17:00
仕事に移る前に、手に持った霧吹きをどうするか一寸考えた。気持ちが悪いので捨てたいが、霧吹き河豚の唯一の手がかりでもある。結局渡り廊下の下駄箱に投げ込んだ。
渡り廊下は玄関ではないのだが、日常的に屋内と屋外を行き来するには便利な出入り口だ。本堂・僧堂・庫裏すべてにアクセスしやすい。渡り廊下に上がり、そのまま庫裏に入るつもりだった。
「また横着して廊下から上がろうとしてるね」
後ろから女の声がして、心臓が飛び跳ねた。
俺は魔法使いだ。魔法使いというのは見栄のためには努力と集中力を惜しまない。すぐさま声がした方に振り向いてしまうような、ガッついた素振りを見せるへまはしなかった。心拍が暴れるのを押さえつけ、声の震えは握りつぶした。ゆっくりと振り返ると、渡り廊下から本堂へ上る階段の上に彼女がいた。
「織恵……」
織恵はチャコールグレーのジャケットに、同じ生地の長いタイトスカートという装いだった。藤色のブラウスに光る貝ボタンがついている。一年前、突然姿を現したときも、似たようなスーツ姿だった。パーマのかかったショートボブも変わらない。すべてが織恵に良く似合っていた。
織恵は足音もなく渡り廊下を歩いてくる。
「新しい仕事から手を引いて。貴方によくないことが起こるわ」
織恵が俺の目の前に立つと、柑橘のいい香りがして思わず生唾を飲み込んだ。
「今度は東海沖地震でも予言しに来たのか? 警告ならもっと具体的に絞り込んでくれ」
「今日受けた人探しのことよ。これは始まり。この先もっと危険な目にあうことになるわよ」
いつの間にか織恵の手には、さっき俺が下駄箱に入れた霧吹きが握られている。
「貴方は襲われた。すでに危険は始まっているのよ。千葉から離れて、二週間ほど休暇でも取ったらどう? 京都か、神戸か、四国でもいいわ。ここに居ては貴方と周囲に悪いことが起こるわ」
一年前の織恵も、突然現れて西日本に行けと言った気がする。……違った、あの時は「仙台には行くな、西に行け」だった。
二〇一一年の三月、俺は十二日に宮城の双典寺で行われる大般若会に参加する予定だった。十一日の昼に仙台入りし双典寺に向かったが、俺が着く前に双典寺は消失していた。結局あの震災で俺は、各地でさまざまな宗派の寺に協力してもらいながら、徒歩で千葉まで帰ってきた。自然の脅威を目の当たりにして、柄にもなく修行僧っぽいことをやりたくなったのかもしれない。今思うとなんで歩いて帰ろうなんて実行したのかわからない。
ただこれは分かる。織恵の予言は当たる。
「織恵が言うならそうなんだろうが、強引過ぎやしないか? 仕事を投げ出して俺だけ逃げろって? 前にも言ったろう。それは出来ない」
「いつもの貴方なら受けるような仕事じゃないわ。貴方が仕事で一番重視しているのは自己実現だもの。困っている人を助けたくて仕事をしているんじゃなかったの?」
「依頼人は皆何かしら困っているさ。そうじゃなかったら依頼料は払わないよ」
「貴方が今日の依頼人から困っている人の切実さを感じ取ったなら、私は口を出さないわ」
織恵はいつだって的確に弱点を見抜いてくる。
たしかに外国人一人を名前だけで探す、それも五日でというのは、親切な仕事じゃない。青臭かろうがこっ恥ずかしかろうが、俺が一番仕事で重視するのは自己実現だ。ヴィシヴィジラ・ヌダ探しの依頼人からは、困っている者の切実さが感じ取れなかった。依頼人の素性は胡散臭い。今までの俺基準からすれば、絶対に断れないような重要な依頼じゃない。
織恵は眉根をきゅっと寄せて見上げてくる。いつもの顔。叱るのではなく「貴方ならわかるわよね?」と諭して自分の正しさを認めさせるときの、俺が自分から間違っていたと言うのを待っている表情だ。
「命よりもそんなに金が大事なの?」
「金は大事だよ。『お』と『様』をつけて呼んでもいい。純粋な人助けだけがいい仕事で、収益を上げるための仕事は価値がないって? 本気で言ってんのか。仕事に貴賎なしとまでは言わないが、儲けを得ようとするのは労働の正当な理由だろ」
