待ち人来る
「待ち人来る」とお読みください。
ホラーとは? 怖くないお話。
書いた本人的には青春恋愛小説な感じ。後半は視点変更。
遠く、祭りの喧騒が届いた。笛や太鼓が奏でるお囃子が、風に乗って鼓膜を叩く。いやがおうにも、湧き上がる期待。
「まだかな」
まだに決まっている。今日は朝から落ち着かなくて。待ち合わせは夕方なのに、お昼を食べてすぐ、同居の祖母に浴衣を着せてもらった。水色の地色に水草が揺れて赤い金魚が泳ぐ柄。金魚が夏っぽくて、選んだ時には最高に可愛いと思ったのだ。後になって子供っぽすぎたのではと後悔もしたけれど、他に浴衣を持っているわけでもないから、今更変更できない。それに、髪に刺したガラスの風鈴と一緒に揺れる朱金の金魚はお気に入りなのだ。あまり背伸びしても、小柄で童顔な私には似合わないだろう。金魚柄の浴衣はきっと私らしい。
駅だと混雑が予想されたし、かと言って現地集合も味気ない。待ち合わせ場所は駅から数分のコンビニの前になった。広々とした駐車場があるから、ここにいてもそう迷惑ではない、はず。現に、何度も「あれが足りない、これが足りない」とコンビニに駆け込んで、あれやこれや買い足しているのだし。
八月の気温は殺人的で、傾き始めてもなお、日差しが強い。完全に夜になれば邪魔にしかならないからと、祖母に勧められた日傘を置いてきたことを後悔するくらいに。庇の下に逃げ込んで、時折開閉する扉からの店内の冷風に息をつく。そうして背後のガラスに映る自分の姿を何度もチェックした。
(うん、おかしくない。化粧も髪も浴衣も崩れてない)
普段、制服姿しかお互い知らないから、今の私を見て、どう思われるかばかりが気になる。
(可愛いって、思ってくれたらいいな。ちょっとでも見惚れてくれたら……そこまでは望みすぎ?)
のろのろとしか過ぎない時間も、何か足りていないような焦燥から、飛ぶようにも過ぎている感じもする。早く会いたい。でも会うのが少し怖い。気持ちは、多分伝わっていて。嫌われてはいないという感触もあって。ただ「重い」と受け取られていたらどうしよう、なんて今更なことばかりが気になって。でも嫌われていたら、お祭りに誘われることなんてなかったはず。それも二人きりで。
高校の入学式。その日、私は人生初めての恋に落ちた。
入学式の会場になった体育館のパイプ椅子に座って、式が始まるのを今か今かと緊張して待ち構えている私の耳に、届いた声。
「あー、テステス」
見上げる舞台の上。マイクの調整をしている男子生徒が発したようだった。体育館中に広がる音。場所を譲られて校長先生の話が始まる。
「皆さん、入学おめでとうございます——」
でももう、わたしの耳には素通りしていくばかり。
「あー、テステス」
その短いフレーズばかりが何度も頭の中で繰り返された。低めのテノールというか高めのバリトン? 私に丁度いい、ずっと聞いていたいと思った声だった。
「先輩!」
後ろ姿を見かけて、思わず呼びかけると、ゆっくりと振り返ってくれる。周囲に言わせると「普通」と流されるけれど、
「加納?」
そう私を呼んでくれるその人の声だけが、世界を鮮やかに彩る。客観的に見れば、平凡な男子高生だろう。中肉中背で、どこにでもいそうな容姿。癖のない、染めたこともないような黒い短髪。気崩しているほどでもなく、少しだけ緩められたワイシャツの衿元から覗く喉が動いて、空気を揺らす。
「部室、一緒に行っていいですか?」
「うん」
もっと声が聞きたいけれど、先輩はそう口数が多い方ではない。ついでに言うと苗字でなく名前を呼んで欲しいけれど、まだそこまでの関係じゃない。
「もうすぐ夏休みですよね。そうなると部活はお休みになるんですか?」
