九話【スクレの後悔】
「……う……ん……」
混濁していた意識が少しずつ目覚めていく。それと同時に、スクレは少しずつ自分の置かれている状況を理解し始めた。
そこはどこかのビルの屋上だった。景色からして、おそらく十階ほど。ここより高いビルは少なく、地上にいた時よりも空が近くに感じる。
立ち上がろうとして、それができないことにも気づいた。落下防止のために立てられたフェンスに、後ろ手に縛られている。試しに手を動かしてみるが、びくともしない。無理に力をこめれば、半分紙でできた体だ。手首から千切れてしまうかもしれない。
「……五十嵐さん!」
隣を見れば、同じように縛られている五十嵐が座っていた。スクレとの違いは、彼にだけ暴力の痕が残っていることだった。顔は腫れ、鼻や口には乾いた血が付いている。
「……おお、嬢ちゃん。やっと気づいたか」
気絶していたのか、ここでようやく五十嵐はスクレに気付いた。
「気付いたかって、五十嵐さんこそ今まで気絶してたんですか!? それに、ひどい傷ですよ!」
「ははっ……あんなひよっこの暴力で気を失うなんざ、やっぱり年齢には勝てねえなあ……」
「あの男にやられたんでしょう? 父親のあなたに言うのもなんですが、ひどい人間じゃないですか! 隙を見て逃げ出すか、反撃しないと……」
ゾッと背筋が凍り、言葉が途切れた。あの男……正太郎が屋上に上ってくる気配がする。その後ろには、複数の人間の気配。
ガチャ
塔屋のドアが開く。現れたのは、やはり正太郎と、彼より少し年下の男が五人だ。正太郎もなかなかの悪人面だが、その他五人の男も引けを取らず、さらに知性もあまり感じられない。いわゆるチンピラの風体だ。
「ちょうどよかった。二人ともお目覚めか」先頭の正太郎が歩み寄りながら下卑た笑みを見せる。
「そいつらが、お前の今の友達か? 還暦過ぎた親を殴る息子には、お似合いの友達みたいじゃないか」
「だろう? 俺にとっちゃ、口うるさいクソ親父よりも大切な友達だよ。そして、これからは戦友になるんだ。この世界をひっくり返す、な」
「……まったく。こんなことなら、お前を力づくでも刑務所にぶち込んでやればよかったぜ。こんな出来損ないの息子が暴れだした日にゃ、恥ずかしさで死んじまいそうだ」
「そうかい。だったら望み通りにしてやろうか? ダメ息子からの親孝行だ」
正太郎の蹴りが五十嵐の顎を蹴り上げる。無防備に晒された腹にも蹴りが入れられ、靴の先がみぞおちにめり込む。その後何度も蹴りを入れるが、五十嵐はうめき声一つ上げずににらみつけるだけだ。
「さすがに打たれ強いな」
「フン。儂が現役時代に張り合った悪党どもと比べりゃ、お前の蹴りなぞ猫のパンチと同じよ。儂の悲鳴を聞きたけりゃ、刃物か銃でも持ってくるんじゃな」
「……この状態で、随分減らず口を叩きやがる。まあいい。これまでの恨みつらみをじっくり叩き込んでやるよ」
「なーなー、ショウさん」
五人のチンピラの一人が正太郎に話しかける。正太郎は自分の名前にコンプレックスを抱いているらしいので、ショウと呼ばせているのかもしれない。
「今日は決起会って聞いたのにさー。こんなところに呼び出されたと思ったら、オヤジをのしてるところを見てるだけ? ショウさんは楽しいかもしんないけど、俺らは退屈だよー?」
「ああ、悪かったな。ちょい待ち」正太郎は五十嵐の髪をつかんで顔を近づける。「あいつらはケンカや万引き程度は気兼ねなくこなすんだけどな、それ以上の経験は少ないんだ。だけど、俺の革命を手伝うには悪さが足りない。そこで考えたんだが、こういうのは勉強やスポーツと同じで、徐々にステップアップしていくべきだと思うんだよな。
それでテンプレなんだが、やっぱり女を襲うのが一番だよな。良心の枷が一個外れるし、スッキリする。それに、せっかくの客人が目の前で嬲られるなんて、元警官のあんたにとっ
「き……さま!」
「さあ、お預けはここまでだ。お前ら、その女好きにしていいぞ」
リーダーの許しを得て、五人の男たちが迫りくる。餌を前にして何分も待たされた犬と違うのは、いかに目の前の餌をしゃぶりつくすことができるのかを考えていることだ。手に手にハサミやグロテスクな道具を持ち、フェンスに張り付けられたスクレを囲う。仮に手の拘束が外れたところで、この男たちの間を抜けることはできそうにない。
「とりあえず剥いちゃおうと思うんだけど、異議ある?」
「異議なーし」
「はい、満場一致。それじゃ、始めさせていただきまーす!」
スクレの正面に立つ太った男。右手にはハサミを持ち、左手で服の裾をつかむ。
ああ、だから嫌だったんだ。また異世界に行くなんて。
ビブリアを出なければ、こんな脂ぎった男たちに襲われることなんてなかった。ロズに大切な指輪を握られることもなかった。こんなくだらない親子喧嘩を助長することもなかった。
ああ、嫌だ――嫌だ――ダメなんだ――あたしという存在は――あたしなんて――――
眼の光が失われていくのが自分でもわかる。
そしてその目には、目の前でポカンと口を開ける男の姿が映った。服を切ろうとする手を止め、スクレの顔――ではなく、その向こう側に視線を向けている。残る四人も同様だ。彼らの顔は黄色い光に照らされ、ニキビやほくろまでくっきり見える。
「バ……バケモノ……」
何とかそれだけ発した男たちは、上から降ってきた五本の光る棒に押しつぶされた。
よく見れば、それは巨大な指だった。指は黄金色に発光し、向こう側が若干透けて見える。指先には、たった今蚊のように潰れた男たちの血が付着している。
「ス……ク……レ……」
自分の名を呼ぶ声が聞こえる。涼しく、しかし母親のような温かさもある。
唐突に手が自由になった。振り向けば、もう一方の巨大な手が爪で縄を断ち切っていた。
「あなたは……」
体に付いた埃を払い、スクレは黄金色の存在を仰ぎ見る。
そこに立っていたのは、黄金色に光る半透明の巨人だった。顔から体に至るまで、マネキンの素体のように滑らかな曲線を描いている。その体つきと、長い髪から女性ということがわかる。
巨人が無言で手を差し出す。その手に触れた瞬間、スクレはこの存在が何なのかを察した。
「あなたは……あたしの守護霊なのね。あたしの分身……」
自分の体ほどもある指をぎゅっと握ると、巨人が口角を上げたように見えた。




