2月19日 女性記者と感染者
『ただ今、日本政府よりこのホテル周辺に緊急避難命令が発せられました』
そんな放送が流れたのは、高坂がホテルでのんびりとしていた時だった
彼女はスマホで神奈川新聞を読んでいた、今日の記事では封鎖三日目にしてようやく観察期間を終えた避難民達が封鎖区の外に出て、多摩川の岸辺で家族と再会している様子が取り上げられていた
神奈川新聞の自分が書いた欄をスマホで閲覧するのは彼女の誰も知らない楽しみで、その楽しみを邪魔された事を彼女は抗議しようとしたが、その放送の重要性にはたと気付く
「緊急…避難命令?」
避難命令?昨日の街はそこまでは言ってなかったはずだ、いったいぜんたい何が起きたのだろうか?
スマホを持ちあげた途端、神奈川新聞のページが消え
『電話着信 編集長』
と表示される
ちょうど電話しようと思っていたところなので、そのまま『通話』ボタンを押す
「もしもし?」
『高坂君!テレビは見たな』
「無論です編集長、今は緊急避難域です」
テレビは見ていないが、緊急避難命令の話であるのは明白なので、まあいいだろう
『なんでそんなところに…いや、君らしいと言えば君らしいか』
編集長の呆れと心配の声に、高坂は自信満々にこたえる
「ええ、そういう訳だから、今日の記事は期待してくれていいですよ」
電話越しでも編集長のため息が聞こえる
『・・・無理だけはしないでくれよ』
「言っても無駄なの知っているでしょう?」
編集長は軽く苦笑いしてから
『・・・分かっているが、気をつけろよ』
彼女は手荷物をまとめあげ、部屋を出て行った
とにかく、書ける事を書こう
エレベーターに乗り込み、手帳に現在分かっている事を書きこんでいく
しかし、そんな事ではダメなのだ、私が記事にしなきゃいけない事は、市民の声、封鎖区内の現状
それこそが封鎖区の隣に住む読者たちに伝えるべき事で、担当している連載記事『封鎖区の隣と中』の義務なのだ、そんな義務を持った私が逃げる訳にはいかないし、ましてや倒れる訳にはいかないのだ
たとえどんな地獄を見ても、めげずに見たままを伝え続けよう
彼女がエレベーターホールを出たその瞬間から地獄の序曲は始まっていた
携帯を掴み必死に操作している者もいれば、フロント係員に突っかかっている者もいた
「すいません、神奈川新聞の者ですが」
そう1人の係員にたずねようとすると
「なんですか、客に記者が混ざってたのか…すいませんが、ただ今少々立て込んでいますので、後にしていただけないでしょうか?」
係員はあからさまに悪い態度を取った後、丁寧に断ってきた
まあ大抵の場合、記者は面倒事を適当に書き散らすからね。高坂は断られたにも関わらず同情的だ
しかし、それで引き下がらないからこそ記者は面倒なのだ
「そうですか、それでは責任者を呼んでいただけますか」
係員の顔が困ったような顔になる
まあ、それはそうだろう、ここで追い払えば客を適当にあしらった事になるし、ましてや相手は週刊誌の記者だ(高坂は神奈川新聞と言っていたが、係員は「記者=ゴシップ記者」と勘違いしている)何を書き散らされるか分からない、ホテルは評判が命だ
もっとも、ここまで反社会的人格障害が広がると評判があっても来るのは感染者だけのような気もするが
「分かりました、それでは…」
その時、このホテルのオーナーがやって来た
両手に荷物を持ち、慌てた様子でエレベーターホールからやって来たオーナーは、係員に言う
「おい君、何油売っとるんだ」
「す、すいません、こちらのお客様が、責任者とお話がしたいと…」
「何をいってる!今は緊急避難命令が出たんだぞ、君も早く荷物を持って来たまえ」
高坂はそのオーナーにダメもとだが質問することにした
「すみません、神奈川新聞の高坂と申しますが、今時間よろしいでし…」
「よろしい訳ないだろう!こっちは急いでるんだ!はやく君も逃げたまえ」
高坂は引き下がらない、いや逃げない
「私には読者に真実を伝える義務があるんです!」
「だからなんだっていうんだ!おい、こんな奴ほっといて逃げるぞ!」
そう言って、オーナーと係員は出て行ってしまった
「えーと、『混乱は私の宿泊するホテルの中にすら広がっていて…』って、誰もいなくなってる」
彼女の言う通り、ホテルの中は閑散としていた
その時、ホテルの封鎖された正面玄関がドンドンと音をたてる
それと同時に誰かの叫び声が聞こえる
「まさか・・・!」
高坂は手帳をしまう時間も惜しみ、非常口を目指す
もうここまで来たっていうの?