入学してすぐ。私は放送部に飛び込んだ。入学前は吹奏楽部に入ろうかなんて考えていたのに。中学の頃からクラリネットを吹いていたので。吹奏楽部は入部志望者も多かったから、私がいなくても困らない。特別に才能があったわけでもないから。反対に、放送部は部員が少なかった。活動も地味で、何かコンテストに出場するわけでもない。メインの活動はお昼休みの放送。放課後は翌日昼のための準備をする。学校行事では引っ張り出されるが、人に声を音楽を届ける役割ではあるけれど、行事の主役ではなく脇役で終わる。なければ困るから廃部になるようなこともないけれど、だから兼部していたり、幽霊部員だったりで、まじめに活動しているメンバーは少なかった。
先輩――戸川雅章はそんな放送部の中核である。押しの強い部長を支える副部長。あまり隠せてはいないであろう恋心を、それでもまじめに部活に取り組む姿勢でカバーしてきたつもりだ。けれど、戸川先輩と組んでの昼休みの放送には積極的に参加した。ライバルはいなかったので不戦勝状態だったけれど。少しずつ距離を詰めて、「可愛い後輩」の地位をがっつり確保できたと思う。そうして、三か月。もうすぐ一学期が終わる。
「夏休みは数回、登校日に合わせてミーティングするくらいだな。それもまあ、ほどんど参加者がいないんだが」
「じゃあ、夏休みは会えないんですね」
あえて主語は入れなかった。部員皆に、と取られてもいいように。恋する少女は臆病だが、逃げ道だって確保したい。
「……神社の夏祭り、行くか?」
そんな爆弾が降ってきて、あえなく私は被弾した。それって、期待してもいいってことー!?
私、加納蓮花は女子高生である。程々に可愛いんではないかと自分には点数が甘い。背が高くないせいで、年齢より下に見られることはあっても、可愛い系には需要があると信じている。実のところ、戸川先輩は初恋の人だ。周囲が恋愛沙汰できゃわきゃわしていても、自分は蚊帳の外で通してきた。男子とは普通に話すけれど、付き合うまでも行かなかった。ガードが堅いと言われたことはある。だって、どうでもいい相手と付き合うのって面倒じゃない。自分の時間を削ってまで彼氏は欲しくない。だから多分、これまで拒絶オーラをまき散らしていたのではないかと。
でも恋を知って自覚した。私、重い女じゃない? しかも案外、尽くす系?
それを良いという人も、面倒だと思う人もいるだろう。問題なのは、戸川先輩にどう思われるかであって、他の人は関係ない。嫌われたくない。好かれたい。あと、傷つきたくはない。そんなずるくて自分勝手な恋だけど、諦められるほど軽くもなかった。
最初は声だけで。声がきっかけで。いやその声が最高に刺さったのは間違いないけれど、声以外もすぐに好きになった。声を荒げることのない振る舞いだとか、他の人のフォローをさりげなくしているところとか。笑うとちょっと幼くなる表情とか。みんなみんな。全部。
先輩に彼女がいないのは調査済み。好みのタイプも、部活で一緒になる時にさりげなく聞きだした。あまり派手なタイプは苦手みたい。押しが強すぎるのも。だから引く。でも視線は追ってしまうから。それは自分でも止められなくて。だから、伝わってしまっているかもしれない。もしそうなら。私の事を意識して欲しい、応えて欲しい。そうして、一歩踏み出して欲しい。
夏祭りは、永遠に来ないような気さえするほど、先のことだった。八月の始めとはいえ、あと十日はある。終業式で使ったマイクを撤収しながら、毎日学校でなら会えたのに、十日も会えないことがたまらなく寂しくて。情緒不安定すぎて泣きそうになる。それを知ってか知らずか、大好きな声が私に掛けられた。
「加納、おそらくだが、一年の中ではおまえが一番熱心だったから、来年は部長か副部長になると思っておけ。夏休みに入ってから、今後の割り振りとかのために時間が取れるか?」
二年生の先輩は学校や塾の夏期講習などもあるため、私のように夏休みに予定がないなんてことはない。だから先輩の空き時間に合わせて何度か会った。あくまでも部活として。それは建前ですか? 私に言うこと、個人的にありませんか? 多分、夏祭りで私たちの関係は変わる。そんな予感が二人の間には確かに降り積もっていたのだ。
