#2「シャ・ノワール」〈前編〉
こんにちは。今回のお話は、私こと暖猫が担当させていただきました。
ちなみにお気付きの方はいらっしゃるでしょうか。このお話、作者も全員(二人だけですが)猫です。
別にこのお話に合わせて変えた訳ではなく、一年以上前から猫(ネコ)を付けて活動しております。ちょっと猫成分過多ですね。
目が覚める。
再び意識がまどろみの闇へと沈み込もうとするのを、欠伸を一つして無理矢理耐えると、力一杯まぶたを押し上げた。
我が家の屋根の隙間から、日が差し込んでいるのが分かる。今日は晴れのようだ。つまり、出掛けなければいけない。
彼女は再び大きく欠伸をすると、のっそりと我が家から這い出る。
朝日を浴びて、彼女の美しい黒い毛が、艶やかに光った。
ぱちぱちと眩しそうに瞬きをするその目は、これまた美しい黄色。と言っても、月や黄金のような黄ではない。
例えるのであれば、曇った色ガラスや、使い古された500円玉のような、濁った黄色。
それでも、瞳の黒と相まって、彼女の目は確かに美しかった。
彼女がたった今出てきた我が家には、大きく[産地直送 美味しいみかん]と書かれている。
彼女にもそれが文字と呼ばれるモノなのは分かるが、意味はよく分からない。
ぴんと立った不自然に短い尻尾が、苛立つようにゆらゆらと揺れた。
シャノ。漆黒と、それに浮かぶ僅かな光を彷彿とさせるような美少女。
ただし、猫である。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
シャノは家の少し近く、人間達が『コウエン』と呼んでいる、木や金属がたくさん生えた場所へやってきた。
やっと日が昇ったばかりの、まだ涼しいコウエンに、人間の気配は殆ど無い。
少し冷たい空気を思いっきり吸い込むと、曇っていた頭が少し冴えていくのが分かった。
いつも通りの朝。
もう一度大きく深呼吸をすると、シャノは目的の場所へ歩き始めた。
少し歩くと、鉄でできたテツボウの木がある。
しかし、目当ての木はこれではない。その奥に生えている、大きな茶色木の実の木だ。
遥か上の木の枝から、小鳥達がぴいぴい鳴く声が聞こえ、思わず口の中に唾が湧く。
が、残念ながら、彼女の木登りの腕では、あんな高い場所まで行くことはできない。もしもこの尻尾が無傷だったら、また別だったかもしれないが。
待っているだけで餌の貰える小鳥達のことを妬ましく思いつつ、シャノは耳をぴんっと立て、鼻をすんすんと鳴らす。
風に落ち葉が擦れる音。遠くで犬が吠える声。鳥の雛がけたたましく騒ぐ音。
ふと、乾いた冷たい匂いの中に、暖かな生命の香りを感じ、シャノは後ろ足にぐっと力を込めた。
あの鳥の雛のものでは無い。
シャノ自身のものでも無い。
そう、シャノから丁度、テツボウの木一つ分くらいの幅のところ。
茶色木の実を齧りながら、ちょろちょろと動き回る何かが……
瞬間、シャノは後ろ足をバネのように押し出し、それに向かって飛びかかった。
「キュッ!?」
ふわふわの茶色い尻尾を生やした、小さな生き物が前足に当たる。
シャノの鋭い爪が、その生き物の毛を掴む______が、捕らえきれない。するりと爪の間を抜けて行く。
慌てて追いかけるも、小さくすばしっこいその生き物に、大きなシャノが追いつけるはずもない。
「ああ、全くもう……」
シャノは小さく唸ると、空きっ腹を抱え、木の根をガリガリと引っ掻いた。
古くなった爪がぽろぽろと落ち、どんどん鋭く尖っていく。
「ガゥ!ガウガウガウッ!」
「!?」
いきなり、後ろから吠え声が聞こえた。
バッと後ろを振り向くと、そこにはシャノの軽く三倍ほどはあるだろうかという、大きな犬が。
犬の首には赤い首輪が嵌り、その先には赤い紐が伸びている……が、本来その先でこの犬を縛り付けておくべきはずの、人間がいない。
「バウッ!バウバウ!」
まだ、自分のように独りで生きている野良犬の糧になるのであれば、それならば少しは納得できる。
しかしこの犬は、暖かい室内で、美味しい食事をたらふく食べているのだ。
そんな飼い犬ごときに、みすみす殺されてやる自分ではない。
シャノは目の前の木の幹に爪を立てると、スイスイと上へ登って行く。