幼少期からの力関係だが、織恵に口答えするのは今でも抵抗がある。けれども収入の悩みとは無関係なところに居ながら仕事に口を挟んでくるのは、いくら織恵でも我慢ならなかった。
震災とシチャチョウの手術で、俺は去年だけで五百万ほど貯金を溶かした。ギャンブルをやらなくても連帯保証人にならなくても家を買わなくても、消えるときは一瞬で消える。そうでなくても魔法使いは、いつ働けなくなるかわからない病気を抱えている。報酬がいいことは、理由としてそれだけで十分だった。金は大事だ。障害のある者が健常者の社会で引け目を感じることなく生きたいのならば。
「俺は保護者がいないと何も出来ないガキか。自分の労働は自分で決める。織恵が決めることじゃない」
「貴方の身が危険なのよ」
織恵の予言は信用できる。
「つまり俺の命は保障されてるって事だ」
「馬鹿なことを言わないで」
眉を大げさに曲げた表情も、織恵がやると『変顔』というよりも『愛嬌がある』になる。
「じゃあ近いうちに俺や俺の身近な誰かが死ぬと今断言できるか? もし誰かが死ぬことを予知したなら、織恵は伏せない。去年の震災を予知したときがそうだった。逆に、死を予知していないのに誰かが死ぬと嘘をついても、俺にはバレる。だから正直に『危険なことが起こる』としか脅せない。そして、その危険で俺が命を落とすことはない。もしそうなら織恵は『俺が死ぬ』という予知をするはずだ」
織恵は下唇を噛んで俺をねめ上げた。
「今貴方の近くにいる人のことまでしかわからないわ。この先貴方が出会う人がどうなるかまでは予知できないの。貴方が危機を回避しなかったせいで無関係の人が死ぬ可能性もあるのよ」
「俺の行動が原因で誰かが死ぬ可能性もゼロじゃないだろうが、それよりは誰かを加害者にしてしまう可能性が高いな。魔法使いはよく車や電車に轢かれるからな」
俺は茶化して言った。俺も織恵も、このやり取りがほとんどは時間の無駄で、ただ世間話としてしか価値がないことはわかっている。膨大な因果関係から成る未来を予知し、完全に当てるのは理論上無理だ。それでも織恵の予言は当たる。例え未来を変えようと行動しても、その行動もまた予言された結果を引き起こす原因のひとつでしかない。織恵の予知は、未来を知った者の選択までを織り込んでいる。
つまるところ、俺がどう行動しようが織恵が予知した通りになるのだ。
織恵はそれっきり何も言わず、現れたときと同じく唐突に去った。俺はシトラスの香りを忘れないよう心に刻みながら、そういえば霧吹き河豚も突然現れて突然消えたのだとぼんやり考えた。下駄箱から件の霧吹きを取り出し、ためつすがめつ三六〇度まわして見たが、安物の霧吹き以上には見えない。
しかしわざわざ織恵がやってきて、この霧吹きに意識を向けさせようとしたからには、何か意味がある。織恵は昔から、俺にとって意味があるものに俺より先に気がついて、ヒントを小出しにする。直接答えを教えてくれたことはない。
自力での解決は無理そうだったので、スマホを取り出した。
「WWリサーチです」
「おう、俺だ」
電話の向こうの佐竹が失笑する。ちょっと勝った気分だ。
「ふっ、俺だじゃ誰かわからないが、いまどきの寺は振り込め詐欺もするのか? ふふ」
「誰だかわかってるんじゃねえか。おい、いつまで笑ってんだよ。それより今日時間空いてるか? 一件急ぎで探してもらいたいんだ。成田の借しを返してもらう」
「急だな」
たぶん今佐竹は黒崎から電話がかかってきたときの俺みたいな顔をしている。
「大胆にも俺を襲った不届き者が居てな、そいつの名前と住所を特定したいんだ。いつもなら自力で追い詰めるが、ちょおっと別件でクソ忙しい。今三時だから……最短で五時には松戸につくと思う。もっと遅いほうがいいか?」
「五時でいい。成田の借りを返せというなら仕方がないが、私も忙しい。明日から海外なんだ」
海外だと?