急ブレーキの耳障りな音と一緒に、何かがぶつかる音がした。コンビニ前の横断歩道。信号待ちの人の群れの中に見つけたはずの先輩の姿がどこにもなくて。私はただ、そのまま待ち続けていた。だって先輩がまだ来ない。信号は変わったのに。救急車とパトカーがやってきて、周囲は慌ただしくなっても。おかしいな、何の音も聞こえない。おかしいな。だって私は、待っている。
「悪い。待たせたな、加納」
そう言って、少し照れてぶっきらぼうに早口になる先輩が目の前に現れることを。
実のところ、それからのことは曖昧なままだ。大好きなあの人の声が私に話しかけてくることは、もう二度とないのだと。表面では受け入れながらも、私の中では終わることがないままに。
高校大学の学生生活を無難に送り、なんとか就職も決まった。目指したのは、民放局のラジオ部門。
「先輩、いい声ですよね! せっかくだから声を活かした仕事とかしません?」
「声は、まあ、悪くないと言われるな。でも声優とかは無理だし、目指すならアナウンサーとかか?」
そんな会話をしたことがある。私も、吹奏楽をしていたから鍛えた肺活量があって、声もよく通る。だから、あの人が進んだかもしれない道を選ぶのは私には自然だった。
入社してすぐの新卒に、早々重要な役割が来るはずもない。与えられる仕事は雑用が主であり、足で駆け回る日々が始まった。忙しいのは歓迎である。余計なことを考えずに済むから。
地元から離れた私には、社内の人以外に親しいと呼べる人はおらず、ただ毎日が職場と部屋を行き来するだけ。
そんな折、社内の自分の机に、近隣の行事を書きだしたちらしが置かれていた。まだ数か月先の八月半ばのお盆時期に、神社の夏祭りが行われるという記述が含まれたものだ。
(あ、浴衣、用意しないと)
咄嗟にそうしなければいけないと思い、次の休みにはデパートの呉服売り場を訪れていた。
だって、迎えなくちゃいけない。
あの人と待ち合わせしているんだから。
高校生の頃よりは頬がすっきりとして、背は伸びないままでも顔立ちはいくらか大人びて、似合うものも変わっている。
「お仕立てしますと今から一か月かかりますが」
「それで構いません。夏祭りに間に合えば」
すでに縫いあがっている浴衣がいくつも店内には飾られていたが、私は背が低い。既製品だとどうしても丈が長すぎる。着物や浴衣であれば、おはしょりを多めに取ることで調整できるとはいえ、どうしてももたつくのだ。かつての水色に金魚の浴衣も、私が選んだ生地を祖母が仕立ててくれたものだった。あれ以来、二度と袖を通すこともなかった浴衣は、だれかに貰われていったと聞いている。どのみち、もう金魚の浴衣は似合わない。
浴衣が仕立てあがってきても、夏祭りまでは日があったので、動画で着付けを覚える。地元に帰れば祖母が教えてくれただろうけれど、県をいくつも超えてまで戻る気はなかった。お盆でも交代で休みはあるものの、連休は取れないので帰省予定もない。何度かあった高校の同窓会も欠席した。もう、戻るつもりはない。私は欠けてしまったから。地元ではそれを突き付けられるから。
夏祭りの当日は、運良く休みが貰えた。私は生成り色の地色の浴衣に袖を通す。薄い黄色から徐々に緑が濃くなる葉が描かれたボタニカルな柄で、深緑の半幅帯を結ぶ。かんざしと帯飾りにお揃いの銀の羽モチーフを揺らして。派手すぎはしないけれど、華美にもなりすぎないように。
地元よりも都会な町では、祭りの規模も大きかった。最寄り駅を降りれば、人、人、人。参道は遠いのに、屋台がもう並んで、食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。人の流れに逆らわずに進むと、大きなコンビニの前に出た。ここには屋台がなく、車も規制されていて、駐車場にも車はなく人がさかんに出入りするのが見える。ここで待ち合わせしている人も何人かいるようだったので、私もまたその一角に身を納めた。
