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         15:00

 考え事で注意散漫だったのは否定できない。天気も良くて平和そのもの、悪いことが起こる予兆は何もなかった。

 俺は境内に見知らぬ男が侵入したことに気がつかなかった。

 気がついたのは、スエットに撥水素材のカーゴパンツという出で立ちの男がこっちに向かって走ってきた時だった。横幅が俺の三倍はある。



挿絵(By みてみん)



 男は噴霧器で俺の顔になにかを吹き付けた。

 俺は声を上げずに逃げた。突然襲われた事のある人ならわかるだろうが、本当に驚いているときでも意外と悲鳴が出なかったりする。俺は雪駄を投げ飛ばしながら本堂をぐるり一周し、追ってきた男に後ろから追いつくと背中を蹴り飛ばした。こう見えて通常衣つうじょうえというのは走ろうと頑張れば走れる。

 つき転ばされても侵入者は無言だった。暴力的過ぎるかもしれないが、こっちも吃驚させられたのだ。眼鏡に水滴は付くし雪駄は脱げるし息は上がるし、感情的にはもっとコテンパンにしてやりたいぐらいだ。


「なにもんだお前。なんだこれ農薬か?」


 俺はヤマモモの木に立てかけてあった竹箒を取り、男の手に振り下ろした。倒れても手放さなかった噴霧器が、箒にはたかれて男の手から飛んでいく。噴霧器は百均で売っていそうな安物だ。透明な液体が入っている。男は何も言わない。顔に表情がなく、何を考えているのかわからないのと相まって、そいつは酷く不気味だった。

 俺は眼鏡を拭いて掛けなおしてから、霧吹き男の襟首をつかんで引き上げた。ずっしりとした重みで、男の痛んだスエットの襟がさらに伸びる。


「どういうつもりだ」


 問い詰めても、表情のない顔で見返してくる。憎しみや恐怖、その他思いつくおおよその感情が読み取れない。手足にゴムのついた、壁をぺたぺた降りてくる人形を連想した。



「何か、何かありましたか」


 騒ぎを聞きつけたのか、山門の方向から、帰ったはずの太田とリャミサリが走ってきた。


「なんだか、揉めているようだったんですか、大丈夫ですか」


 息を切らせハンカチを額でぬぐいながら、太田が上目遣いに聞いてくる。太田とリャミサリが戻ってきたのはちょっと驚いた。太田の視線は生臭い感じがして不快だった。リャミサリはじっと俺を見ている。


「ご心配には及びません、大丈夫です。お二人こそお帰りになったのでは?」


 依頼人の目の前で、チンピラのように人の襟を掴んでいるのはマズい。俺は霧吹き男をちゃんと立たせ、説教好きのおっさんがするように「こんなことしちゃいかんよキミ」と肩をたたいて穏やかに場をまとめようとした。ところがその時、霧吹き男が目に血管が浮くほど力をこめて俺を睨み、腕を振り、口から泡を飛ばして声を張り上げたのだ。


「ノファイ・ギイ!ハンアノファイ・ギイ!」


 突然訳のわからない言葉を叫びだす人間に指を突きつけられた経験はあるだろうか。俺はある。何回経験しても怖いものは怖い。巨デブとなれば尚更変な迫力がある。俺はいっぱしの魔法使いとして、一般人の前では魔法使いの目を使わないというマナーを遵守している。だがこのマナーは、相手が突然興奮する患者だった場合は想定されていない。



 魔法使いの目で見ると、霧吹き男の腹からミントグリーンの腕が突き出ていた。形は人の腕に似ているが、皮膚がぶよぶよした気味の悪い腕だ。緑の腕はまっすぐ伸びて俺の腹にも触れていた。それに気がついた瞬間、生理的な嫌悪で反射的に霧吹き男を突き飛ばしていた。霧吹き男は再び仰向けにひっくり返った。

 霧吹き男の体から、ズルリと緑の手が這い出す。

 魔法使いは例外なく『なんだかよくわからないもの』を度々目にする。魔法使いは幻覚を避けて通ることが出来ない。むしろこの『病気』が魔法使いの本質といっていい。幻覚に苦しめられるからこそ、人間は魔法使いになって病気に対抗しようとする。俺も闘病生活が長いぶん、よくわからないものには慣れている。

