かほる宇宙
天才天文学者のハルカが開発した、光を辿って宇宙を観察できるゴーグル。月も火星も太陽も目の前に見える画期的な発明だが、遠くを見すぎると意識が戻らなくなる危険があった。ある夜、好奇心に負けたハルカは安全圏を超えてしまい、意識不明に。駆けつけた彼氏の銀河が繰り出した『最後の手段』とは——香る宇宙がハルカを救うSF落語。
ハルカ、という娘がおりまして。
子供の頃から神童と謳われ、飛び級なんかして、難関の工科大学を主席で卒業なんかして。まあ絵に描いたような秀才だったわけです。
ところがこの娘、飾らない性分でしてね。大学に残って天文学の研究を続けているんだけれど、目立った論文もなければ、派手な学会発表もない。マイペースな研究者生活を、のんびりと送っておりました。
神童なんて呼ばれていた頃は、周りの期待やら嫉妬やらで息苦しかったんでしょうな。今のほうがよっぽど幸せだと、本人は思っている。
それもそのはず。彼氏ができたんです。
* * *
彼氏の名前を「銀河」と言いまして。
名前だけ聞くと宇宙規模のスケールを感じますが、中身はまあ、なんともパッとしない男でございます。在宅ワーカーといえば聞こえはいいけれど、要するにフリーター。ネットでできる仕事をAIに任せて、自分は好きなことをしながら日銭を稼ぐような暮らし。
ところがこの銀河くんが、ハルカにとってはえらく居心地がいいらしい。
飾らないところが魅力なんだそうで。
ただし、ガサツなところが玉に瑕。
何かっていうとですね、ハルカの目の前でオナラをブーブーするんです。
外ではまあまあ整った顔でシュッとしてるくせに、二人きりになると四六時中ブーブーやる。もう遠慮の「え」の字もない。
「銀河くん、もう! ほんとにやめて!」
「えー、だって出るもん」
こんな調子。
そんな惚気話を聞かされる周りの人間はですね、
「ごちそうさまです」
と苦笑いするわけです。
* * *
さて、そうは言ってもハルカは大学の研究者ですから、成果がなければお役御免となりかねない。銀河くんの稼ぎを頼れるかっていうと、AIにこき使われてるフリーターの稼ぎですからね。頼れるわけがない。
ハルカの研究というのがちょっと変わっておりまして。
いかに遠くまで宇宙を観察できるか、というテーマなんですが、ハッブル望遠鏡のように光を集めて解析するという方法じゃない。光そのものを辿っていく。
光を辿った先の宇宙の果てを、どこまでも見通してやろうじゃないか、と。
逆転の発想です。
望遠鏡が光を「集める」のに対して、ハルカのやり方は光の道筋を「追いかける」。意識だけが光の経路に沿って飛んでいって、行き先の景色をそのまま見る。体は研究室の椅子に座ったまま。
そして、この研究がついに実を結んだ。
* * *
ハルカが開発したのは、ゴーグル型の装置でした。
頭にかぶると、意識だけがすーっと飛んでいく。
最初に見たのは月の表面。まるで自分が月に降り立ったような景色が目の前に広がった。クレーターの一つ一つ、地平線の向こうに浮かぶ青い地球。
次に火星まで光を辿った。赤い砂漠が果てしなく続いている。
それから太陽に向かった。本来ならあっという間に焼けてチリになるような距離の、太陽の鮮やかな活動が目の前で繰り広げられる。プロミネンスが踊り、黒点が渦を巻いている。目で見ているわけじゃないから眩しくもない。
ハルカは集まった研究者たち一人一人に、ゴーグルを貸して体験させてみせました。
「すごい」
「これは……とんでもないものだ」
研究者たちがざわめいた。当然です。人類がこんな形で宇宙を「見た」ことはないんですから。
興奮した研究者の一人がこう言いました。
「もっと遠くまで見たい。もっと時間をかけて——」
ハルカは険しい顔で遮った。
「それは絶対にやらないでください」
研究室が静まった。
「このゴーグルは光を辿ります。でも遠くへ行くほど、ご自分の意識が光と一緒に拡散していく感覚に襲われるんです。皆さんもそれを体験したと思います。自分がどこにいるのかわからなくなる。自分自身の座標を見失う。そうなったら——戻ってこられなくなるかもしれない」
研究者たちの顔色が変わった。
「だからこのゴーグルはまだ未完成です。この問題を解決するまでは、光を辿る距離を制限してあります。絶対に遠くまで見ないように。安全の確保が、今後の研究課題です。」
* * *
ともあれ、この研究成果のおかげでハルカは大学に籍を置ける見通しが立った。論文の準備やら学会の手続きやらで目の回るような忙しさになりましたが、自分の居場所を確保できた安心感は大きかった。