想定外の事態だ。ヴィシヴィジラ・ヌダ探しも佐竹に頼もうと思っていたのだが、いきなり選択肢を封じられた。
「オーストラリアに二十日間。遊びじゃない。人を探しに行くんだ。和尚と有馬にも土産ぐらいは買っておくよ」
「有馬にはウォンバットのでっかいぬいぐるみでも買ってやれよ。二メートルぐらいの。そうか海外か……急ですまん。用件だけ済んだらすぐ帰る」
電話を切ると、脱いだばかりの雪駄をまた履いて駐車場に停めてあるスーパーカブに向かった。
佐竹の事務所は繁華街に立ち並ぶ雑居ビルの三階にある。ビルの中ですれ違う通行人は、思い思いに様々な国の言葉を話している。
千葉県の魔法使いは、十年ほど前に大半が東京に移住してしまった。今は県内の魔法使いはわずか三人、千葉の俺と松戸の佐竹と船橋の有馬しかいない。
昭和の風情ある扉は、磨りガラスに黒で『WWリサーチ』と書かれている。ノックすると中から返事が返ってきた。
事務所もその主も、最後に見たときから変わっていない。相変わらず奥の部屋にはベンチプレスとサンドバックがあるし、佐竹はスーツを着たゴリラそのものだった。
来客用ローテーブルを挟んで佐竹と向かい合う。俺は佐竹の前に霧吹きを置いた。
「急に無理言って悪いな。これを見てほしかったんだ」
「和尚以外で触ったのは?」
「俺の探してる犯人だけだよ」
佐竹は霧吹きに手を伸ばすと、持ちもせずただ触っただけで「わかった」と言って俺のほうに押してよこした。そして机の端から十五インチはありそうな巨大タブレットを滑らせて目の前に置いた。このタブレットは前にはなかった。
「すごいな、こんなの買ったのか」
「国内で売っていなかったからアメリカから取り寄せた」
タップすると関東の地図が表示された。なるほど、これは佐竹には便利だろう。そのまま太い指を滑らせ、ある一角を拡大していく。ツールを切り替え、地図上に数本赤い直線を引く。5本線を引いたところで手を止めて、タブレットを一八〇度回し俺に向けた。赤い線の重なった部分に画鋲のアイコンが置いてある。
「ここだな」
「早いな!」
佐竹は人を探すことにかけて突出した才能があったが、これほどの能力とは思っていなかった。前はPCで地図を選んでプリントアウトするだけで一時間かかっていたのだが、ツールを変えただけでここまで飛躍的に早くなるものだったのか。
「対象までの時間的距離が近かったからな。普段の調査はもっと時間がかかる。明日から行く調査も、オーストラリアまで絞り込むのに一年かかった」
「佐竹が調査に一年かけるって前例がないんじゃないか?」
「ああ。名前だけで人を探すのがこんなに大変とは思わなかった」
「ハハ……WWリサーチの調査力をもってしても一年かかるんだな」
数分で霧吹き河豚の居場所を割り出せる佐竹でさえ一年かかるものを、俺が一週間以内になんとか出来るのだろうか。急に、大見得を切ったことがひどくイタく思えてきた。一応、見つけられるとは限らないと前置きしたとはいえ、出来もしないことを出来ると言ったのには変わりない。織恵の言う通りキャンセルしたほうがいいのかもしれない。というか、キャンセルしたい。相談料の振り込み前ならまだなんとかなる。
メールの着信を知らせる『energy flow』が流れる。見てみると四二〇〇円の入金を知らせる信金からのメールだった。
「キャンセルできねーじゃねえか!」
驚いた佐竹が口をあけてこっちを見ている。
「悪ぃ、仕事のメール見て取り乱した」
「電話で忙しい山を抱えているようなことを言っていたな」
「まさに今抱えることが確定したよ」
落ち着け、見つけられなかったとしても違約金を払う必要はないんだ。それに、依頼人は『魔法使いにしか出来ない』と考えた上で俺に依頼してくれたのだから「他所を当たったほうがいいですよ」と軽々しくは言えない。佐竹は別格だが、俺が知る魔法使いで人探しが出来るのは、俺ともう一人徳島にすごいのが居るぐらいしか心当たりがない。俺や佐竹のように魔法使いとしての特技を武器にして仕事が出来るのは、全体のごく僅かだ。
霧吹き河豚の居場所をメールで転送してもらい、謝礼を置いてWWリサーチの事務所を出た。佐竹は「それより成田の借りを早く清算したい」と顔をしかめて謝礼を断ったのだが。