そんなこと・・・ありえない!
非常口から飛び出し、左右を見渡す
うん、まだこっちには来ていない!
裏路地をゆっくりと進む
表通りに出るか迷ったが、危険性を考えると裏路地を進んで行って方が安全かもしれない
ホテルの正面玄関に大勢の感染者が集まっても非常口が安全だったように、普段から人通りが少ない場所の方が安全に違いない
しかし、東京の下町で暮らした事のない高坂には分からなかった
裏路地は街に暮らす様々な人々が利用する
何よりも問題なのは・・・
皆も経験があるかもしれないが、下手に裏路地を通ろうとすると、道に迷ったりする事はないだろうか
しかも、道が住民のためにつくられているので、行き止まりが多い
道は複雑で、せまく、行き止まりが多いうえに、死角がある
もともとは戦になった時に守備隊が守りやすいように作られた江戸の城下町なのだ、当然のことだろう
いくら高坂が他の街で育ったとしても、古くからの下町にあるそういう特性ぐらい知っていただろうに
しかし、残念な事だが高坂はこの予想外の事態に対して、多少なりとも混乱していた
それがこの判断ミスを招いてしまったのだ
いや、そもそも初めから間違っていた
彼女は「新聞記者」に執着し過ぎた
新聞記者の義務を果たそうとした
それが、足を引っ張ってしまった
渋谷で、編集長から電話がかかって来た時、とっとと封鎖区を脱出しなかったのが間違いだった
彼女の新聞記者としての意地が、封鎖区に残る事を選んだのだ
――――中に残った記者ができるのは様子を最期まで語る事です
違う、本当は
――――中に残れた記者には様子を事態を最後まで報道するチャンスがあります
だったはずだ、一ヵ月もしないうちに事態は沈静化して、封鎖区から出られると考えていたはずだ
目の前の死角だったコンクリートの塀から、顔が血だらけのスーツ服が現われる
確認しなくてもいい、感染者だ!
高坂は慌てて走り出す後ろからヒタヒタと何かが走って来る音が聞こえ、高坂の走りをさらに加速させる
高坂は生き延びる為に必死で走っていた
もはや疑うまでもない
さっきから、パトカーの音もヘリコプターの音も聞こえはしない
もはやこの地区は本当の意味で『放棄』されている
そして・・・
別の角からはだしで寝まき姿のおばちゃんが現われ、こちらに向かってくる
唇はどこかに消え去り、歯が2、3本欠けた歯茎がむき出しになっている
高坂は、もう片方の道にそれる
・・・反社会人格障害者は非感染者を追いかけてきている!
もうダメだ、パソコンが入っているバックは捨てよう
食料や現金は別のリュックに入っているから大丈夫だ
目の前から現われた学ラン姿の感染者にバックを投げつける
「いでええええなあなな!どおおこみてんだあああ!!」
学生はバックを払いのけながら迫って来る
高坂は後ろを振り返るが、さっきのおばちゃんがやって来た
「ええい、いちかばちか!」
高坂は左にそれて学生をひきつけた後、姿勢を低くし学生の右脇を通り抜けようとしたが、いかんせん道が狭く学生の手が彼女の服を掴む
服を掴まれてしまった以上、その服は捨てなければならない
しかし高坂は、服を掴まれた時、通り抜ける為に姿勢を低くしていたので、態勢を崩し、地面に叩きつけられてしまう
「はなして!」
高坂はとっさに痴漢対策用――――この学生は痴漢だろうか――――のスプレーを顔にぶちまけてやる、効果の事は全く考えないとっさの行動だったので、よくよく考えれば効かないはずだが、この学生は鼻を押さえながらのけぞった
つまり、高坂の服を掴んでいた手が離れたのだ
高坂は急いで起き上がり、持ち物もろくに確認せずに走り出した
封鎖区に残ってしまった事を悔みながら、ただ、生きる為に
『連載記事「封鎖区の隣と中」は諸事情により休載となります、ご了承ください』
<神奈川新聞㋁㏳より抜粋>
連載小説「首都が封鎖される様子を、俺たちは見守ってただけだった…」は諸事情により投稿スピードが落ちます、ご了承ください
・・・って、次の話が書き終わってないだけなんですけどね(汗)
前回も言ったように、決してネタ切れではないので安心して下さい
今後は3~7日に1話を目標に書き続けます