面白いもんでしてね。「意識が拡散して居場所を見失うことを防ぐ研究」で、自分の居場所を確保する。なんだかできすぎた話ですが、人生ってのはだいたいそんなもんです。
忙しくなったぶん、銀河くんと会えない日が続きました。
「銀河くん、ごめんね。もうちょっとだけ待って」
「いいよいいよ。俺はいつでも暇だから」
こういうところが、銀河くんのいいところでもあり、いまいちなところでもあるわけです。
* * *
事故が起きたのは、ある夜のことでした。
論文もひと段落ついて、気が緩んでいたのでしょう。
ハルカはふと思ったんです。「もう少しだけ先まで見てみよう」と。
太陽系の外。いつもの観察距離より、ほんの少しだけ遠く。自分が設定した安全圏のギリギリを、ちょっとだけ超えてみたかった。研究者の好奇心というやつです。
ゴーグルをかぶった。
光を辿り始めた。
月を超え、火星を超え、木星を超え、もっと先へ。
星の光が四方から押し寄せてきた。
美しかった。
自分がどこにいるのかわからなくなるほど——
突然ハルカの体が、研究室の椅子から崩れ落ちた。
ゴーグルをつけたまま、床に倒れている。目は開いている。だが何も映していない。意識だけが光の果てに飛んでいって、自分の体を見失った。
同僚の研究員は大慌てです。
「ハルカ! ハルカ!」
名前を呼んでも反応がない。肩を揺すっても動かない。ゴーグルを外したいが、外したら意識が完全に切れるかもしれない。外すに外せない。
救急車が呼ばれました。病院に運ばれましたが、こんな症例は前例がない。治療のしようがない。
ハルカは目を開けたまま、どこか途方もなく遠い場所を見ている。
体はここにある。
でも、ハルカはここにいない。
* * *
連絡を受けた銀河くんが、病院に駆けつけました。
病室にはハルカの同僚たちが心配そうに集まっている。
ベッドの上のハルカは、ゴーグルをつけたまま微動だにしない。
「ハルカちゃん?」
銀河がベッドの横に立った。
ハルカの手を握った。
「ハルカちゃん!」
反応がない。
名前を呼んでも、手を握っても、肩を揺すっても。宇宙の果てに飛んでいった意識は、大好きな彼氏の声にも反応しなかった。
病室に重い沈黙が落ちた。
このまま目を覚まさないのかもしれない。そんな空気が、じわりと広がっていく。
銀河は黙ってハルカの顔を見ていた。しばらくして、顔を上げた。
「最後の手段を使います」
同僚たちが固唾を飲んだ。
最後の手段。
光を辿る意識を呼び戻す、何か特別な方法があるのか。
天才の恋人ならではの秘策が——
銀河は姿勢を正した。
目を閉じた。
少し力んだ。
「ブー」
病室が凍りついた。
誰も動けない。
何が起きたのか理解が追いつかない。
銀河はもう一度、力を込めた。
「ぶぶーー」
さらにもうひとひり。今度は長い。堂々たるものでした。
同僚たちは唖然としている。
目の前で起きていることが、現実なのか悪い夢なのか判断がつかない。
病室に、えもいわれぬ香りが広がっていく。
沈黙。
……
…………
「くさい」
「くさい!! もう何してんの銀河くん!!!」
ハルカが飛び起きた。
ゴーグルをむしり取り、銀河の頬を両手でつねった。
「いひゃいいひゃい」
「何回言ったら——もう——ここどこ?!病室!——私、ほんっとに——!!」
ハルカは怒っていた。宇宙の果てから帰ってきた人間の第一声が「くさい」だった。
同僚たちはぽかんとしている。何が起きたのか。
どういう理屈なのか。
光を辿る意識の拡散を、オナラで引き戻した?
理屈はわからない。
だがハルカは起きた。
間違いなく起きた。
銀河の頬をつねりながら、涙をぼろぼろ流して怒っている。
人間の五感のうち、嗅覚だけが脳の記憶と感情の中枢に直結している、という話がありましてね。視覚や聴覚より、匂いのほうがずっと深いところに届くんだそうです。
宇宙の果てで拡散した意識を呼び戻したのは、名前でも声でもなく、彼氏の屁の匂いだった。
馬鹿馬鹿しい話です。
でも、帰る場所ってのは案外そういうもんなのかもしれません。
* * *
銀河は両頬を赤くしながら、にへらと笑いました。
「おかえり、ハルカちゃん」
そう言って、もうひとひり。
「ああくさい!宇宙ってこんな匂いだったのね」
しっかりと抱き合うハルカと銀河。
病室は安堵と愛のニオイで包まれました。
そしてハルカと銀河は、誰もが羨むおしどり夫婦になったそうです。
〈了〉