大願時に戻ると、既に夜の七時を過ぎていた。シャチョウたちはもう薬石を済ませている。一食抜くのは慣れているので、今夜は食べないことにした。
寝起きする自室は庫裏の二階にある。極力物を置かないようにしているので、布団を敷いていない時は空間ががらんとしている。座卓にDELLの十七インチノートと無線ルータ、本棚代わりのカラーボックス、北側に仏壇、あとは押入れに全部収納されている。花枝夫人に「賑やかしにカレンダーでも掛ければいいのに」と言われたが、毎日仏壇に生花を飾っているからこれで十分だ。
PCが立ち上がるまでの間に、スマホを開く。霧吹き河豚の住所をメールに貼り、住人のデータが欲しいと有馬に送った。Googleツールバーにグルヌカと入力している途中で、スマホから『Successful Mission』が流れてきた。
「やっほ和尚ー、おばんちん。メール見たけど調べるのは名前だけでいいの?」
「可能な限り詳しく知りたい。年齢職業家族構成、欲を言えばどういう考えを持ってる奴かがわかるとベストだ」
電話の向こうで有馬がため息をつくのが聞こえる。
「あんね、和尚。めっちゃ無理いってるってわかってる? やってもいいけど僕の仕事は高くつくからね!」
有馬の「高くつく」はちょっと怖い。過去の高くついた経験を思い返すと逡巡する。
「……背に腹は変えられん。出来るところまでやってくれ」
「んっけー」
モッサリとした返事が返ってくる。有馬のいいところは、理由を聞かず協力してくれるところだ。タカタカタカッと楽器を鳴らすようにキーをタッチする音が聞こえる。
「そのかわりsteamでクソゲー送るから実況配信してね」
「クソってわかってるゲームを人に投げつけんな!」
「大丈夫、プレイ配信のときは僕がミラー立てるから」
「そういうフォローはいらねえよ!」
「和尚が配信しないなら僕もランしないよ?」
有馬は頼めば力を貸してくれるが、タダより高いものもない。ゲームは下手なりに遊ぶが、実況したいと思ったことはないし、俺が実況したところで面白いものができるとは思えない。他人が好きでやる分にはかまわないが、面白くもないのにネットで不特定に流すなど、自分でやるのは正直つらい。
とは思うものの、ここでごねると「じゃあ僕と一緒にグッスマカフェ行こう」等の、さらに性質の悪い代償に差し替えられる危険がある。
「わかったよ、やるよ。ただしゴールデンウィークは忙しいからその後でな」
「結果はメールで送っとくー。どうせ和尚は自分のターンになると引き伸ばすくせに、人にはすぐやれっていうんでしょー? そういうのわかっちゃう。やった。送った」
「畜生耳に痛いことを……早いなオイ! 早すぎだろ!」
PCを見ると、確かに一件メールの着信があった。
「ありがとう、有馬ってもしかして天才なんじゃないか?」
「しってる。追加でわかったことあったらまた送るね」
有馬から届いた無題のメールを開くと、五行ほどの短い本文に添付ファイルがついている。本文は箇条書きで
大石均
平成三年 緑中学カルタ大会
平成五年 大百池緑化運動
平成八年 大洋大学銀杏祭
平成九年 大洋大学銀杏祭
とだけあった。添付ファイルはどれもJPEGで、ネットで拾ったらしき写真が四枚、そのうち二枚は、昼間に見た霧吹き河豚が写っている。どうやら霧吹き河豚の本名と、本人が写っている画像を送ってくれたようだ。この短時間で恐ろしいものを見つけてくる。
有馬がどうやって情報を見つけてくるのかはよく知らない。俺や佐竹と違って、魔法使いとしての技術ではなく、純粋にデータサーチャーとしての腕でこれをやってのける。俺からすれば有馬のやっていることのほうがよほど魔法らしい。小柄で棒切れのような体や隈の濃い不健康な顔と相まって、『ミレニアム』のリスベット・サランデルを連想させる。
とにかく、どこそこにデータがあるとはっきりしている調べ物には滅法強いのだ。逆に、生きた人間が今どこにいるか探したり、どこで失くしたのかわからない落し物を探すのは苦手だと本人も自覚している。それでもすごい職人技だ。
「ところで有馬、話は変わるんだけどな」
「んあ?」
俺の調査はここからが本題だ。