夏の気温は容赦なく。風も微風。人も多いとなれば、暑さはより一層募るはずが、何故か私には遠く感じられるままだった。汗は流れている。暑いと思う。けれどそう感じている肉体との間に、何か薄い膜でも貼っているかのようで、実感はなかった。
ややあって、空は茜色の割合を広げたあと、徐々に青が濃くなって、とぷんと夜へと沈みゆく。露店がライトを付け、神社のある方向から祭囃子を風が運び。前の通りを人が埋め尽くしていく。私はその時間の中で、ただ一人、待ち続けていた。
「悪い。待たせたな、加納」
そんな声が、目の前に立った人から降ってくる。私よりも背の高い男性。カジュアルなシャツとパンツ姿のどこにでもいそうな、そう年齢の変わらない人物が、私の大好きな声で。違う姿で。
「本当、遅いです、先輩」
差し出された手を自然にとる。汗ばんだ互いの手のひらの感触が、これは夢ではないと教えてくれた。
好きになったのは姿じゃない。声と中身。でもこの姿もきっと好きになる。
「……おかえりなさい、先輩」
「うん、ただいま蓮花」
笑った時のその表情が、少し幼い感じで、私の先輩が帰ってきたのだと、強く強く実感した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
(戸川雅章、先輩視点)
平凡な人生だと思っていた。ほどほどに期待され、ほどほどであることを許されている。格別何かに優れているわけでもなく、だからと言ってひどく劣っているわけでもない。主役にはなれないのだと思い知らされる程度には現実も見えていた。
無事高校二年になった春。所属していた放送部にひとりの後輩が入ってきた。加納蓮花というその女子は、代々やる気のない部員で構成されていた放送部の空気を変えた。
——いや、俺の空気を変えたのだ。
放送部を選んだのは、他に取柄のない俺が褒められるのが声だけだったという理由しかない。授業で朗読などの際に評判が良かった程度の。高校受験の際も、動画を流すよりもラジオを流して勉強している方が捗ったということもある。学校設備であっても、マイクの前で話すのは気持ち良かったから、放送部での活動は俺にはそこそこ楽しいものでもあった。
平凡が過ぎたのが、女子に縁がなかった。特徴がこれといってないせいか、嫌われることもないが、特別好かれることもなく。こちらからも必死にアピールしてまで彼女をつくろうとは思わない。多少のカッコつけはあったにしろ。
けれど彼女は。俺を彼女の主役にしてくれた。眼差しが。言葉が。態度が。好意の矢印を俺に向けて。少し小柄な彼女は可愛らしい子で。そんな子からの雄弁な視線の前に、俺は容易く落ちていた。いや、好きになるだろう、こんなの。
勘違いならカッコ悪い。でも一学期の間に近づいた距離は、それが勘違いでないと教えてくれる。
「先輩の声、いいですよね。ずっと聞いていたい声!」
無邪気にはしゃぐ様が可愛くて。他の女子すらまったく目に入らなくなって。悪友が推すアイドルも、友人の嵌ったゲームキャラも、存在感を失った。
彼女が好きだという俺の声で。彼女に好きだと囁けたなら。
八月の頭にある地元神社の夏祭り。その日に勝負をかけることにした。たった一言、告げるだけで良いとはいえ、それが難しいのはこの一学期の間に何度も感じていたことだった。けれど。そうやって足踏みしていたら、彼女と特別な関係になった高校生活を迎えられないままに終わってしまう。来年は受験本番。決めるならば早い方がいい。
夏祭り本番。俺ははやる気持ちを抑え込んで。待ち合わせの何時間も前に家を飛び出しかねない自分を抑えて。けれど、待ち合わせのコンビニが見えると無意識に足が駆け足になりかかる。信号待ちをしている時に彼女の姿を見つけた。もう来てくれていた。しかも、浴衣だ! 俺のために!?