 けれどこんなものは初めて見た。似ているとすれば強い感情か。支配欲や物欲などを視覚化すると、腕に似た幻覚として立ち現れる場合がある。だが人間の感情ならば俺は見間違えない。

 ケミカルな色をした腕がこちらに向かって伸びてくる。俺は『手』を使って緑の腕を跳ね除けた。『手』が触れた瞬間、緑色の腕は本質まで還元され、次の瞬間すべて消えた。



「あ、あれ……」


 地面に大の字になったまま、霧吹き男は痙攣のように目を瞬かせている。


「えっ、ボクなんでこんなことになってるんですか」


 俺が知りたい。

 いや、この際こいつの事はどうでもいい……よくないがそんなことより先刻の緑色の腕だ。当たり前だが、物質としてミントグリーンの腕が存在していたりはしない。魔法使いの目で見えるのは魔法使い自身の心象、乱暴に言えば妄想だ。俺は『何か』を緑の腕になぞらえて『見て』、それを消してしまった。あれはなんだったんだ?

 仮に誰かの感情を魔法で消してしまったということになれば、魔法使いの社会では重犯罪になる。対象も魔法使いである場合を除き、人間に対し魔法を使ってはならないというのは、最も重要な魔法使いの掟だ。特に俺のように、微妙な立場にいる魔法使いにとっては。

 犯罪者になりたくないから自己弁護している訳ではないが、あれは感情を可視化した幻覚じゃあない。なにかは分からないが、俺に襲い掛かろうとしていた。

 霧吹き男は、顔肉に埋もれた小さな目をぱちぱちしている。緑色の腕がなんだったのか、本人に心当たりがあるとは期待できなかった。

 横を見ると、太田とリャミサリがドン引きしている。リャミサリは太田の腕を掴むと一歩下がって俺から距離をとった。これじゃあ本当に『カツアゲしているチンピラが、獲物のデブに暴行を加えてる場面』だ。

 太田はというとひたすら汗をかいている。顔を見るに状況が一つもわかっていないようだ。俺も近い気持ちだった。「急に変な男が霧吹きで襲ってきて、撃退したと思ったら、おかしくなって叫んだ」と言われても普通の人は意味がわからない。俺だってわからない。

 残念なことだが、年一回ぐらいはこのような説明に苦しむ状況に巻き込まれている気がする。田舎で坊主をやっているとわかるが、理解し難い行動に走る人間は結構いる。葬式の最中に親族同士が揉めて殴り合いに発展するのは可愛いほうだ。今までで一番強烈だったのは、形見分けと称して故人の家財を運び出した泥棒親族で、通夜の真っ只中に金庫だパソコンだといった家財をごっそり持って行ったときは思わず「日本もここまで来たか」と言わずにいられなかった。しかし何より一番残念なのは、何故かいつも俺が事態を収拾しなければならないことだ。

 今回も、依頼人の目前で揉め事を起こしたまま放置は出来ない。急に霧吹き男の態度が変わったのも気に掛かる。俺は転がっている霧吹き男をもう一度引っ張り上げた。


「なんなんですかもう!訴えますよ!」


 霧吹き男が酸欠の鯉のような顔をして何か叫んでいる。陸に打ち上げられた河豚のほうが近いかもしれない。

 俺は「落ち着いて聞いてほしい」となだめながら、霧吹き河豚のひざを汚していた土を払い落とした。蹴ったときに付いてしまった汚れだ。暴行の隠蔽工作ではないが、害意がないことを示すため、あちこち叩いて服の乱れを直してやる。我ながら登校前に小学生の身なりをチェックするお母さんかよと思ったが、そうされることに慣れているのか、河豚は逆らわなかった。

 まだ腹を立てている河豚に「落ち着くまでそこで待っていろ」と言い含めて、俺は太田とリャミサリに体を向けた。


「太田さん、ご心配には及びません。依頼の件は早急に調べますので任せてください。驚かせてしまい申し訳ない、コレはまったくの別件ですのでお気になさらずに」


 ややこしくなるので頼むから帰ってくれとは流石に口に出せない。状況としては苦しいが、何も問題は起こっていないと押し通すしか思いつかなかった。

 リャミサリは俺を見て、それからちらりと霧吹き河豚に視線を向けた。


「わかった。任せる。リャミサリは帰る」

「はあ……」


 気の抜けた返事だけ残し、太田はリャミサリに引っ張られていった。想像以上にあっさりと引き上げたので逆に驚く。「やっぱり依頼するのやめます」と言われるか覚悟したのだが、何も言われなかった。多少は霧吹き河豚のことに突っ込まれるかと思ったが、それすらない。まるで逃げるように帰っていった。