「バウッ!バウッ!」
犬は木を登れない。でも、猫は登ることができる。
普通であればそうだ。シャノは、逃げ切れるはずだった。
しかし、高く登るにつれて、シャノの中で恐怖が膨らんでくる。
猫というのは、空中でも上手くバランスをとって体を捻ることにより、高所からの着地をやってのける生き物だ。
もしも落ちてしまったら、昔の喧嘩で尻尾を半分ほどちぎられてしまったシャノは、きっと無事では済まない。
背後で犬がジャンプをする気配。
尖った牙が、シャノの短い尻尾を掠める。
「あっ……」
右の爪が、上手く幹に引っかからない。体重を支えきれず、シャノは真っ逆さまに落ちていく。
短い尻尾を駆使して、なんとか足から着地しようと試みるが……あと少し、捻りが足りない。
なんとか足で着地はできたものの、大きくバランスを崩したシャノは、固いコンクリートの上で転んでしまった。
目の前には、大きな犬が迫り……
「こらー、ジョン!待ちなさい!」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
結果だけを言えば、シャノはギリギリのところで助かった。シャノが噛まれる寸前、人間があの犬の首根っこを掴んだのだ。
だからシャノは生きているし、生きているならお腹が減る。
しかも木登りをしたり、あの場から急いで逃げたりと、いつもよりも大幅に体力を使っている。しかも朝ご飯にはありつけていない。空腹で倒れそうだった。
「ほんとにもう、なんて日よ……あたしが何したってのよ、全く……」
食事のアテがあるわけでもなく、ふらふらとシャノが住宅地を歩く。
と、前から何かがやって来た。白い毛で、四足で歩く誰かだ。
また犬か、それとも今度はイタチかとシャノが身構える。
「あの、大丈夫?」
牙がくるか爪がくるかと警戒していた彼女にたいして投げかけられたのは、そんな丁寧な言葉。
見れば、目の前には真っ白な毛並みが美しい、オスの同族が、魚を咥えて立っていた。
心配そうな色をたたえた瞳は、まる空のように美しい青。
「……何、あたしになんか用でもあるわけ?」
この地域には、その広さに対して住んでいる猫が多すぎる。
なので、基本的にナワバリ云々を持ち出す猫は少ない______が、もちろん、例外も多々いる。
言葉が通じるからといって、安全だとは限らないのだ。シャノは前足に力を込め、逃げる準備をする。
「なに、どうしたのよ?びっくりするじゃない、いきなり立ち止まらないでよ!」
するとさらに、オス猫の後ろから、彼にそっくりな白猫が顔を出した。これまた青い目をして、魚を咥えている。しかし、こちらはメスのようだ。
「いや、この子がふらふらしてるから、大丈夫かなー、って」
「え、誰よこの黒猫……ねえ、アンタ何?」
どうやらメス猫の言葉の後半は、自分に対して投げかけられたものらしいとシャノが気づくのに数秒。何しろ、他人(猫だが)と話すのは久し振りなのだ。
……しかし、アンタ何と聞かれても。アンタらこそ何だ。
「ねえ、聞いてんの?」
「……別に、わざわざ答える必要はないでしょ?」
「はあっ!?ちょ、ちょっと何よソレ!」
「まあまあ落ち着いてよ、ユキ……
ごめん、この子、悪い子じゃないんだけど……」
「何よ、子供扱いしないでよ!」
シャーシャーと喚く白猫達に背を向け、シャノは歩き出そうとする。
シャノの尻尾は朝から収まらない苛立ちを隠すこともなく、ゆらゆらと揺れている。
「あ、ちょ、ちょっと待ってよ!」
オス猫が追い縋ってくるのを感じ、シャノは歩く速度を上げる。
空腹で倒れそうだというのに、わざわざこいつらに構ってやる必要もない。
「あの、これ、あげるから!食べない!?」
……シャノの足が、逡巡するように止まる。
「……魚なんて、鳥とかが食べる物でしょう?猫はその鳥を食べるの。魚なんて生臭いもの」
魚が美味しいことは知っている。が、迷いを断ち切るためにも、シャノはそんな言葉を吐く。
「いや、結構美味しいわよ?」
「……ふーん、やっぱ美味しいって思ってたんだ?」
「なっ!?ち、違うし!食べれなくもないってことだし!」
また、白猫二匹が喚き出す。耳が痛い。頭も。
シャノは再び歩き出そうと足を前に出し……
意識が、暗転した。