もう彼女しか目に入っていなかった。だから。信号無視で歩道に乗り上げた車を避けることもできずに。重い衝撃にたたきつけられて、あっという間に自分の身体が修復できないほど壊れるのを、ただ茫然と感じているしかなかった。
戸川雅章、享年十七歳。
そうして俺は霊体となった。幽霊だ。どちらかというと地縛霊に近いかもしれない。ただ俺が捕らわれたのは場所ではなく、彼女だった。加納蓮花の周囲を漂うばかりの。守護霊や背後霊でもない。数メートル離れたところに常にいるような。
彼女が参列してくれたから、俺は自分の葬儀にも参列できた。だが蓮花はこのときまだ俺の彼女ではなかったから、ただの後輩でしかない彼女が火葬場まで同行できるはずもなく。だから。俺は自分の身体が灰になった姿を見てはいない。
葬儀で悲しんでくれている親には申し訳ないとも思った。謝りたかったし、声もかけたかったのに、近づくことも声が届くこともない。
おそらくは。死ぬ直前、蓮花のことしか考えていなかったからだ。だが男子高生が、まもなくほぼ確実に彼女になる相手のことで頭がいっぱいになるのは、まあ仕方がないかとも思う。
それから俺の霊体生活が始まった。蓮花の周囲を浮遊しているだけの存在。俺の言葉は、彼女が好んでくれた声も届かないままに。彼女が、どこか壊れてしまったのを慰めることもできないままに。
悪霊が招かれないと家に入れないという話を聞いたことはあるだろうか? まさしく俺がそうだった。悪霊の自覚はないが悪霊になっていたのかもしれない。それほど彼女に執着したと。
ともあれ、それは個人宅においては間違いではなかった。彼女の家にも自分の家にも入れない。友人の家も、近所の誰かの家も。
ただし、公共の場は別だった。学校、会社、役所、店、駅。行く場所もすることもない俺は、彼女と共に授業を受けていた。自分で文献を開くことも筆記することもできない分、聞いて覚えるしかなかったが、それが却ってよかったのか、生前よりもしっかりと身に着いたものだ。幽霊の場合、どこで記憶しているのか、そもそもどこで考えているのかは疑問だが。
彼女が大学に進んで地元を離れた時にも共に移動した。彼女が就職で上京する際にも。彼女が帰らない限り、俺が地元に戻ることももうないだろう。
そうして幽霊生活を数年続けた。彼女への執着が強すぎるせいか、まったく成仏する気配もない。むしろ悪霊化が進んだのか、ただの浮遊霊ではなくなりはじめていた。あくまでも彼女の半径十メートル内でしか動けなかったが、その中にいる蓮花以外の人間に働きかけることができるようになっていたのだ。
言葉が伝わるわけではない。ポルターガイスト的な物理行動ができるわけでもない。ただなんというか、傍にいると相手の感情を増幅できるようになったのだ。良い時も悪い時も。
彼女の就職した民放放送局には、それなりの数の人間が働いている。部署も細かく分かれ、仕事内容も多岐にわたる。
俺が彼に気が付いたのはほんの偶然だった。
「へー、佐倉って誕生日、昨日だったんだ。五月八日。それで、何年生まれ? 何歳になったって?」
そんな会話が聞こえてきたのは、蓮花の勤める部署の三フロア下である。上下であっても移動可能距離だ。
「二十四歳になりました」
彼は俺と同じ生年月日だった。生きていたら俺も二十四歳になる。そんな共通点があることから、俺は佐倉という男に注目することになった。
佐倉柾彰、二十四歳。某放送局就職二年目。所属は営業部。人当りは良いが、やや気弱。中肉中背。顔はまあまあ。地元を離れて一人暮らしの独身男。彼女なし。交友関係は地元に偏っているらしく、こちらではあまり親しいものはいない。