 依頼人二人に礼をし、その姿が視界から消えたことを確認してから霧吹き河豚のほうを見ると、誰もいない。俺が依頼人に弁明している短い隙をついて、音もなく逃走したらしかった。

 何だったんだ。


 河豚のいなくなった境内には、奴が使っていた霧吹きが残されていた。雪駄を拾い、ついでに霧吹きも拾う。透明の液体は、容器の半分ぐらい入っている。匂いはしない。眼鏡を掛けていてよかった。例え中身がただの水道水だとしても、目に入ったらと思うと鳥肌が立つ。

 この一時間にあったことを反芻する時間が必要だった。霧吹きを持ったまま本堂の縁側に腰を下ろす。眼前の庭は、明るい陽に照らされて土が黄金色に輝いている。カタバミの黄色い花の間を、二匹のシジミチョウが忙しなく飛び交っている。心地よい景色だった。ゆっくり息を吐きながら六十数えると、意識の中の泡立っていた部分がフラットになっていった。ウユニ塩湖のように平らな意識をイメージしながら、思い浮かぶ事柄を並べ直す。


 久しぶりに依頼があった。一番の目的はヴィシヴィジラ・ヌダの発見。グルヌカ人だ。依頼人のリャミサリもグルヌカ人だった。

 ヴィシヴィジラ・ヌダはただの人ではないようなことも言っていた。リャミサリは何と言っていたか……たしかジラハタルと言っていた。文脈の前後から、おそらくWizerdに準ずる言葉だろうと推量出来る。太田にジラハタルの正確な意味を聞いておけばよかった。問い合わせてもいいが、もらった連絡先は固定電話で、いま掛けても帰り着いていないだろう。

 何か引っかかっる。いまどき連絡先が固定電話だけ? ヴィシヴィジラ・ヌダ探しを急いでいるなら携帯電話も教えるのが道理じゃないか? 携帯電話を持っていないのかと思ったが、そんなはずはないとすぐに気がついた。太田のベルトには、白い皮製の携帯入れが付いていた。懐から太田の名刺を取り出し、表裏返して調べてみたが、携帯の番号もメールアドレスも載っていなかった。

 逃げるように去った後姿も気になった。暴力坊主と関わり合いたくなかっただけなのかもしれないが。

 そもそもどうしてティーンエイジャーが一人で日本に来て人探しをしているんだろうか。依頼人の事情を詮索するのはあまり好ましくないが、今回は特殊すぎて何でもいいから手がかりがほしい。太田の本職は不動産経営と言っていた。その言葉に嘘をついている気配はない。リャミサリは留学生らしいが、こっちはたぶん嘘だ。

 怪しい依頼人だが、ヴィシヴィジラ・ヌダを見つけ出したいという言葉に嘘はなかった。言葉の嘘を見抜くことには自信がある。俺から金銭を騙し取ろうという詐欺ではない。怪しいが、依頼そのものは信用していいだろう。

 それからついいさっきの出来事。

 霧吹き河豚。生気のない眼をしていた。声も上げずゴーレムのように襲い掛かってきた姿と、訴えると叫んでいた姿が違いすぎて重ならない。河豚の態度は、緑色の不気味な腕の消滅を境に変わった。

 緑の腕。消える一瞬、俺は緑の腕の『本質』を見ていた。魔法使いが言う本質は、日常で使われる「物の持つ本来の性質・欠くことのできない性質」の意味とは違う。魔法使いが言う本質は、人の意識では把握し切れない部分まで含めた対象のすべてだ。本質は情報の大海原のようなものだ。単純な物質でも、それが持つ全ての情報は膨大なものとなる。一粒の砂でさえも、本質まで還元すれば地球の誕生から今この瞬間までの情報を保持している。当然、その情報全てを掬い取ることは不可能だ。例え本質を見ていたとしても、人のキャパシティでは結局理解できない。

 俺に理解できたのも、アレが未知のものということだけだ。


 フッと強く息を吐き、思索を終わらせる。この後予定している仕事は読歌会の会報作業だけだ。グルヌカについて調べる余裕は十分ある。


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