異変
サーカスを見終えた頃にはすっかり夜も更けていた。
案の定、馬車待ちの人々で溢れており、仕方なく私は一人、建物の灯りを頼りに帰路についた。
最初は賑わっていた町も、サーカス会場から離れるにつれて人影がまばらになっていく。
歩きながら、私は先ほどのショーを思い返していた。
演者たちは皆、洗練された動きを見せており、相当鍛え上げられていることが分かる。
特に、あの槍使いの男――あれは、実際の戦場に立っても生き残れる戦士の動きだった。纏う気配そのものが、ただ者ではない。
……けれど、あのピエロ。
彼――たぶん男性だろう――の存在だけが、どうにも引っかかる。
誰よりも派手な衣装を身にまとっているのに、誰よりも気配が薄い。観衆のほとんどは彼に注意を向けなかったはずだ。
本当は、あの演目を裏で支えていたのが彼だというのに。
そんな思考に沈んでいるうちに、周囲から人の気配が完全に消えた。
道は静寂に支配され、足音すら自分のものしか聞こえない。
不意に背筋が冷たくなる。
歩幅を広げ、早足で帰ろうとした、そのとき――前方から、人影がゆっくりと近づいてきた。
ポツ、ポツ、と、靴底が石畳を叩く音。
私は足を止め、警戒しながら相手を観察する。
一見すると、どこにでもいそうな中年の男。だが、その目は焦点が定まっておらず、歩き方も不自然だ。身体のバランスが取れているとは思えない。
男は私に気づいた瞬間、突然こちらへ走り出した。
「っ!」
反射的に、私も走り出す。相手が何者か分からない以上、逃げる一択だ。
ジャケットの内ポケットに手を差し入れ、あれを強く握りしめる。そして、すぐ脇にあった細い路地へ飛び込んだ。
……しまった。
行き止まりだ。
引き返そうにも、足音はすでにすぐそこまで迫っている。
私は背を向けぬよう、大通りの方を見据えた。
男が路地に足を踏み入れた、その瞬間――私はあれを投げつけた。
「あ゙ッッ!」
小瓶は男の頭に命中し、割れる。
中から飛び散った茶色の液体が強烈な悪臭を放った。
男は一瞬苦しむように身をよじったが、すぐに体勢を立て直し、再びこちらへ歩いてくる。
……効いていない。
ということは、理性を失い、感覚が鈍っている。
そんな相手に対抗できる手段なんて、私にはない。
(逃げ道……どこかに)
男の手が、もうすぐ届く距離まで迫っていた。
内ポケットには他の小瓶もあるが、効果は期待できない。
一か八か――押しのけて逃げるしかない。
そう決め、男の脇下を狙って走り出す。
だが、男は信じられないほど不自然な動きで身体をひねり、私の首を掴んだ。
背中が壁に叩きつけられる。
締め付ける力は、人間のそれとは思えないほど強い。
抵抗しようとするが、呼吸ができない。
視界が徐々に霞み、身体から力が抜けていく。
冷や汗が流れ、――覚悟を決めかけた、その瞬間。
ヒュッ、と、空気を切り裂く音がした。
次の瞬間、男が崩れ落ちる。
後頭部には、深々とナイフが突き立っていた。
「ケホ、ケホ……っ」
突然解放され、肺に空気が一気に流れ込む。咳が止まらない。
必死に顔を上げると、倒れた男の向こうに、ひとりの人物が立っていた。
暗闇でもはっきり分かる金色の髪。赤と青のオッドアイ。口元は布で覆われているが、その派手な衣装には見覚えがある。
(……サーカスの、ピエロ?)
助けてくれた?
それとも――なぜ、ここに?
疑問が次々と浮かぶが、声にする余裕はなく、私は地面に座り込んだ。
ピエロは倒れた男からナイフを引き抜き、血を払ってから、私に視線を向ける。
「……来い」
「はっ? えっ?!」
次の瞬間、私は彼に担ぎ上げられていた。
そして――帰り道とは、まったく逆の方向へと、連れ去られていく。