そしてなんとはなしに佐倉を見ているうちに、彼がハラスメントの対象者だということに気付いた。上司からのパワハラである。もっとも、ご時世なのであからさまなものではないが、二人で話す時などにちくちくやられている。それが彼を追い詰めていると知った。
知ったのはそれだけではない。どうやら去年、彼は交通事故で両親を失っていたとか。こちらで就職した上に兄弟もいないとあって、実家も親戚経由で処分したと。つまり帰るところがもうないのだ。
家族を失ったことでの孤独。そして上司からのパワハラ。彼は疲弊していた。メンタルクリニックにも通い、軽い鬱との診断。だが、仕事は待ってくれない。それが彼を更に追い詰め――俺が寄り添うことで僅か一月ばかりの間に悪化した。俺が寄り添うと感情が増幅されるのだから、当然だろう。確信犯(誤用)という奴だ。
発作的に会社の屋上から飛び降りようとした、彼の魂が離れかかっているのを見て取った俺は、佐倉の中へ押し入ったのである。完全に彼の魂を追い出して。——そう、それだけの話だった。
その日は早退して、翌日が休みであったので、その時間を使って俺は佐倉と完全に同化した。彼の体には過去の記憶が残されており、それを自分のものにするのに一昼夜が必要だったが、あくまでも主体は俺である。
佐倉柾彰は、戸川雅章ではない。血縁でもないまったくの他人だ。しかも俺は自らの身体を失って何年も過ごしていたから、動かすこと自体に慣れる必要があった。
幸い、同居の家族がいないなど、俺に都合の良い相手であったし、周囲から多少「性格、明るくなった?」と言われる程度の変化はあったにせよ、普通の人間は目の前の知人の中身が別人になっているなどとは思わないものだ。
「ええ、通院の成果があったみたいで。元はこういう性格だったんです」
ちなみにパワハラ上司には、浮遊霊時代に見聞きしたことをネタに逆に追い詰めておいた。おかげで職場でも平穏だ。
そういった自分と環境を整えるのに必死で、俺は蓮花の前にすぐ現れることができなかった。同じ会社に勤めながら。
何より、今の佐倉の身体では、彼女の好きだった「声」がまだ出せなかったからだ。だが本体意識の失われた佐倉の身体を以前の俺に近づけることによって、徐々に以前の声を取り戻していった。憑りつくとはこういうことだ。体格にそう差がなく、声域も近かったことが幸いした。
職場近くの神社の夏祭りがあるという。
佐倉として生き直し始めた俺は、他部署である彼女に直接の縁はない。それでも伝手を辿ってちらしを配ることはできた。彼女にはきっと伝わるはず。今度こそ、待ち合わせ場所で会えるのだと。
祭囃子が音量を上げて、それに負けないくらいの露店の呼び込み。周囲の話声。けれど俺の耳にはもう、彼女の声しか聞こえない。
「先輩、先輩」
呼びかける彼女の瞳が潤む。
神社の鳥居から境内に入ると、雑踏を離れて、露店もないはずれへと向かう。これだけ人が溢れていたのに、まるで人気のない場所があるのが不思議なほどだ。
「ごめん、蓮花。待たせすぎて。でももう離れないから。ずっと君が好きだ。前も今も」
「わた、わたしもっ、すき……」
しがみついて泣き出した彼女を抱きしめて、ようやく生きている実感がわいた。このために佐倉になったのだ。
「あと、俺、重いから覚悟して? 絶対、離さないし、逃がさないから」
死してなお。執念の果てに返り咲く。それを妄執と呼ばれ、悪霊とそしられようとも。
お盆だから帰ってくる。そしてあちらにもう帰らない。
もっと枝葉を切り捨ててシンプルにするべきだと囁く理性。多分、半分くらいにできるはず。でもしたくないからしません(笑) だって書きたかったの、主人公二人の感情だから。
佐倉氏は来世にGO。




