猫、踏んづけた。
この学校に入学してから約一ヶ月。
あたしは同級生から虐待を受けていた。
「ほら、もっと泣きなさい」
白井さんはそうあたしに促し、手を振り上げる。そして、その手はあたしの頬との衝突で間もなくパンという音を奏でる。
「――ンッ!」
頬に痛みを刻み込まれ、条件反射的に彼女を見上げる。その口もとは愉悦に歪んでいた。
「なんて目で見るの、黒石さん」
あたしの名を呼んで、じりじりと詰め寄ってくる白井さん。その吐息が耳元で感じられる距離で、そっと囁かれる。
「……そんなに気持ちよかった?」
あぁ。そんなつもりはないのに。
あたしの心臓はドキンと跳ね上がった。まるでその言葉を待ち焦がれていたかのように、身体が勝手に反応してしまう。
「ふふっ、もっとしてほしいんでしょ? 正直になさい」
再びその手があたしの身体に痣をつくってゆく。その痛みに溺れて、あたしはあたしという感覚がやがてなくなってゆく。そして、そうなることでやっと、あたしは彼女に認められた気分に浸ることができるのだった。
暴力的な刺激に身を任せると、やがてそれとはまったく別の甘美な刺激が訪れた。
柔らかな感触。
白井さんのキスだった。
「女同士なのにこんなことしているなんてね。そんな惚けた顔して、貴女は恥ずかしくないわけ?」
やがて骨を抜き取られたようなまどろみに世界が白く染まる。まるで自分が人形になってしまったような恍惚状態の中で、白井さんの最後の言葉があたしの脳を溶かした。
「…………気持ち悪い」
あの日。
あたしはとても緊張していた。
入学式。初登校日。
それは誰もが新たな場所への不安を抱えて迎えるものだ。けれど、あたしにとってそのイベントは、他の一般生徒よりもっと深刻な事情があるのであった。
生まれてこの方、あたしは友達というものに恵まれなかった。他人と接することが昔からあまり得意じゃなかったのだ。
だから、この高校入学を気に、あたしは自分を改めてようと意気込んでいた。友人をつくって、楽しい高校生活を送るというのが算段だった。
朝のホームルーム前、まずあたしは隣の席に座る人と絶対に友達になろうと決めた。列順からして、隣が同性なのはわかっていた。まだ見ぬ彼女は、まだ登校していなかった。
(まずは挨拶から……まずは挨拶から……)
呪文のように心の中で唱えてゆく。
約数十回の永唱の末、やがて艶やかな長い黒髪を備えた流麗な少女が隣の席に腰を下ろした。あたしはグッと握り拳で気合いを入れ、勇気を振り絞り彼女に向けて声をかける。
「あ、あのっ」
「…………なにか?」
見るからに怪訝という感じで見つめ返される。あたしはうろたえながらも先を続けた。
「お、おはようございますっ!」
どもったが、ちゃんと言えた。
挨拶をするのは別に普通の行為であるから、胸を張っていいはずなのに、あたしはなぜか小さく俯き気味になる。
「…………えぇ、おはよう」
彼女は悠然と返してくる。そして、そのまま何もなかったように本を取り出して読み初めてしまった。
あまり社交的な人ではないのかも知れない。けれど、それに何となく親近感を覚える。
相手がどんな人でも関係ない。
あたしは決めたのだ。まず初めに、隣になったこの人と友達になるって。
何か話さなければ、また声をかけづらくなってしまう。そう思って「何か……何か……」と考えた末、あたしの心から最も素直な言葉が、ポロッと彼女に向かって転がり落ちていた。
「あたしと、友達になってください!!」
しばしの沈黙。
あまりにも静かなのでふと辺りを見渡すと、雑談をしていた周りの生徒たちがこちらに向けて視線を寄せていた。それであたしは自分が思ったよりも大きな声を出していたことに気がつき恥ずかしくなる。けれど、今更自分の言葉を引っ込めることなんてできるはずもない。
やがて、沢山の視線を受けながら、その少女は急にニヤリと口元を歪めた。
そして――あたしに顔を寄せ、優美に囁く。
「どんな目みても知らないわよ」
それが、あたしたちの出会いだった。
擦り切れてヒリヒリと脈打つ傷口に血がにじむ。
「黒石さんかわいそう、舐めてあげるわね」
傷口に白井さんの唾液が浸み込んだ。その痛みに思わず身体をビクンと震わす。そしてあたしのその所作が、より彼女を喜ばせる結果を産む。
「可愛い反応……吐き気がするわ」
白井さんはとても嬉しそうに微笑む。あたしはそれを見て、なぜだか細胞が沸き立つような幸福感を覚える。
入学式の日に声をかけてから、あたしは毎日のようにこの身を白井さんに授けてきた。その日々の中でわかったことは、彼女も昔のあたしと同じように人との付き合いがあまり良くないということだった。
なぜなら、こんなあたしと、いつだって一緒に付き合ってくれているのだから。
「ねぇ白井さん。白井さんは、どうしてこんなことをするの?」
それは、ほぼ無意識に出てきた言葉だった。受け取りようによっては嫌味にも聞こえるそれは、けれどあたしが一番気になっていることだった。
白井さんはあたしが口を利いたことに興奮したのか、いつもより強く腕を掴んであたしの身を引き寄せる。そして、激しく噛み付くようなキスを唇に仕掛けた。
「――イッ!!」
「あら、痛いんじゃないでしょ? 何度教えればわかるのかしら……。ほら、言ってごらんなさい。『最高に気持ちいいです』って。はい」
「さ、最高に、気持ち、いぃ……です」
「『白井さんにもっともっと蔑まれたいです』。はい」
「白井、さんに……白井さんにもっと、もっとぉっんんっ!!」
ゾクゾクと内蔵が歓喜の声をあげる。喉元から、悦楽の塊みたいな言葉が誘発されてゆく。
「あら、どうしたの? もっと……どうされたいって?」
「もっと虐めてっ、もっともっと、白井さぁんっ!」
「ふふっ、ホント気持ち悪い子。ご褒美に、もっともっと可愛がってあげる」
白井さんの暴打はいつまでも続く。あたしのその快楽も、果ても知らずにどこまでも続いていった。
「さっきの質問だけれどね」
唐突に、白井さんがそう切り出す。あたしは痛みで恍惚としていて、自分がさっきまでしていた質問のことをすっかり忘れてしまっていた。
「『痛み』って、人となすりつけ合うものだと思うの」
なぜだかとても嬉しそうに、白井さんはそう語りだす。
「私は両親からそういうふうに教わったわ、体現的にね。父は母、母は私。そして……私は猫」
……猫?
