてるぞ」

「そうですかねえ?」自分の頬に手を当ててみると、少し頬の肉が薄くなっている気がする。

「まともなもの食ってねえだろ。明らかにやつれてんぞ。それに、一昨日と全く同じ服装だし、体もちょっと臭う」

「そ、そうですかね……?」自分の体を鼻を近づけていると、チャットはわざとらしくため息をついた。

「しゃあねえな。胃に優しいものを作っといてやるから、お前さんは風呂でも入ってこい」

「……面目ない」


 マグテスが溜まった汚れを落とし、温まった体でダイニングに行くと、丼が二つ置いてあった。食欲をそそるだしの香りに、立ち上る湯気。太くて白い麺が、透き通ったつゆの中で身をくねらせている。


「おお、“うどん”だったかな。久しぶりにお目にかかる」

「こんなことになってるだろうと思って、家から材料を持ってきたんだよ。安いし、美味いし、体に優しい。ちょいと柔らかめに茹でておいたからな」

「重ね重ね、申し訳ない。それじゃあ、さっそくいただきます」


 箸で麺を二本だけ挟み、ちゅるると吸い込む。萎れていた体に活力が蘇ってくる気分だ。


「う~ん、美味しい。体に染み渡る」

「大げさな奴だぜ。こんな手抜き料理で」そう言いつつ、チャットもまんざらでもない様子で自分のうどんをすする。一度に五本勢いよく吸い込み、丼の周りにつゆが飛ぶ。


「チャットさん。家をきれいにしてもらって言いづらいですが、行儀が悪いですよ。そんなにこぼして」

「いいんだよ。うどんとか麺類ってのはな、派手にすすって、派手につゆを飛ばすのが礼儀なんだ。儂が行った異世界じゃ、ほとんどがそうなってた。スタンダードというやつだ」

「ほお、すたんだーど?」箸でつまんだうどんをまじまじと見つめる。「そうだったのか。君は物知りだな」

「お前さんより多くの世界を回ってきたからな」自慢げにニカッと笑う。


 二人でうどんを平らげた後、マグテスに何度も礼を言われながら、チャットは自分の家に帰った。いつ仕事をもらってもいいように、自己流のトレーニングを毎日欠かさないらしい。


「うむ。私もしっかりしなければな!」


 食器を片付けると、急いで外出着に着替えた。




「師匠、ただいま帰りました!」


 その日の晩にロズは帰ってきた。


「おかえりなさい。ずいぶん早かった……ど、どうしたんですか!? その傷は!」

「あ、これは……」

「ああ、いいからいいから! 早く手当てしないと!」

「し、師匠! 大丈夫ですから! 俺の回復力の強さは、師匠もよくご存知でしょう!? とっくに傷は塞がってますから!」

「た、確かに……。でも、一応消毒はしておきませんと。刺青を彫るのだって、炎症や感染症の危険性に配慮しているんですから」

「あー、わかりました。よろしくお願いします」

「よろしい。それで、ロズ君。お腹は空いていませんか?」


 それから三十分後。リビングでは、昼間の再現のように、二杯のうどんがテーブルの上に置かれていた。


「うわっ、珍しい! ていうか、初めて食べるかも!」

「さあ。伸びないうちに食べてください」

「はい、いただきます!」


 さすがは若いロズ。チャット以上にハイペースでうどんをすする。


「うーん、美味いっす!」

「それは良かった。腕によりをかけて作りましたからね」

「え? こんなシンプルな料理のどこに……あっ!」

「そういうことです。実は、自分で手打ちしてみたんですよ」


 昼間、マグテスがまず向かったのはネイサの居城だった。居城の一角は図書室になっており、毎日多くの人々が訪れる。蔵書の中には料理に関する書物も多く、彼はそこからうどんの打ち方を覚えた。その後は店で材料を買い、いつロズが帰ってきても馳走できるようにと支度をしていたのだ。

 その甲斐あってか、ロズは実に美味しそうにうどんをすすり続けている。


「ほら。師匠も早く食べたほうがいいですよ」

「ええ、そうですね。それでは――」


 マグテスはうどんを三本つまむと、一息にちゅるるっとすすった。彼の丼の周囲につゆのしずくが飛ぶ。


「ちょっ、師匠。行儀が悪いですよ!

「おや、ロズ君は知らなかったのですか? うどんというのは、こうやって食べるのが正しい作法なんですよ。これが世界のスタンダードなんです」

「えっ? マジっすか?」

「はい。マジです」

「ふーん」


 ロズは疑いながらも、先ほどのマグテスをまねてうどんをすすった。ずぞぞっと音を立て、派手につゆが飛ぶ。


「……言われてみると、こっちのほうが美味く感じるかも」

「そうでしょう?」

「うん……ずぞぞ……うん……やっぱり美味い! さすが師匠、物知りっすね!」

「ふふ……まだまだ麺は残ってますから、いくらでもおかわりしてくださいね」


 ロズ君の初仕事のお祝いとしては地味だが、これはこれで悪くない。そう思いながら、うどんを茹でるための湯を沸かし始めた。


「あれ、師匠。あの箱は何ですか?」


 あの箱とは、あの赤いラッピングの“あの箱”のことだろう。


「開けていいですよ」

「そうですか? じゃあ遠慮なく――」


 箱の中に何が入っているのか、実は知らない。でも、きっと、いいものが入っているに違いない。

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