「昔、猫を飼っていた頃があるの」
脈絡のない単語に少し戸惑う。けれど白井さんはその先をよどみなく続けた。
「一匹、ポツンと捨てられた黒猫だった。私はそれを、ストレスのはけ先としてよく蹴って、殴っていたわ」
思い出を慈しむような声音。そこには、今まで見たこともないような穏やかさがあった。
「黒石さんはその時の猫にとてもよく似ているの」
そこで、彼女の視線があたしを向く。その眼差しに内在した何か熱いものを感じて、あたしは疼き出す身体を必死で慰める。けれど、あたしの口だけはその自制をかい潜り、彼女の真意を求めてしまっていた。
「その猫は、最後どうなったの?」
わずかに顔を綻ばせ、そしてまた穏やかに白井さんは答えた。
「いつのまにか死んでいたわ。けど、その死に顔が、私にはとても穏やかなものに見えた……」
そして、白井さんのしなやかな手があたしの髪をわしづかみ、グッと引き寄せる。
「きっと、貴女もいっしょね」
被虐心をくすぐるように脳を揺らされる。その、ともすれば人体に影響をきたすほど濃度の高い甘言で、再びあたしは身を震わされる。
「初めて声をかけてきた時の、あの甘えるような鳴き声も全部そっくり……。だからこうして、私は黒石さんを目一杯可愛がってあげているのよ」
……そして。
あたしはなぜか、そんな彼女をとても可哀相に思った。
そんなことを口にしたら、また殴られてしまいそうだけど。いや……それもやぶさかじゃあない。
なぜだろう。あたしは白井さんのこの異常なまでの行為に、それほどの嫌悪感を抱いてはいなかった。むしろ、それを好ましくさえ思ってしまっているのだ。
――求められている。
――認められている。
それがどんな形であっても、あたしはそれを、欲してやまなかったのだから。
「ねぇ、あたしのこと、好き?」
あたしはまた、思わぬ言葉を発する。
それに答えるように、白井さんの蹴りがあたしの腹部を大きく揺るがす。
「何言っているの、大嫌いに決まっているじゃない」
そんなの、当たり前のことなのに。あたしはまたそんな言葉に頬を緩めてしまう。
白井さんは、あたしと一緒だ。
恵まれない環境で、孤独を生きて。それでも、誰かとの繋がりを求めて……。
不器用ながらも、あたしたちは出会った。
「けれど……」
あたしは驚く。
白井さんが『大嫌い』の続きを述べようとしていたからだ。
「黒石さんはただあたしを好きでいてくれたらいいわ。そうしたら私がどれだけ貴女のことが嫌いでも、二人はずっと一緒にいられるでしょ?」
あたしは、心底そのとおりだと思った。
そして、そのままあたしの意識は、深い深い快楽の闇へと落とされていった――――
「なんでアナタは生まれてきたの?」
何のこと?
「数ばっかり増えても世話ができないわよね」
そんなこと、あたしに言われてもわからない。
「それにしても、なんで黒いのかしら? やっぱりうちの子、どこかの野良と……」
うちの子って?
野良ってなに?
「こんな不吉な猫、家にいられたって迷惑だわ」
じゃあ……あたしっていったい何なんだろう?
「仕方ないわね…………」
『捨てましょう』
あぁ、そっか。
あたし、ひとりになるんだ。
暗闇の小さな箱の中で一匹「助けて、助けて」と声を震わす。幾数日もの長い間、あたしはそこでひとりだった。
朦朧とする心。
衰弱していく身体。
喉から漏れるのは、もはや声にもなっていないような掠れた震え声。
そんな閉ざされた世界の、その扉を開けたのは一人の少女だった。
その天女のような神々しさと、そこに携えたどこかに深い傷を背負ったような表情の彼女に……あたしはこう思ったのだ。
『貴女と、友達になりたいです』と。
――――起きると、そこには一人の人間が立っていた。
その人は、確かにひとりだったあたしを救い出してくれた人。途方もない幸せに、一度は失ってしまった、愛おしい人の姿。
身を起こすと、四肢が酷く軋んで悲鳴をあげる。そのまま、いくばくも無く身を転がす。すると、焼けるような痛みで身体のいたるところの皮が剥げていることに気がつく。
彼女が、とても穏やかな表情であたしを見下ろして言った。
「やっと『起きた』のね」
その声は、この上ない慈しみを帯びていた。
「お帰りなさい、クロ」
そう、あたしをいたわると……。
彼女はまるで愛でるように、あたしの尻尾を踏んづけた。